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占い師としての成長日記
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今月は毎日更新!を目指して書いています。昨日は23時まで更新できる状態ではなくて、慌てて携帯から送信をしました(苦笑)。


毎日書くという課題を掲げると、毎日の過ごし方が変わってきます。
何かささいなことがあっても「これは記事にできそうかな?」「これはどういうふうに表現したらいいのかな」「マンネリかな?」といちいち面白いくらいに足元を良く見ます。その中で「これぞ!」というものを見つけ出して言葉にしていく楽しみ、書きあがって理想どおり以上のまとまりなんかがあると、一人悦楽\(⌒▽⌒)/。書きながら「そうかあ・・・」って気づかされたり、自分の中から大事なことが見抜けたりすることもあります。


「皆様に披露する」という意識があるだけで、私の生活の過ごし方も背筋が伸びたような気がするのは気のせいでしょうか?


で、半月やってきて思うことですが、私の日記って、当たり前なんですが、私の私生活のことを書きます。とにかく「私」「私」「私」「思った」「思った」「思った」の連続です。私の日記は「私はこう思った」のオンパレードです(爆)。


正直言って、私の技法はワンパターンかもしれません。私の文章が苦手な人や私を知らない人は読みづらさを感じてしまうかもしれません。
「私」が機関銃のようにしゃべっているみたいで、入りづらさを感じる人もいるでしょう。


もし、もっともっとこの先「私」が何かに目覚め、気づき、私の気持ちだけにとどまらない何かを広く誰かに教えて行きたいと思うような事柄が出てきたら、私としての役割が出てきたということになるのでしょうか。誰もが尊いひとりの存在。私の想いも大事なもの。自分の想いを大事になぞることで、いつか他の人の想いや存在にも目を向けられるようになるのだろうと信じ、また毎日自らの言葉を綴ってみます。


昔の日記帳を先日見つけてしまいましたが、見たいような見たくないような・・・そんな気持ちでつい開けちゃいました。飛び込んできたのは、苦悩と劣等感につぶされそうな若き日の私。それこそ「私はダメだ・・・」「やっぱりダメなのかな」のオンパレード。「私」「私」「ダメ」「つらい」の羅列でした。すぐに閉じました(爆)お恥ずかしい。


私を大事にしていなかった自分が、15年経てば変わるんですよね。
あの頃は書くことで何を言いたかったんだろう?誰かに見せるわけでもない、自分の心の暗部がそこにありました。今の私の書く目的は、私という人間をもっと知りたい。何が私を暗くさせていたのか。何のために私は生きるのか。どんな使命があってこの世にいるのか。少なくとも恋愛ノイローゼを乗り越え、今の自分になった意味を知りたい。うつむかないで、受け入れるために。


こんな真面目で暗い話をいちいち口にしていたら、誰も近寄ってこないだろうという確信があります。だって、こんな堅い話ばかりを口にされたら私だって逃げます(^-^;だから、私は書くことが好きという宝物を持たせてもらえたのかもしれませんね(笑)。
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パソコンを開く気力がないので携帯からお知らせします。今日は日中メルマガの原稿作成と仕事に追われ、夜は息子のキャンプの荷造りに追われ、気づけばこんな時間に…毎月20日は輝夜師匠と私のメルマガの締め切り日なんです。今月も没頭して書いてます。毎月の記事ですが、いろいろ書きたい事満載で、つい長くなってしまいます(^_^;)でも、輝夜師匠と添削しあい、無事に手続きが終わると、達成感がありますね。言葉で発信するメルマガは私にとって、現在地点の自分が良く見えて来る地図のようなもの。
良かったらメールマガジンのカテゴリーから購読申し込みしてくださいね。メルマガに、自信あり!!!です。いつも書く事は全力投球!!何かを感じて頂けるとこの上なく、嬉しいですね。
さて、オリンピックを見ていると、選手が引退表明をしたりしますがレスリングの浜口京子選手が現役続行をこう表明しました。「やっぱりレスリングは楽しいです。やりたいです。やらせてください。」鼻の複雑骨折に、オリンピックの代表まで危ぶまれたり、レスリングを続ける事はつらいことばかりかもしれない。年齢も現在30歳。次のロンドンでは34歳になってしまうから不利かもしれないのに、現役続行の質問に浜口京子選手は即答でした。楽しんで、打ち込んで、辛さを知った上で、また頑張ろうと誓う彼女の笑顔に、私は涙が出ました。好きな道を見つけて、自分と戦っていく方はとても強いです。そして、勇気を引き出してくれます。ありがとう!




実家に帰ると、途端に「だらしないモード」全開になってしまう私は、本当に家の中でマグロのように横たわって過ごしています。夫は「どこか遊びに行こう」と言うのですが、冗談じゃありません。今休んでおかないと、結局東京に戻ってから、休息などなかなか得られないのです。高い交通費をかけて昼寝に実家に戻ったのか、と言われてしまうくらい、寝ています。仕事を休みにしているので疲れているはずはないのですが、暇があればゴロゴロして寝て、オリンピックを見てまた寝て・・・


きっと母は何も言いませんが「これで毎日ちゃんとやっているのかしら?」と不安になっているに違いありませんね。大丈夫です。敷居をまたげば、ちゃんとモードが切り替わります。女って、すごいですよね。


でも今日は灯篭流し&花火大会だったので、出かけてきました。
田舎なのにすごい人手でしたが、目の前で打たれる花火に大感激!ああ、めんどくさがらずに出てきてよかった・・・と思いつつ、花火を満喫できました。これでとりあえず「何もしない母」は脱却です。


花火が打たれている場所は、天竜川が流れ、目の前は山が遠くに見えて、開けています。とても気持ちのよい場所でした。席を確保するために早くから行ったので、青い空と白い雲も良く見えました。


風と空と水と緑がある場所は、絶対に人をさわやかな気持ちにさせます。
そしてさえぎるもののない広がる景色は、人を前向きな気持ちにさせる力が絶対にあるでしょうね。こんな美しい環境を見ながら暮らせる田舎の人はとてもうらやましいです。田舎は不景気で、閉じた会社や工場、ガラガラの商店街といった負の部分ばかりが目に付いてしまい、悲しいものを感じてしまうことも多いのですが、でも何ものにも及ばない、自然と言う最高のステージがある強みを生かして、どうか活気付いて欲しいと思います。
あまりにも当たり前の風景になりすぎていて、美しい風景とはどんな知恵も及ばない最高の恩恵などとは考えられないのかもしれませんね。


私も・・・当たり前のように夏や冬の休みには実家に帰りゆっくりさせていただいてますが、これはとてもとても恵まれていることだと思っています。


東京にはない美しいアルプスの山並みに、天竜川が作り出している段丘の町。こんな場所で多感な時期を過ごせたことは何よりも楽しかった。
今も、こうしてたまに帰省すれば、それを喜んで迎えてくれる両親がいて、両親がどちらも健在であること。私自身もそう。


実家で休ませてもらえるなんて、本当に贅沢ですよね。


私はまだいろんな部分で、親に甘えてしまっている部分も多いのですが、親が健康でいてくれることが何よりもありがたいことです。兄も私も田舎に生活の拠点を置いていないのが、心配の種ですが・・・でも今更引き返すこともできません。今いる場所でできる限りのことをしてあげることしかできませんが、実家の暖簾をくぐるとつい「娘」になってしまうんですね・・・。


この土地にはいろんな思い出や、親の存在や、美しい景色があって、やっぱり私にとって世界で一番特別な場所かもしれません。でも、不思議なことに、「ここはもう自分の生きる場所ではない」と言う感覚もあります。たまにパワーチャージに戻る場所であって、私はこの土地の人間ではない。悲しいけれど、切り離されたと言う感覚もちゃんとあります。今住んでいる場所がやっぱり現在の私のステージなんですよね。助けてくれる親もいなくても、ここで根を張るって決めた場所が私の生きる場所になっています。それが故郷ではなかっただけです(たまに子供が具合を悪くして仕事を休むのが続くときは、親のそばで生活できる人たちがうらやましくもなりますが)。


何をする気にもなれず、ゴロゴロしていますが、これも本当に恵まれているゴロゴロです。プラチナ級のゴロゴロですよね(笑)。


明日の夜帰京です。また占い師として、ヒーラーとして、弟子として、母として、自分との戦いですよ。
思えば、私の人生は劣等感と切っても切り離せない場所をいつも歩いてきた。


生れ落ちた環境では、いつも明るく人気者の兄と、暗くて友達も満足にできなかった自分。
兄はとりたててカッコよくもないし、有名人で言えばエディー・マーフィーを日本人にした感じで、背も低かったし、成績だって普通だったのだ(失礼!)。でも面白いくらいに、クラスの、いや学年中の人気者になってしまう。兄の名前を知らない人はいないくらいに。本当に不思議だった。小さい頃から、兄はいつもみんなから好かれる人物だった。親戚中でも兄は期待の的だったと思う。兄は自慢であると同時に、私は強い嫉妬にさいなまされてしまった。


私はつくづく思う。女でよかった。もし弟として生まれてきていたのなら、屈折しまくって、気が変になっていたかもしれない。「男だから」という自分なりの逃げ道を作って、私は輝いている兄を見つめていた。


女としても全然ダメダメだった。
その一行に尽きる。


大食いで早食いの家で育ち、小さい頃から肥満細胞とすっかり仲良しで、いつもふっくらおでぶちゃん。それにめがねと、重たい一重まぶた。顔に目立つほくろまでついてて、絵に描いたようなオデブキャラだった。
女の子同士でギャーギャー騒いだりするのは大好きだった。
でも、その場所に一名でも雄が混じると、全然苦手になる。男の人の前で、いくつになっても自分の「女」という部分にまるで自信が持てない。
だから私には、自分を「女」として見ないような夫が来たんだろうか(苦笑)・・・まあそれは推測のし過ぎかも知れないが。


好きだった男性からいつも言われる振られ言葉。「きみって、いい子なんだけどね・・・」
でも・・・その飲み込んだ言葉のあとに何が続くのかはわかっていた。
「言うことを聞き過ぎるんだよ。」


男性に対してうまく振舞えない私は、男性のいいなりになってしまって、余計に自分をうまく出せなかった。次々と結婚していく友達を尻目に、私は恋愛以前に、男性との関わり方がものすごく下手くそすぎて、本当に恋愛ってどういうものなのかよくわからない状態だった。


魅力というか、特別な何かがあるわけでもない。美貌も、女としての自信も。
えこひいきされることなんて一回もなかった。職場でも、すぐに落ち込む気質を見破られたのか、きつく当たられたこともあった。後輩になめられたこともあった。


結婚して子供を持っても、私には新しく「子育て」というステージでの劣等感が用意されていた。それももっとディープなものが。生活レベルだったり、わが子との接し方だったり・・・。子育て中なんて、絶好の劣等感の培養期だった。比較対象はいくらでもあったからだ。


じゃあ占いという道ではどうなのか。
やっぱりここでも、他人と自分を比較したり、自分のスタンスに自信が持てないままここまで走ってきてしまった。
人気のある鑑定士さんと自分を比べたり、鑑定のあとで「この人はもう私なんかじゃ駄目だろうな」と自分の力のなさを嘆いたり、師弟関係でもそうだった。そもそも端から師匠に及ばないのだから「弟子」という立場なのに、いつも師匠のすごさと自分を比べて落ち込んでいた。師匠と比べるのもそもそもおかしいのに。師匠だって最初から師匠だったわけではなくて、あらゆる葛藤を乗り越えて立ち上がったからこそ人を導くという道に入ったのに、私はその部分さえも見えないまま比べては、自分の価値を下げていた。


そしたら、いつのまにか私は30後半になり、気がつけば人生の折り返し地点に入ってしまった。劣等感で塗られた私の基盤を、今後も続けていくのだろうか。劣等感があったからこそ頑張ったことも確かにある。でも、最後には劣等感に喰われている。


劣等感はいつもいつも私のそばでその出現チャンスをうかがっていたように思う。


いや・・・違う。
私はいつも劣等感が服を着て歩いているような、そんな魂そのものかもしれない。


「どうして他の人にできることが、私にはできないんだろう。」
「どうして私ばっかりこんなことになってしまうんだろう。」
「何が私の強みなんだろう。」


ずっと自分という人間が、弱くて脆くて、腐った根っこを持っている気がしてならなかった。若い頃はそれを運命のせいだと思っていた。だから私は自分の上を流れている運命を知りたくて、占いという学問に入ったのだと思う。


でも・・・・


占いを学ぶほど、輝夜師匠からご指導を受けるほど、気づかなければならない残酷な真実があることに気づいていく。
運命は確かにあるのかもしれないが、劣等感は運命ではなく、自己の内側にしかないということがわかる。誰がもたらすのでもない。何かと自分を比べて落ち込んで暗くなるという流れは、自分の心の中にしか存在しない。
人を呪いたくなるような、辛い運命の仕業というものもあるかもしれないが、他人に不幸にされた経験よりも、圧倒的に、自分で自分を不幸にしている経験のほうが多いのだ。運命は変えることができる。占いは確かにその人の頭の上を流れている運気を言い当てることができるけれど、だからそのとおりに進むわけではない。歩くのは運命ではなくて、人間である私たちだ。いくらでも、運命に戦いを挑むチャンスは用意されている。
でも、愚かな私は、運命に戦いを挑む前に、自分がもう駄目な人間なんだと烙印を押し、挑戦することすらやめてしまう。


劣等感をバネに這い上がることができるならば、まだ救いがあるが、劣等感に潰され、自分の人生を放棄するような諦めをしてしまったら、もう運命は変えられない。


私はまず「劣等感」の塊である自分を見つめなおそうと思っている。
そこから「だから私は駄目なんだ」という流れに流されてしまうことが、今までの私だった。
ただ、私は知ったのだ。「運命は変えられる。努力こそが大事なのだ。ひたむきに自分を信じることができるのかが問われる。」ことを。


不細工でブスでデブで、暗くて、たいした頭もない女だけれど、だからこそ見えてくるものがあるだろう。


ただ、面白いと思うのは、神様はたったひとつでも、その人に「好物」を与えてくださっているということ。
私は小さい頃からなぜか、書くことが大好きだった。兄に何もかもかなわなかったけれど、「お前は書くことが上手だな」と言われたことは良く覚えている。下手だったと思うけれど、書くときはいつも全力投球だった。書きあがった後の爽快感は幼い頃から今まで変わらずに私の中に存在している。


それに今まで救われてきた。数々の劣等感も。行き場のない思いも。
もし「書くこと」を誰かと比べ始めたら、私はもうとことん落ち込んでしまうだろう。書くことに関して、なぜか私は「下手でもいいから」という気持ちになれる。「下手でもいいから、正直に書こう」とアクセルが踏める。きっと、こんなに暗く考えてしまう私でさえこんな幸せな救いがあるのだから、人間誰もみんなそんな幸せな手段をちゃんと持って生まれてきているように思える。


劣等生だった自分の中で唯一の救い。
「下手でもいいから、一生懸命に書いてみよう。」という気持ちは、一つの生きるヒントだった。


私たちの内面には、現状を乗り越えて生きられるヒントがたくさん隠れている。
劣等感を山積みしていると、そのヒントに気づけなくなってしまう。


私は劣等感の塊だった自分を否定しない。
でも、これからもそうではいたくないと思う。
少なくとも「劣等感を極めました(笑)」といって卒業したい。

夏休みに入ったので、できるだけ普段はできないことをしたり、普段遊べない人たちと約束したりしようと動いています。そのうちの重要な部分を占めているのが、息子の幼稚園時代の友達です。


息子は三月生まれだったので、幼稚園に入るときは「とにかく融通が利く」「軍隊のような幼稚園は駄目」という部分で幼稚園を決めました。
決めた幼稚園は家のすぐ近くで、キリスト教系の幼稚園で、歴史があり、とても評判がいい幼稚園でした。入園前に遊んでいたお友達が「Hくん(息子の名前)には絶対あの幼稚園がいいよ。すごく合っていると思うよ。」と勧めてくれました。勧めてくれた友達は一番上の息子さんをその幼稚園に入園させていたのです。親子ともにとてもいい幼稚園時代を過ごさせて貰ったこと、園長先生の教育者としての姿勢や想いのことをよく教えてもらいました。ただ、そのお友達は、残念ながら入園前に引っ越してしまったのですが・・・。息子と下の娘さんは一緒に入園することができず、離れ離れになってしまいました。私をその幼稚園に導いてくださった方は、本当にとてもいいお母さんで、いつもニコニコしている心の優しい方でした。そんなお母さんが勧める幼稚園なら・・・間違いはないだろうと思って決めたのですね。


しかし、その幼稚園に入ってから、私の中でいろんな悩みが一気に吹き出ました。子供のことでいっぱいいっぱいになり、悩みで終わりそうになりました。なぜこの幼稚園がおススメなのか、なぜこの幼稚園が評判のいい幼稚園であるのか、理由がわからなくなってきました。転園も考えて、他の幼稚園の説明会にも出たことがあるくらいです。


現在の幼稚園事情とはちょっと時代遅れ?的な部分があったかもしれませんね。月曜日と金曜日は午前保育のみ(これは年長になってもそうでした)。火曜日から木曜日まではお弁当持参。給食はないです。夏休みなどは預かり保育などもなく、徒歩通学が基本。園バスはありません。必ず保護者は幼稚園に行かねばなりません。
行事の保護者の手伝いは、義務ではないにせよ、ほとんどのお母さんが手伝いに入ります。
月に一度の誕生日会のときは、その誕生日月のお母さんたちが手作りのおやつを作ってあげます。ちなみに三月は蒸しパンで、私は三年間蒸しパンを作りました。自分のお子さんが三月生まれでなくても、いろんなお母さんが手伝いに入ってくれました。蒸しパンの準備も用意も全部保護者が話し合って決めます。まさに煩わしいの極致にあるといっていいかもしれません。特に下に子供を抱えたお母さんが、こういった作業にも参加したりするのは大変です。妊婦さんだっています。人間関係が苦手なお母さんだっていると思います(私ですが)。そんな人は話し合いだの、準備だのでいつも幼稚園に行くのはすごく苦痛かもしれません。


園バスが迎えに来て、親が幼稚園に出向くこともほとんどない、給食がでて、園に体操教室や英語教室、スイミングスクールと提携があるといういわゆる今時の幼稚園とは、まったく正反対の幼稚園です。


毎日園で顔を合わせていれば、おのずといろんなお母さんがいることがわかります。子供の成長やそれぞれの性質も、見たくなくても見えてしまったりします。三月生まれでちっとも幼稚園になじめない甘えん坊息子のこと。生活レベルの違い。格差。うまくお母さんたちの輪に入れない自分。そんなものを送迎の一日二回見ていれば、幼稚園が苦痛になり、行事のたびに落ち込むような状態になってしまいます。


月曜日と金曜日が、11:30で幼稚園が終わってしまうというのも、すごく苦痛でした。そうなると「誰と遊ぶ」ということになるし、誘った、誘わない。そんな繊細なつきあい方がとても難しく、それが週に二日もあるのです。


でも・・・なぜ月曜日と金曜日が午前保育なのか。
子供は週末の疲れを月曜日に残しているし、金曜日は週の遊び疲れが出やすいからです。園で過ごすよりも、親と一緒に今この時をゆっくり過ごしてほしい、そんな想いが保育時間の短さに現れています。


私が苦手だった徒歩の送迎は、幼稚園の空気や先生たちと仲良くなってほしいという幼稚園側の想いであり、送迎をすれば、他の子供やお母さんたちとの交流も増え、いろんなことを学ぶことになります。自分の子供だけではなく、他の子の成長も三年間、つぶさにみることができます。
皮肉にも、在園している間、私はその利点に気づかないままでした。息子の追いつかない部分ばかりが目に入っていたせいです。息子は私を見ると飛びついてきてずっと抱っこです。そんな男の子は一人もいません(苦笑)。みんな園庭で遊びまわっています。めげました。何度も・・・。


なぜこの幼稚園がすばらしいといわれるのかわからない。何もないじゃないか。園庭は猫の額よりも狭く(都心ですから仕方ないです)特別な何かがあるわけではない。手間ばっかりかけて、母親が大変なだけじゃないか。人間関係が濃くて、失敗したら大変じゃないか。親がいろいろしなければ行事が回っていかないなんておかしいじゃないか。


この幼稚園はとにかく「手がかかる」のです。幼稚園に入れたからラクだったということは一回もなかった。心悩ます日々、親同士の絡み合いで悩む日々、子供の成長を比べて落ち込む日々。


でも、私が幼稚園の行事を手伝っている姿を見る息子の顔はとびっきり嬉しそうでした。何度も何度も私の顔を見ては手を降り、ニコニコしてくれました。蒸しパンをかじりつきながら、彼は安心して教室の中で座っていたのです。そして、他のお母さんたちが「Hくんはしっかりしてきたね」
「あの時は大変だったよね」「三月生まれだけど、一年生になっても大丈夫よ」って、それこそ恵みの雨のように、たくさんの励ましを受けました。毎日顔を合わせるということは、成長もまた同時に味わえるということだったんです。自分の子供だけではなく、他の子供たちの成長もまた一緒に祝うことができる。それは、母親としての成長でもあるのです。私の至らない部分や深い劣等感を埋めてくれるかのように、多くのお母さんたちが息子を温かいまなざしで見つめてくれました。


残念ながら、息子はみんなと一緒の小学校に通うことができず、一人別天地での小学校の入学でした。
どんなに心細かったことでしょう。


その小学校の入学式で幼稚園から祝電が、たったひとりの息子のためにわざわざ届けられていました。「こころをつよくしていなさい」という聖書の一節が祝電に書かれていました。この言葉で孤独だった息子の気持ちがどれほど救われたか。幼稚園のきめの細やかさを強く感じました。そしてその愛情溢れる保育の中で三年をすごした彼ならば、どんな環境でも耐え抜く力があるのだと、確信できました。


娘は保育園に入っています。息子の幼稚園とは180度違う世界で、お母さんたちとのややこしい関わりも、園の手伝いもまったくありませんし、見えないから成長の違いに悩むこともないのです。でも、あと何ヶ月か後にせまった娘の卒園式で、私は幼稚園と同じようにあらゆる思いに身がつまされて泣くことはできないでしょう。手をかけていないからかもしれません(ごめんね)。手をかけるということは、手間をかけるということ。そしてその間は苦労や悩みがつきまとっても、それだけ得るものは大きく、子供にとっても親にとっても、一生の宝となるのです。


小学校二年生になった息子。
そして私にとっての大切なママ友達は、幼稚園時代の友達です。まさか自分が人間関係を築けるとは夢にも思っていませんでしたが、濃い人間関係を泳ぐうち、自分にとって大事なものを共有できるもの、「類は友を呼ぶ」との諺のとおり、私にとってはもう一つ、育児という青春時代を送った戦友を幼稚園時代で得ることができました。


幼稚園バスのつきあいだったら、ここまでできなかったでしょうね。


卒業して初めて、「あの幼稚園でよかった」と思えるものをいっぱいいただきました。息子は新天地で、陰に隠れることなく、自分らしくマイペースに集団の中で生活できています。たまに幼稚園時代の友達に会うと、環境の違いなどまったく関係なく、違和感なく遊びます。彼にとってもまた、心の幼馴染なんでしょうね。「僕には心の安全基地がある。距離が離れていても、大好きな友達が僕にはいる。」そんな想いが彼の強さになっていると思うのです。それは、私にも言えることでした。


幼稚園を通して感じたものは、煩わしく、苦悩をともなう環境は、実はすごくありがたいものなのだということ。
私は自分が母として立ち向かった幼稚園時代の苦悩を一生忘れることはないと思います。ホントに、あの頃は暗い顔をしていて、月曜日と金曜日が大嫌いだった(苦笑)。でも、母親たちに手をかけさせたあの幼稚園でよかったと、自分をあの環境に導いてくれた出会いに感謝です。幼稚園は少子化が進み、経営が大変かもしれませんが、時代遅れだと笑われてもいいから、愛のある保育を貫いてほしいですね。


働いているので保育園の力を借りざるを得ないのですが、娘には息子ほど手をかけてあげていないので、それが私の心残りです。だからせめて、私だけでも彼女の心の基地になってあげないといけないな・・・って。


先日、幼稚園のお友達と遊ぶ機会が続きました。あのときの人間関係の苦悩が嘘のように、私にとってとてもかけがえないものをいただける関係ができました。そしてこれは、私にとって一生続いていく「基盤」になるのでしょう。いっぱい泣いて、いっぱい苦しんで・・・あの濃密な三年間はもう二度と来ません。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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