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占い師としての成長日記
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思えば、私の人生は劣等感と切っても切り離せない場所をいつも歩いてきた。


生れ落ちた環境では、いつも明るく人気者の兄と、暗くて友達も満足にできなかった自分。
兄はとりたててカッコよくもないし、有名人で言えばエディー・マーフィーを日本人にした感じで、背も低かったし、成績だって普通だったのだ(失礼!)。でも面白いくらいに、クラスの、いや学年中の人気者になってしまう。兄の名前を知らない人はいないくらいに。本当に不思議だった。小さい頃から、兄はいつもみんなから好かれる人物だった。親戚中でも兄は期待の的だったと思う。兄は自慢であると同時に、私は強い嫉妬にさいなまされてしまった。


私はつくづく思う。女でよかった。もし弟として生まれてきていたのなら、屈折しまくって、気が変になっていたかもしれない。「男だから」という自分なりの逃げ道を作って、私は輝いている兄を見つめていた。


女としても全然ダメダメだった。
その一行に尽きる。


大食いで早食いの家で育ち、小さい頃から肥満細胞とすっかり仲良しで、いつもふっくらおでぶちゃん。それにめがねと、重たい一重まぶた。顔に目立つほくろまでついてて、絵に描いたようなオデブキャラだった。
女の子同士でギャーギャー騒いだりするのは大好きだった。
でも、その場所に一名でも雄が混じると、全然苦手になる。男の人の前で、いくつになっても自分の「女」という部分にまるで自信が持てない。
だから私には、自分を「女」として見ないような夫が来たんだろうか(苦笑)・・・まあそれは推測のし過ぎかも知れないが。


好きだった男性からいつも言われる振られ言葉。「きみって、いい子なんだけどね・・・」
でも・・・その飲み込んだ言葉のあとに何が続くのかはわかっていた。
「言うことを聞き過ぎるんだよ。」


男性に対してうまく振舞えない私は、男性のいいなりになってしまって、余計に自分をうまく出せなかった。次々と結婚していく友達を尻目に、私は恋愛以前に、男性との関わり方がものすごく下手くそすぎて、本当に恋愛ってどういうものなのかよくわからない状態だった。


魅力というか、特別な何かがあるわけでもない。美貌も、女としての自信も。
えこひいきされることなんて一回もなかった。職場でも、すぐに落ち込む気質を見破られたのか、きつく当たられたこともあった。後輩になめられたこともあった。


結婚して子供を持っても、私には新しく「子育て」というステージでの劣等感が用意されていた。それももっとディープなものが。生活レベルだったり、わが子との接し方だったり・・・。子育て中なんて、絶好の劣等感の培養期だった。比較対象はいくらでもあったからだ。


じゃあ占いという道ではどうなのか。
やっぱりここでも、他人と自分を比較したり、自分のスタンスに自信が持てないままここまで走ってきてしまった。
人気のある鑑定士さんと自分を比べたり、鑑定のあとで「この人はもう私なんかじゃ駄目だろうな」と自分の力のなさを嘆いたり、師弟関係でもそうだった。そもそも端から師匠に及ばないのだから「弟子」という立場なのに、いつも師匠のすごさと自分を比べて落ち込んでいた。師匠と比べるのもそもそもおかしいのに。師匠だって最初から師匠だったわけではなくて、あらゆる葛藤を乗り越えて立ち上がったからこそ人を導くという道に入ったのに、私はその部分さえも見えないまま比べては、自分の価値を下げていた。


そしたら、いつのまにか私は30後半になり、気がつけば人生の折り返し地点に入ってしまった。劣等感で塗られた私の基盤を、今後も続けていくのだろうか。劣等感があったからこそ頑張ったことも確かにある。でも、最後には劣等感に喰われている。


劣等感はいつもいつも私のそばでその出現チャンスをうかがっていたように思う。


いや・・・違う。
私はいつも劣等感が服を着て歩いているような、そんな魂そのものかもしれない。


「どうして他の人にできることが、私にはできないんだろう。」
「どうして私ばっかりこんなことになってしまうんだろう。」
「何が私の強みなんだろう。」


ずっと自分という人間が、弱くて脆くて、腐った根っこを持っている気がしてならなかった。若い頃はそれを運命のせいだと思っていた。だから私は自分の上を流れている運命を知りたくて、占いという学問に入ったのだと思う。


でも・・・・


占いを学ぶほど、輝夜師匠からご指導を受けるほど、気づかなければならない残酷な真実があることに気づいていく。
運命は確かにあるのかもしれないが、劣等感は運命ではなく、自己の内側にしかないということがわかる。誰がもたらすのでもない。何かと自分を比べて落ち込んで暗くなるという流れは、自分の心の中にしか存在しない。
人を呪いたくなるような、辛い運命の仕業というものもあるかもしれないが、他人に不幸にされた経験よりも、圧倒的に、自分で自分を不幸にしている経験のほうが多いのだ。運命は変えることができる。占いは確かにその人の頭の上を流れている運気を言い当てることができるけれど、だからそのとおりに進むわけではない。歩くのは運命ではなくて、人間である私たちだ。いくらでも、運命に戦いを挑むチャンスは用意されている。
でも、愚かな私は、運命に戦いを挑む前に、自分がもう駄目な人間なんだと烙印を押し、挑戦することすらやめてしまう。


劣等感をバネに這い上がることができるならば、まだ救いがあるが、劣等感に潰され、自分の人生を放棄するような諦めをしてしまったら、もう運命は変えられない。


私はまず「劣等感」の塊である自分を見つめなおそうと思っている。
そこから「だから私は駄目なんだ」という流れに流されてしまうことが、今までの私だった。
ただ、私は知ったのだ。「運命は変えられる。努力こそが大事なのだ。ひたむきに自分を信じることができるのかが問われる。」ことを。


不細工でブスでデブで、暗くて、たいした頭もない女だけれど、だからこそ見えてくるものがあるだろう。


ただ、面白いと思うのは、神様はたったひとつでも、その人に「好物」を与えてくださっているということ。
私は小さい頃からなぜか、書くことが大好きだった。兄に何もかもかなわなかったけれど、「お前は書くことが上手だな」と言われたことは良く覚えている。下手だったと思うけれど、書くときはいつも全力投球だった。書きあがった後の爽快感は幼い頃から今まで変わらずに私の中に存在している。


それに今まで救われてきた。数々の劣等感も。行き場のない思いも。
もし「書くこと」を誰かと比べ始めたら、私はもうとことん落ち込んでしまうだろう。書くことに関して、なぜか私は「下手でもいいから」という気持ちになれる。「下手でもいいから、正直に書こう」とアクセルが踏める。きっと、こんなに暗く考えてしまう私でさえこんな幸せな救いがあるのだから、人間誰もみんなそんな幸せな手段をちゃんと持って生まれてきているように思える。


劣等生だった自分の中で唯一の救い。
「下手でもいいから、一生懸命に書いてみよう。」という気持ちは、一つの生きるヒントだった。


私たちの内面には、現状を乗り越えて生きられるヒントがたくさん隠れている。
劣等感を山積みしていると、そのヒントに気づけなくなってしまう。


私は劣等感の塊だった自分を否定しない。
でも、これからもそうではいたくないと思う。
少なくとも「劣等感を極めました(笑)」といって卒業したい。

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HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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