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占い師としての成長日記
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「たったひとり・でもたったひとり」


ずっと長い間
私は私が好きじゃなかった
そのくせ
問題があると真っ先に自分を守っていた


この矛盾を抱えた自分が嫌いだった


それでもいつも空は青く
この世界はたくさんの人であふれている
私はその中で自分らしさを探し続けて
自分を愛せるための条件を探していた


資格をいくつ取得したとか
お金がいくらたまったからとか
友達が何人できたとか
仕事の成績がいいこととか
子供の出来がいいこととか
歳より若く見られることとか


それを達成しないと
私は私を受け入れられないとずっと思い込んでいた


私らしく生きるって言葉を信じてきた
だけど
私が私でいる
ここに立っている
ということだけで
もう十分、私らしく生きていることの証なのだ


人生に条件をつけるのは
やめてみよう


私はここにいる
それだけでもう世界の一部になるのだから


そして
誰かの世界の一部になっているのだから
このままでいいんだ


そう思ったとき
ようやく自分の足で立てる気がした





今日はいい天気でしたね~~~


夫は仕事、息子は野球、なので半日だけですが急遽お仕事をいれ、娘は半日だけ学童保育にお願いしました。学童の送迎は親が原則として行うので、お仕事が終わった後、野球から帰ってきた息子と学童館へとお迎えに行きました。いつも車で行く道をゆっくりと子供と一緒に歩くと、気持ちよい春の空気を肌で感じ取ることができます。


他の子供のことと比べようもないのですが、我が家の子供たちは私と一緒に歩くときはとにかく手をつなぎたがります。6歳の娘はともかくとして、8歳(小学校3年)の息子も・・・。さあ、歩くぞ!とアクションと同時に手がつながってきます。あと二年位したら、息子もそんなことしなくなるんだろうな・・・と思って、手をつないであげるんですが(甘やかしているのかしら?・笑)それですごく満足げに歩いているので、まあ、甘やかしと言われても仕方ないかな?と思いつつ・・・。


思ったんですね。
子供たちはどんな私であっても私のことが好きなんだなあって。
私は迷い、葛藤があり、できないことばかり目に付いて、ダメな部分をいっぱい持っているけれど、でも子供は私にそれを直せとは言わないし、こんなふうに私を受け入れてくれるんですよ。
もちろん自分の母親だからと言うこともあるかもしれませんが、私が思う「こんな私」なのにもかかわらず、彼らは私をとても大事に思ってくれるんだなって・・・。
私も自分のことをただただ、認めてあげようと思ったんですね。


私の知人が最近、メールでとても素敵なことを教えてくれました。
「人間の心って本当によくできていて、心の本質は愛なんだよね。」


そして輝夜師匠にもこう教えていただきました。
「感情は過ちを犯す。でも、愛は過ちを犯さない。」


そんなことを考える機会に恵まれ、私なりにその「愛ってなんだ?」と言うことを模索している最中なんですが、愛って、少なくとも条件ではないということがわかりました。
「○×ができるから好き」ということではないということ・・・。
じゃあ、どうすれば自分を認められるのか。
その答えを探しながら、この詩を書きました。


話は変わりますが、実は明日、念願の槇原敬之さんのコンサートに行くのです!
衝動的にチケットを予約して半年待ったコンサートです。実に10年以上ぶりに・・・。
この彼の歌にこんな一節があります。


もしもこの世界のすべてが
言葉を話せるのなら
君の事を大事に思っていると
口を揃えて言うのだろう


君の事を大事に思っている
君に聞こえない言葉で

We love you


「たったひとり・でもたったひとり」を詩にしながら、この歌を思い出しました。明日は彼の歌声を聞きながら、また私の言葉をつむごうと思います。


こうやってつむぎたい言葉が湧き上がる・・・そんな瞬間は私の中でしか起きません。その動きを切り取って、かけがえのない私を知りたいと思います。
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「私への手紙」


こんなふうにいつもそばにいてくれて
生まれたときの声も覚えてくれているのに
いつの間にか
勝手に大きくなってしまった気がしていた
誰よりも私のことを知っている私に
私の声を届けよう


いつからだろう
私は私が嫌いになっていた
腫れぼったい一重まぶた
低い鼻筋にだんごっ鼻
いつも友達の後ろをついていくだけ
主張もできなくてウロウロオロオロ
あの頃の気弱な私は
今も健在


もしあなたが私の友達だったら
あなたは私をなんて評価する?
きっと「暗くてつまらない上に厳しいヤツ」って言うよね
絶対誉めてくれない
絶対文句をつけて、自分は未熟だという
謙虚を越えた卑屈で
いつも人と接している


私は声を出して叫んでいた
私は私でしか生きられないのに
私のことが気に入らないのよ どうすればいいの?
もっとかわいかったらいいのに
もっと穏やかで親切だったらいいのに
もっと頭の回転が速かったらいいのに
そうやっていつも注文をする
いつのまにか
自分で自分を否定するようになって
叫ぶ気力は嘆きに変わっていた


でも誰とも代わらない、代えられない
世界にひとつだけの私
こんな自分でいいんだと思える私になりたい
そんな当たり前のことに
ようやく気づいたらアラフォーな私(笑)


でも、よくぞ気づいたよ、この私(拍手!)


今まで散々痛めつけてしまってごめんね
何度謝っても足りないし、許してもらえないかな?
気をつけるよ
このナイフを今ここで
目の前で捨てるから


そしてこのナイフは、道を切り開くためのナイフに変えよう
また一緒に最期まで歩いていこう
もう「駄目だな」なんて言わないよ
他と比べて、叩いたりなんかしないよ
自分を信じていくから
あなたが私を信じてくれていたように
私もあなたを信じてみるよ


「いつもそばにいてくれたんだね。ありがとう。」


解説・・・
最近、子供を通じて自分の脆さや弱さ、強い自己否定感が根底にあることを思い知らされることが続きました。
「どうしてできないの!」
「他の子のほうがうんと上手じゃない。」
「きっとうまくいきっこない。失敗するはず。」
「もっとこうだったらいいのに・・・」
こんな感情がいつも私のど真ん中にあって、行く手をさえぎります。


当たり前ですが、こんな風に育てられたら、自分の子供も私と同じように、根強い劣等感を持って育ってしまうでしょう。たとえば息子の身長ひとつとっても、すごく気にしてしまう自分がいます。そんなふうに身長のことを、まるで罪のように親が気にかけていたら、子供が本当に可哀想ではないですか、と輝夜師匠にご指摘を受けて、でもそれがなかなか改善できなくて、いつも「身長が大きくなるにはどうしたらいいのだろう」とそちらのほうばかりに気をとられてしまっていました。


子供への対応の仕方は、自分自身への言葉のかけ方と同じものがあります。
『もっとこうだったらもっといいのに・・・』
いつも私は自分をそういう目で見ているんですね。


息子がボーイスカウトを辞めたいと言い出しました。理由は野球がやりたいから。そしてボーイスカウトがどうしても辛いから。ボーイスカウトで上級生の子からからかわれているのが苦痛だったのですが、周囲となじめなかった息子は、その上級生との苦い関係を忘れられるような人間関係をその中で作ることが出来なかったんですね。すでに仲の良かった輪に入っていくのはとても大変だったんでしょう。
そしてなぜ野球がやりたいのかを聞きました。野球チームには同じクラスのA君が所属していて、A君は運動神経が抜群に良くて足も速いし、根っからの野球少年です。息子はA君のことが憧れの対象なのか、好きなんですよね。だから野球をやりたいのだと思ったんです。
「A君に誘われたから野球がやりたいの?野球が好きだからやらないと続かないよ!」
そう責めた私に息子はこういいました。
「僕は休み時間とかみんなと遊ぶけど、足は遅いし、投げるのも上手じゃない。そしたらA君がさ、『野球をやれば上手く投げられるようになるし、足も速くなるよ』って誘ってくれたんだ。僕は強くなりたい。レギュラーになれなくてもいいからA君と一緒に野球がしたいんだ。」
私は返す言葉がありませんでした。
息子が自分の気持ちをきちんと言葉に出来たことは良かったのかもしれません。しかしそれ以上にショックを受けたのは、いつの間にか息子は自分ができないことに目を向けるようになってしまったこと、そうさせてしまったのは他ならぬ私のせいなんじゃないかって・・・。
ボーイスカウトよりも野球のほうが辛い場面もあるかもしれません。レギュラー争いだってあるし(それはボーイスカウトにはない、運動系習い事の試練ですね)、拘束時間が長い上に、厳しいです。だけど「僕は強くなりたい」と決めたのだから、そこで「でもお前は下手くそだぞ!年下の子に負けてもいいの?」と言ってしまったら最後だよね・・・なんて思ってしまった。でも言葉にしなかっただけで、私はいつもこんなふうに、自分のことを責めてしまうし、息子のこともつい同じ目線で捉えてしまいます。そんなことをしていたら、息子も私と同じように「自分なんか何をやってもどうせ駄目なんだ」と思うようになってしまう・・・。「背が低いから駄目なんだ。足が遅いから駄目なんだ。」そんな風に自分に駄目出しの人生を送ることになるのは、どれほどそれが辛く、救いがないのかは私自身が今よくわかっているのに・・・。息子にはいつもうつむいてしまうような人生を歩いて欲しくない。
でもそのためには今の私が、堂々と胸を張って歩くことが最初にできなくてはならないんですよね・・・。


自分の最高の理解者は自分なんだ。
これは3/7付の輝夜師匠のブログから教えられたことと、息子のこの野球の話と、今の自分の現状の危機感とかぶりました(偶然にも3/7は息子の誕生日。これも何かのご縁?!)。


私は自分という最高の相棒を今まで責めて責めて、メッタ刺しにしていたんですね。これは輝夜師匠にもよく言われてきました。本当にそのとおりです。


でもその弊害が愛する子供たちに及ぼうとしている・・・こんな悲しいことはありません。
私は自分で自分を嫌うという不幸、認められないという不満がどれほど悪い影響を及ぼすのかを知りながら、そのバトンを息子に渡してしまうところでした。愛するということはすべてを受け止めてあげること。「○○が出来るから愛している」「背が高いから愛している」・・・それは愛じゃなくて欲ですよね・・・。見栄だったり、優越感だったり。その条件がなくなってしまったら愛せないってことです。


私は今の息子が背が低くても、足が遅くても、怒りっぽくて短気でも、息子のことを愛しているのに。
その気持ちをちゃんと伝えないと、劣等感ばかりを増長させて息子に大切なものを感じてもらえないまま終わってしまいます。根っこの私はとにかく息子がかわいいし、いてくれるだけで嬉しいって思っているのに、外を見てしまうと、すぐにその愛情を翻して、「もっと頑張らないと駄目じゃない!」と激変するのです(苦笑)。自分に向けてもそうです。「何だよ~他のお母さんたちはもっと子供に手をかけて頑張っているんだから、これじゃ駄目だよ~」とかね。


不細工でも、おデブでも、いろんなことが未発達で、占い師としてまだ半人前で、なかなか説得力も持てないけれど、そんな私が好きだからもっと善くしていこうと思う気持ちこそが大事。そのためにはまず、自分を殺さないことが本当に大事。ようやく、この一歩がどれほど大事な一歩なのかを知ることが出来たのです。そんな想いでこの詩を書き上げました。
『僕のちから』


「最近忙しい」という言葉を
「ありがとう」よりも
いっぱい発信している


そんな自分の生活がやばいと思っていたんだ


コンビニでちょっとだけ買い物
なんてことはないただの買い物
おつりは10円
「ありがとうございました」と共に
手のひらにゆっくりと渡される丸いもの


久しぶりに「ありがとう」を聞いた
僕はその人の顔を見た


あんなふうに僕は笑っているだろうか
働いている その現場で


僕はこんなふうに
込めた想いで
誰かをハッとさせているだろうか


おつりをしまいながら
僕も「ありがとう」と頭を下げた
その人はまた微笑んでくれた


そんなことが僕の人生に訪れてくれる


僕は無力な人間
権力も学力も財力も体力も顔力も
縁がないけど
言葉で誰かにお礼が言える
誰かの優しさに気づくことができるハートが
まだしっかりとここにある


だから 大丈夫だ



2009.2.12 BY雨音
近所によく行くコンビニがあるんですが、ここの店員さんは全員が、と言ってもいいくらい、気持ちのよい応対をしてくださるんですね。特に午前中のシフトの方は花マルをあげたいくらいです。おつりひとつ受け取るのもさわやかで、にこやかなんですね。お仕事が楽しそうなんですよ!
そんなやりとりを思い出しながら、ここのところ誰かに心をこめて「ありがとう」って言っているかな?という意味をこめてこの詩を作ってみました。私はお仕事でお客様と電話でお話しすることになりますが、最後に必ず挨拶は心をこめて伝えるようにしています。「ありがとうございました」・・・その中にはご縁を持ててありがとう、ご縁をつないでくださってありがとう、これからこの方が今の問題を逃げずにクリアできますように・・・とさまざまな想いを祈りをこめて発声しています。しかし、身近な家族にはつい「ありがとう」って言わなくなっていくんですよね。一番接点が多いのに。ありがとうって家族間で言うと新鮮だったりする(^-^;。本当はもっと自然に言葉が出れば一番だと思っています・・・。言葉には力があります。その力を受け入れ、いい方向性に持っていける自分でありたいと言う願いを「僕」に託してみました。
1/20のブログで槇原敬之さんの歌詞に感銘を受けたという記事を載せましたが、「優しい歌が歌えない」という歌詞を読んで、私の中にむくむくと「私もマッキーみたいに書きたい!」という欲求が生まれてくるのを感じました(笑)。


下手でも何でも良いから、私もこの歌詞に対して私の詩を書こう。
そんな気持ちになったのです。


実はこうした詩は、20代の前半のころ、本当によく書き上げていました・・・言い足りない思い。やるせなさ。自分への憤り。伝えきれない恋の想い・・・私は楽器が弾けません。なので歌詞と呼ぶにはあまりにも秩序のない詩でしたが、作詞家になったつもりで、何遍もの詩を作ってきたのです。今その詩たちは10年以上も眠ったまま、実家の押入れで時を止めていることでしょう。


なので、今回は心のままに、私なりの詩を書かせていただきました。
下手クソですが、目を通していただければうれしいです!
気分はマッキーになったつもりで書きましたよ(⌒_⌒)。



『優しさがわかる日まで~槇原敬之「優しい歌が歌えない」に寄せて』



私はピアノが弾けない
ギターも触ったことがない
歌を作ることはできない
だけど
人の作る曲に涙を流すことはできる


この自分から愚かさを抜き取り
悲しい曲のひとつでもできたら
少しは楽になるのかな


何のために生きているのか
私は私をちゃんとやれているのか
誰にも答えは出せない
私にもよくわからないときがある
自分ってやつが
手に負えないときもある


たまに自分で自分の良さなんかを
掘り返して、見つめてみて
気を紛らわしてみたりする


誰かのために生きていない私は
どこかずるくて ふてぶてしくて
理想通りではないけれど
いつか
誰かのために必死になれる
優しい心を手に入れたい


歌を作ることはできなくても
何かを弾くことはできなくても
この一言に心を込めれば
きっと私は変わっていく


いつか
自分以外の誰かの憂いが
自分の痛みと同じように
感じられる日まで
私なりの歩みでいこう


2009.1.25 By 雨音
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HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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