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占い師としての成長日記
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1/17のブログで、私は夫とのやりとりをこちらに記載しました。その日は一日中夫と険悪で、言葉を交わせばケンカになり、顔も見たくないし、完全にシャットアウトしていた状態です。それこそ私はカッカカッカしていて、感情丸出しの状態でした。書かないと気が済まない!!!!!そんな精神状態であったわけです。


もちろん、1/17だけが夫婦仲が険悪だったわけではないのです。もっと昔から・・・それこそ結婚したときからの積み重ねですから、私の感情は何かあるとすぐに「バカヤロー」(すいません、全然占い師らしくも、ヒーラーらしくもありません。お聞き苦しい発言をお詫びいたします)を夫に対して叫んでいるし、この憤慨している気持ちを誰かに言いたくてたまらないんですね。


ここに私の問題があることを、輝夜師匠が掲示板を通じてメスを入れてくださいました。
その内容はこうありました。



雨音さんは妻として、女として、もっと成長すべきです。
それも占い師としての雨音さんに繋がっているように思いますよ。


あのブログは「ねぇ、みんな聞いて?私の旦那ってば、こんなことを私にしたのよ!酷いでしょう?いつも私、こんな酷い目に遭ってるの。だから離婚したいって思っちゃうの、当然でしょう?誰か同情してよ」と周囲の同意を得たがっているブログですよね。そんなみっともないこと、もういい加減やめましょうよ。


私の弟子らしく、常に「誇り高く気高く」をモットーにしているとはまったく思えない言動ですし(※補足しますが、輝夜師匠のモットーが「誇り高く気高く」なんです)、まして、誰かの同意を求めるなんて(しかも、家庭内では小さな子供たちを相手に同意を求めているんですよ?)、どこが自立なのですか?


・・・一発どころか、何発も殴られたような衝撃がありました。
一番指摘されたくない部分でもあったのですね。キターッ!じゃないですが、ついに一番肝心な部分に私は触れられた気がしたんですよ。そしてそこが一番問題だってことは、私も薄々わかっていたんです。でも触りたくなかった・・・。


輝夜師匠はそのあと、掲示板だけのフォローでは伝えるのが大変だからとお電話を下さいました。


「雨音さんの悪いところは、味方を作ろうとすることです。いかに自分が大変で夫が悪者なのかを言いたくてたまらないし、それをみんなに認めてもらいたい、同情してもらいたいんだと思います。しかも、子供までそれに巻き込んで自分の味方につけようとしている。どうして雨音さんが精神的に自立できないのか、私はその根本原因を見た気がしました。」


『自立するということは、周囲の人が自分を肯定しようがしまいが、たとえどのような状況下においても動じることのない、動揺することのない自分を作り上げること』と輝夜師匠は教えてくださいました。私は、自分を否定する意見をものすごく恐れてしまっているし、反対に自分の意見に共鳴してくれる人がいると、すごく嬉しくなってしまう。そこに「自立」という課題はクリアできないまま放置されています。周囲の動向によって、自分が落ち込んだり舞い上がってしまうような状態は、自立しているとは程遠いことなのですね。今回の私は、夫を悪者に仕立てることで、自分の味方を増やして、自分の正当性を訴えているだけです。ただ、輝夜師匠のような感覚の鋭い方には、それがいかに愚かで、人からの信頼を損ねるような言動であるのかを見抜かれてしまうんですね。もしかしたら、輝夜師匠以外にも、私の愚痴ブログを読んで、私と言う人間の素にあきれた方がいらっしゃるかもしれません。


『家族とは、自分にとって一番最初に作られる学びの世界。そこでの学びが自身の考え方や価値観という基盤となり、今度はそれを軸にして社会という大きな世界の学びと向き合うことになります。ですから、家族といるときの自分が最も素の自分=本質となるのです。』


これは以前、輝夜師匠から聞いていた言葉でした。
また、これに伴い、以下のような言葉もいただいています。


 家族や親しい友人などに見せる顔こそが『素の自分』。
 単独でいる時の自分は、自分さえ良ければいいという『協調性のない自分』であって、
 『素の自分』ではありません。気を抜いているときの自分こそが『素の自分』=『本性』
 になりますから、
 魂を向上させたいと思っているのなら、親しい間柄であればこそ、甘えを出さずに、
 きちんと気遣えるようにならなくてはいけません。
(※2008/12/17「肝に銘じる」より抜粋)


「自分が好きだと思える人、助けたいと思える人に良い態度が出来るのなんて当たり前のことです。罪人であっても同じことが出来ます。なぜなら、それは意識せずとも出来る自然な感情だからです。大切なのは、そうは思えない人であっても、相手が困っているとき、手を差し伸べることが出来るのかどうかです。これは、素の自分、つまり、人間性にかかってくる部分です。その人間性を良いものにするためにも、素の自分を鍛えることが大事なんですよ。」


輝夜師匠はそう言われました。本当にそうです・・・。


私は夫には最低の態度をしているんです。他の人にいくら親切にしてみたり、親身に相談に応じていても、夫への態度を見たら、どんな私の誠意も嘘に思われてしまうかもしれません。正直言って、土曜日はあまりにも頭に来ることの連続でしたから、私は口だけでは物足りず、そこらへんにあったサランラップとか空の牛乳パックを投げつけていました。怒りが収まらない。この怒りはどうしたらいいのか・・・・ええい!ぶつけてしまえ!!!・・・そんな状態でした。


夫には「寝不足だから機嫌が悪いんだ」と言われるんですね。私としてはその言葉に関してこう思うのです。
「なぜ私が寝不足をおして働かなくちゃいけないのか。それは生活するお金が足りないからだろ!!協力してあげているのに、どうしてあなたは寝不足のせいにするんだ!」と言う気持ちと、「私がたとえ12時間寝たとしても、絶対にあなたの言動には腹が立つし、イライラする。それを寝不足のせいにするのか!?」という気持ちの二本立てになって、「絶対にあなたの言うことなど聞きたくない!」という私につながっています。この感情が醜いことは客観的に見ればよくわかるのですが、でも私は夫に屈したくなくて、悪魔の塊のような自分になろうが、意地を張り続けてしまいます。それは、義母たちとの同居時代からまったく改善していません。ただ離婚を決めなかっただけで、私の気持ちに成長はないんですね。一ミリも。味方を作ろうとするのも、私が正当性を一人では主張できないから、その現われだと思います。味方さえいれば私の行動は正しいものなのだ、そんな依存性が今回の記載になったんですね。


ただ、私が何も言わずとも輝夜師匠にはわかってしまうらしく「雨音さんが離婚したいと言えるのも、自分に頼りになる両親が居るからでしょう?もしも今離婚して、占い師を辞めてきちんとどこかに就職をしたとしても、自分ひとりでは子育てしながら生活していけないですものね。でも、悪い例えで申し訳ないけれど、たとえばご両親が揃って他界してしまったとしたらどうしますか?それでも離婚したいと旦那さんに言えますか?夫婦は一見対等のように見えますけれど、実際はそうではありません。少なくとも雨音さんの家庭は旦那さんが雨音さんたちの生活を保障してくれています。もしも旦那さんが亡くなったら、今度は旦那さんの保険や年金をもらって生活することになるのですよ。夫の力は死んでもなお影響し続けます。だから、一家の主なのです。立てるべき相手なのです。」と言われました・・・・・・。


私は輝夜師匠からご指摘をこうして細かく受けるまで「みんな、私の言うこと聞いて~~~~っ!」という状態でした。そして、輝夜師匠から掲示板やお電話を通じていただいたご教示について、以下のような返信をしました。


「おっしゃるとおりです。私はそれなのに、本当にできず、感情に身を任せてしまっています。ただ離婚していないだけで感情的には離婚しているようなものですよね。私は全然進歩していないんだって、実は逃げていたのかもしれませんし、いつも被害者意識が残っていて、彼に対して広い心も持てないし、苦しいばっかりでなんの解決も出来ていないこと。ちょっと何かあったらすぐに夫を責める自分がいつもいます。最悪です・・・。でも一番最悪だと思うのは、こうして輝夜師匠に書かれて、そうか・・・と理解できるものの、そう簡単に、自分は折れたくないと思っている私がすぐそばにいて、それこそこれは恨みつらみの感情だと思うのですが、反省しようとする私に噛み付いてきます。それが最悪です。」


本音を言えば、私は夫のために自分を犠牲にしたくないという気持ちのほうが強いんです。好きと言う気持ちを取り戻すことが本当に難しいのだと思います。夫とやりとりしているときの私は最低の女状態ですが、私はそれを夫のせいにしてしまうからもっと最悪なんですね。私がこれほどまでに腐ったのはあいつのせいだ!ってずっと言っているし、その気持ちが変わらないから、今でもこうして最低の態度で夫と接し続けているのです。最低の態度から、いきなり天使になるなんて、わかっていてもできないなあ・・・・。そんな風に思っていた矢先、輝夜師匠から再びこの私の気持ちに応えるかのように、お電話が入りました。


「雨音さんは旦那さんに対し『広い心を持たなくちゃ』と思っているようですけど、そうじゃなくてもいいと思います。だって、雨音さんには今日までに蓄積されてきた旦那さんに対する負の感情がありますし、殺意があると言っていたこともありましたから、そこまでの感情があるのに旦那さんに広い心で向き合うなんて出来ないと思うんですね。だから、そんなふうに無理をするのではなく、自分のために努力すればいいと思いますよ。」
「自分のために、ですか?」
「たとえば、どんなに旦那さんに殺意を覚えても、実際に殺そうとしたことはないと思うんですね。それって旦那さんのためですか?」
「あんなやつのために刑務所に入って一生を棒に振りたくないって気持ちがあって、だから実行してこなかっただけのことです。」
「そうでしょう?それと同じです。雨音さんが旦那さんとの向き合いに置いてする努力は、すべて自分のためだと思うといいですよ。そして、実際にそうであるはずです。たとえ旦那さんが自分を100回殴ってきたとしても、自分が1度でも相手を殴ってしまえば、相手と同じになってしまう。自分で自分の品位を貶めないためにも、自分から見て旦那さんがどんなに最低だと思うようなことをしてきても、感情的にならず、本当の意味での自身のプライドを守るようにする。そういう意味では、旦那さんは良い訓練相手になるじゃない?」


そして、輝夜師匠はこうも言われました。


「人生の中で、良くも悪くも自分に強く影響を与える人って居るものですが、それは俗に言うソウルメイトです。旦那さんも、もちろんソウルメイトですよ。天に還ればみんな仲良しなの。でも、それぞれ役割を与えられているから、旦那さんはきっと雨音さんと約束してきているのね。『雨音さんのために手抜きをしないで、徹底的にぶつかるようにするから、雨音さんも絶対に負けないで、必ず必要な学びをクリアするんだぞ!』って。もちろん、旦那さんも雨音さんも顕在意識ではその約束を思い出すことはないでしょう。でも、天でそんな約束を交わした相手であるはずです。その証拠に、占い学上、お二人はしっかりご縁のある二人じゃないですか。それは、雨音さんが自分で見てもわかるはず。疑いようもないでしょう?」


確かに、それは疑いようもない事実です。私と夫は結婚縁も夫婦縁もしっかりある二人でした。


「それとね、雨音さんは良く私のことを、『師匠は今まで色々な苦労があったから、だから言葉に重みがあったり説得力があるのだと思う』と言っていましたよね。そして『それに対し、私は今まで師匠みたいな苦労がない人間だったから、だから師匠のように重みも説得力もないんだと思う』とも言っていました。雨音さんが言うように苦労が威厳に繋がるのだとするなら、今の、この苦労がそれに繋がるのだと思いませんか?なにも、人生の苦労は私だけに用意されているものじゃありません。誰にでもあるステージです。ただ、それを経験として生かすのか、それとも逃げてしまうのか。そこに違いがあるだけです。雨音さんに用意された苦労は、旦那さんとの向き合いです。これをしっかり経験として生かすために頑張るのなら、きっとその先に雨音さんが欲しかった重みや説得力を取得できますよ。ほら、私が良く言っていたでしょう?波乱大好きって。なぜなら、苦労を乗り越えたその先に、自分に深みが生まれることを知っているからです。」


私は日々、輝夜師匠のような物事の捕え方、動じない態度、一貫した姿勢に憧れてきました。師匠と私は年齢的に一年しか違わないのに、なぜにこの人はこれほどまでに悟っているのだろうと思っていたし、それはやはり輝夜師匠は若い頃からさまざまな苦い経験を積まれてきたからで、私の場合は結婚するまでのほほんとしていて、何の苦労も味わったことがないことが大きな違いなのかなと思っていました。そして、輝夜師匠がご自分でおっしゃられるように、よく私や他のお弟子さんたちに向かって笑顔で「波乱大好き♪大歓迎!」とおっしゃっているんですね。私はその笑顔を見て「波乱が大好きだなんて、私は絶対に言えない。ありえない・・・」と、内心で輝夜師匠の度胸にびびりつつ(笑)、波乱=苦労のないことをいつも祈っていた私なんです。


輝夜師匠のお話を聞きながら考えたことは、とにかくまず今後は自分のために耐える努力をすること。
絶対にキレたりなんかしないで、頭にくることを言われても、言い返さないこと。
それから、味方を作るなんて、いろんな人を巻き込むことは一切しないこと。
家庭の中の自分が誰に見られても恥ずかしくないような自分になること。


そのことがまとめとして理解できました。


相手のために今は努力なんて出来ない私です。その時点で失格かもしれませんが、今の私には自分のために踏ん張ることはできる!そう思いました。例えそれが失格であっても、ぶちきれて相手に逆襲しまくるよりはまだ救いがあります。


また、私はブログであからさまに醜態をさらして、自分の未熟度をさらに広げてしまったような気がして、その点も深く落ち込んでいました。「やっちまったよ・・・」状態です。日ごろ偉そうなことを並べ、さも成長したような振る舞いをしていても、あのブログでそれが一気に崩れ落ちたと言うか・・・。以前私は夫との関係をタロットで展開したとき、占い師としての自分の志だけが前向きでキレイな状態で、それ以外の自分はものすごくドロドロした感情を抱えているという結果が出たことがあるんです。それを輝夜師匠も覚えていてくださって、「占い師である自分だけをきれいにしていてもダメなのよ。どんな自分であっても同じように良い状態でなければ・・・」とおっしゃられました。そんなこともあって、失態をさらしまくったということで気持ちが沈んでしまいそうでしたが、お電話の後、輝夜師匠から以下のようなメッセージをいただきました。


お電話でも言いましたが、確かに雨音さんにとって、今回のことは失態だと感じるかもしれませんし、こうして注意をされたり突っ込まれたりされると落ち込むかもしれませんが、でも、上手に隠すことが出来ればいいのではなく、改善することが最も大切なのですから、むしろ、自分が正直者であることは救いなのだと考えた方がいいと思います。

「正直者でよかった。正直者だからこそ、こうして失態を披露してしまうことがあるが、それによって改善する道も示される。」

そう考えるようにしたらいいと思います。

(中略)

前向きに考える。
向上心を持って生きる。

今回のこと、落ち込むかもしれませんが、向上心を持って前向きに生きていくためにも、『だからダメ』なのではなく、『今回問題だった部分を改善するように今後気をつけていくようにしよう』と今回のことを受け止めて、今後の自己改革・自己改善のための経験として生かすようにされると良いのではないかと思います。


以上の言葉で私は励まされました。
私自身にある問題は、こうやって醜態をさらしてしまうことで色んな人からツッコミが入ります。輝夜師匠がおっしゃるには、それはとてもありがたいことで、上手く隠し通すような悪知恵を育てるよりも、たとえ醜態をさらすことになっても、改善への道に繋がることが大切と言われました。もちろん、醜態なのですから恥であることには変わりないのですが(苦笑)。

今日から、自分自身の誇りを守るための忍耐力養成コースのスタートが始まります。
絶対に堕ちないぞ!!!


輝夜師匠、何度も私にフォローのお電話とご指導、ありがとうございました。私って最低だ!と思ったけれど、頑張れそうです。

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今年もあとわずか。
しかし、この1~2年の間にとっくにクリアしていなければならなかった課題がクリア出来ていないことにお叱りを受けるかのごとく、今年の6月頃から急速に私の自覚のなさが問題となって浮上し始め、10月頃から強烈な事件が相次ぎました。そしてまた今回、クリスマスに多くの学びを得ました。


「他人の問題を自分の事のように考えられるか」
「覚悟を持てない事でどれほどの人を傷つけてしまうのか」


この二つがクローズアップされる事件は、輝夜師匠と私の間で起こりました。


輝夜師匠は先月から胃の具合を更にひどくされている状態が続いていました。元々輝夜師匠は胃腸が弱いため、ストレスや疲労が重なるとすぐに胃を痛めていたという経緯があります。大変気力の強い方なので、今までは気合で治されていたのですが、今回ばかりは日々生活に支障が出るほどの胃痛に間断なく襲われるようになり、気力の強い輝夜師匠であっても「ついに病院に行かなくてはならない」と思われるような状態になってしまったのです。
輝夜師匠は一人暮らしされています。胃がどんなに痛くても、誰も食事を作ってくれませんし、お仕事を休むことはそのまま収入減に直結してしまうため、休むわけには行きません。本当に苦しい状態の中、胃痛を堪えながら日々生活し、私たち弟子を指導してくださる毎日をこれまでの数年間、ずっと繰り返されてきました。


そして、最も大きな問題は輝夜師匠が病院というものに対して非常に抵抗があるということです。輝夜師匠は数年前、最愛のお母様を病院の診断ミスで亡くされています。そのことが深く根底にあり、どうしても自分の体を病院に委ねられないという思いから、病院に対して絶対というほど拒絶反応がありました。そんな辛い経緯があり、私が診察にご一緒させていただくことになりました。二人で近所にあるクリニックを訪問したのは12月9日。
そこで当然のことながら、輝夜師匠は医師から胃カメラ検査を勧められました。胃が痛いという状態が続いていれば、医師としては胃カメラで中を診て、重篤な病気でないかをきちんと確かめたいというのが通常の流れなのでしょう。しかし、胃カメラは大変辛い検査です。私もちょうど半年前、初めて胃カメラを口から飲みましたが、あまりにも辛く、もう二度と受けたくないと思える検査でした。
そこのクリニックは麻酔を使っての胃カメラを行っていますので、輝夜師匠にも「麻酔で胃カメラ検査を・・・」というお話でしたが、輝夜師匠はお母さまが麻酔によって命の危険にさらされた経験もあるため、その体質が遺伝しているならば、自分も麻酔によって危険が伴う可能性もあります。そのために、麻酔で胃カメラをするということであっても、どうしても受け入れにくく、胃カメラ検査をするか否かでかなり苦しまれたようです。
病院でのその後の経緯は輝夜師匠の運営サイトのブログに記載されています。


胃カメラを飲むことに対してかなり抵抗があった輝夜師匠のお考えを変えてくださったのは、輝夜師匠の妹さんの助言でした。
妹さんは「今は鼻から胃カメラを入れて検査してもらえる方法がある。検査中話すことも出来るし、口から入れるより吐き気が少ないらしい。私の通っている病院はすごくいいよ。」という情報を教えてくださったのです。
妹さんは、「ららぽーと横浜クリニック」という病院で検査を受けたそうですが、痛みもなく、本当に楽だったという話をしてくださったそうです。もし検査をするのなら、すごくいいからそこで受けてみれば?ということでした。
私はその情報を輝夜師匠とのお電話で教えていただきました。


私はそのとき「横浜にはちょっと行けないので、横浜の病院だったら妹さんに付き合ってもらった方がいいかなぁ」と言いました。でも、輝夜師匠は「妹にはまだ小さい子が居て、今、その子が癲癇かもしれないということで大変な時だし、私は元々子供が苦手だから、妹に付き合ってもらうことになると絶対子供も一緒だろうから、こんな体調の悪い状態だと、いつものように妹の子供にまで気遣えないと思う」というお返事でした。私は「じゃあ、妹さんに付き合ってもらうわけにはいかないですね」と言いました。でも、「それじゃあ、私が一緒に行きますよ」とは言わなかったんですね。


なので、同じように鼻から胃カメラ検査をしてくれる病院を探してみて、それが近所にあるならそこにしてみようという話になったのです。
幸い、近所に見つかり、そこを受診しようということに決まりました。そして、12/22に診察する運びになりました。


ところが・・・その約束の後、奇怪な事件?が私の身の上に起きました。
実は12/19の夜、私はトイレで排便時に出血していることを発見してしまいました(汚い話しでごめんなさい)。しかも排泄物をみたら鮮血がかなり混じっています。
最近、胃カメラだ、大腸の内視鏡の検査だという話を連続でしていたものですから、もう青ざめてしまって(汗)・・・。しかも私は長年の便秘症なので、医者からも「40歳になったら絶対に大腸の検査はしたほうがいい」と警告を受けていました。大腸がんによる出血だとしたらこれはもう大変なことです。
そのままパソコンで「大便・出血」で検索し、こうなるとやはり大腸の内視鏡の検査が必要になってくるようですので、かかりつけの病院のHPを見たりして、自分なりに検査の情報を集めました。
かかりつけの胃腸科は胃カメラを麻酔なしで行っているような病院です。しかもものすごい辛かった。だから胃カメラよりもっと辛いといわれる大腸の内視鏡検査をこの病院で行ったら、私はもう二度と検査を受けたくなくなってしまうかもしれないな・・・と思い、内視鏡検査を苦痛なしで受けられる病院を探し始めました。そして偶然にも、あのららぽーと横浜クリニックのサイトに当たったのです。


輝夜師匠からその病院の名前を聞いていましたので「へ~そんなにいいのかな?」という好奇心でサイトを見たのですが、無痛の検査にかなり力を入れている病院で、検査件数も多く、患者さんからの評判もかなり高いものばかりです。
見ていて「ああ、なんだ。ここなら検査をしても苦痛じゃないかもしれない。」という安心感があるようなサイトでした。全国からも人がやってくるような病院だそうですので、それなりに信頼できそうです。
もし内視鏡の検査をするならここがいいなあ・・・そう思いました。
でも、自分だけ痛みの少ないららぽーと横浜クリニックに行って検査をしようと思うのに、輝夜師匠にはご近所の病院を勧めるのは、なんだかおかしいじゃないか、というモヤモヤした気持ちはあったのですが、私は横浜の病院のことをここで輝夜師匠に改めて勧めることなく、病院に行く約束の22日を迎えました。


鼻から胃カメラを入れてくれるという近所の病院は思ったよりもこじんまりしていて、昔からある近所のかかりつけの病院といったイメージでした。
待合室はそれなりに人もいたので、私と輝夜師匠は診察室前の長椅子に腰掛けて、順番待ちをしていました。

そして私は不用意にも、土曜日の大便の出血のことに端を発し、あのららぽーと横浜クリニックのお話をしてしまったのです。


「実はあの後、大腸の内視鏡検査を無痛で行ってくれるところをネットで探し歩いていたら、妹さんがオススメしていたららぽーと横浜クリニックに当たったんですよ。それでサイトを見てみたら、ものすごくいいらしくて、内視鏡の検査と同時に治療もしてくれるから全国から患者さんがわざわざやってくるほどなんですね。すごくよさそうなので、今度大腸の検査をするなら私もそこに行こうかなって思ってるんです。」


そして私もそういいながら「あ・・・」と思ったので、「輝夜師匠もこちらの病院にしたほうがよかったかもしれないな、なんて思ったんですよね。」と修正しました。


私はここでものすごく重大なミスを犯していたのです。
この発言がどれほどデリカシーのないものなのか、当事者である私はまったく気づけなかったのですね。こういう至らなさが私には随所にあるのです。


この発言がどれほど相手にショックを与えていたのかということを知ったのは、輝夜師匠のブログからでした(現在はその部分の記事を削除してくださっています)。いつもの輝夜師匠なら、今まで私が失態を犯しても、いつもやり取りをしている掲示板か、もしくは直接電話で注意してくださいます。ですから、今まで私のミスや至らなさが他人に知られることはありませんでした。しかし、今回は何の前触れもなく、いきなり不特定多数の人が閲覧するブログに書かれてしまいました。私は、なぜ私への不満をいきなりブログに掲載するの?という、自らの恥を公開されてしまったという気持ちでいっぱいになり、今までに感じたことのなかったショックを受けました。ですが、私が至らなかったという事実は事実です。


私はいつもやり取りしている掲示板に謝罪文を書き、同時に、自分がどうして今回のような失態を犯すことになったのか、どうすればよかったのか、自分なりに考えたこと、思ったことを謝罪文と同時に記載しました。


・自分がたまたま内視鏡の検査の必要性があるかもしれないという事件が起きた
↓↓↓
・いろいろ検索していたら、妹さんの紹介していた病院に当たった
↓↓↓
・読んでいたら無痛に力を入れているいい病院であることが分かった
↓↓↓
ここで、「そんなにいいのなら輝夜師匠に選択してもらおう」と思えればこんなことにはならなかったのかもしれない。
ではなぜ、そういう考えにならなかったのか。
・万が一、何か病院に駆け込むときがあって、私が一緒に行けないときは遠くの病院だと大変ではないか。
・胃カメラをして帰る場合を考えたら、電車を乗り継いでいくのは大変かもしれない。


私がこれらのことを掲示板に記載して間もなく、輝夜師匠から電話がありました。
輝夜師匠は私の掲示板に記載した謝罪の書き込みを読み、それに返信をしているが、やはり口頭で話した方がいいと思い、電話をしたと言われました。


輝夜師匠は今まで一度も見せたことがないほど怒っておられました。


「雨音さんの書き込みを読んだけれど、あれは違うでしょう!?雨音さんの言い訳は、さも私のためを思って、というような言い訳になっているけれど、自分を美化するのもいい加減にしなさい!もしその言い訳どおりなら、私はわざわざブログになんか書いたりしないのよ!ブログに書けば色々な人が見るんだから、雨音さんがどういう気持ちになるかわかるもの。雨音さんは私がららぽーと横浜クリニックの話をしたとき、そこには一緒に行けないと言ったのよ?だからうちの近所で探すことになったんじゃないの。別にそれは私にとって問題じゃなかったのよ。実際に横浜は遠いし、それに、私のトラウマのせいで雨音さんに付き合ってもらうんだから、付き合ってもらえるだけでありがたいんだしね。でも、雨音さんは病院の待合室でららぽーと横浜クリニックの話を持ち出して、そこがどんなに素晴らしいかを説明して、さらには、その病院が良さそうだから、自分はそこに行くと言ったのよ!?それがどういうことかわかる!?仮に、雨音さんが書いた言い訳どおりだったとしたって、デリカシーのない発言だったわよ。もうすでに待合室にいるのに、いまさら他の病院を勧められたってどうすることも出来ないんだから。」
「・・・・・・・・・・」
「私がブログに書いたのを見たとき、ショックだったでしょう?」
「はい。」
「どうしてショックだったんだと思う?」
「自分が輝夜師匠を傷つけていたなんて思っていなかったので・・・・・・」
「そうじゃないでしょう?自分の失態が不特定多数の人に知られてしまったということがショックだったのよ。今まで私は一度もこんなことしたことなかったものね。いつもなら、二人でやりとりしている掲示板に書いて注意するか、もしくはこうして電話で話すかしていたはずだから。でも、雨音さんは『私との間だけの問題だ』と考えて、すぐに胡坐をかいてしまう。だからいつまで経っても改善されず、何度も同じ過ちを繰り返してしまう。今回のようなことだって、この1~2ヶ月の間だけでも何度もあったじゃない。だから、今までのようでは雨音さんは改善できないと思ったの。改善するってどういう意味だと思う?誰に知られても恥ずかしくない自分になるという意味だよ。そして、失敗というものは、私との間だけのことじゃない。誰の前に出しても恥ずかしい、問題であるというものなのよ。それを知って欲しかった。だから、今回は思い切ってブログに書くことにしたの。」
「・・・・・・・・・・」
「それに、雨音さんはブログに公開されたことをショックだと感じただけで、被害者みたいな意識でいたでしょう。私がブログに書いたことで、私に対して嫌悪感を感じる人だってたくさんいるに違いないのに、雨音さんはそういうことはまったく考えなかったでしょう?」
「あ・・・考えませんでした・・・・・・・・・・」
「私が閲覧者だったら、自分の友達の悪口を書くなんて・・・って思うもの。雨音さんだってそう思うでしょう?」
「・・・・・・はい」
「でもね、私にとっては、たとえ私が閲覧者に嫌悪感を持たれ、私から離れていくかもしれないリスクを犯したとしても、雨音さんが自分の問題点にきちんと気付き、改善して行ける方が大事なのよ。そういう気持ちから、本当はすごく嫌だったけど、あえてブログに書いたのね。でも、そんなこと、きっと雨音さんは思いもしなかっただろうと思う。」


私は以前から、輝夜師匠に指摘されていたことがありました。それは「他人のことを自分のことのように、もしくは我が子のことのように考える」ということが出来ないということです。このために、今まで何度も思い遣りや配慮に欠ける言動を繰り返し、そのたびに注意されてきました。それでも私は改善できず、それがそのまま占いのお仕事にも出てしまい、相談者に対し、本当の意味で親身になれない鑑定となってしまい、指名が増えないという深刻な問題をずっと抱えていました。


輝夜師匠はさらにおっしゃいました。


「どうしてららぽーと横浜クリニックがいいと思ったの?」
「私が胃カメラ検査を受けたとき、すごく辛かったんですね。もしまた同じような苦痛を味わったら、二度と検査を受けたくないって思うかもしれません。でも、ららぽーと横浜クリニックは無痛に力を入れているとわかったから、ここだったら安心して検査を受けることが出来るかもしれないと思いました。」
「でも、その病院は雨音さんの家からだと、遠いわけでもないけど、近いとも言えない距離にあるよね。それなのに、どうしてそこがいいわけ?」
「う~~ん・・・やっぱり、遠かったとしても、少しでもいいと思える検査を受けたいって思うからです。」
「でしょう?だから、この時点で雨音さんが掲示板に書き込みした言い訳はすでに他人事にしか思っていなかったと言える言い訳なんだよね。だって、私に対しては、いい病院であるかどうかよりも近い方がいいんじゃないかと思ったんだから。たとえば、雨音さんのお子さんが具合が悪くなってしまったらどうする?お子さんがどんなに苦しがっていたとしても、いいと思える病院に連れて行こうとするんじゃないの?」
「そうですね。私も輝夜師匠に病院の待合室でららぽーと横浜クリニックの話しをしたとき、話しながら自分の中に矛盾を感じたんです。私はいいと思える病院に行きたいと思うのに、どうして師匠にはって・・・・・・」
「だから、私は掲示板の返信にこう書いたんですよ。『いくら私が日頃骨身を削って雨音さんに愛情を持って接していても、損得勘定抜きに随分今まで私自身の持てる知識と技術も提供してきましたし、今ではお月謝も取らずに、でも、質は落とさず、こうして身体を壊しても雨音さんのためにと頑張って来ましたが、私はそういうつもりで向き合っていても、こうして私が弱り、どうしようもない状態になったとき、私のために本当の意味で親身になってくれる人はいないんだと思ったわけです。所詮雨音さんにとっては他人事なんだなぁと思いました』って。ねぇ、どうして私が母の死をこんなにも長く引きずっているんだと思う?母が死んで、もう5年。5年も経ったんだよね。それなのに、いまだにずっと引きずっているでしょう?それはなんでなんだと思う?」
「輝夜師匠がお母さんを好きだったから?」
「もちろんそうなんだけど、じゃあ、どうして好きだったんだと思う?」
「・・・・・・・・・・輝夜師匠のお母さんが輝夜師匠を愛してくれたから?」
「まぁ、そうだよね。それじゃあ、たとえば雨音さんにもお子さんが居るよね。雨音さんのお子さんは雨音さんのことを好きでしょう?雨音さんのブログによると、息子さんなんて雨音さんに叱られたくないばかりに、周囲の注目を浴びるほど大騒ぎしちゃうような、それくらい雨音さんを恐れている部分もあるのに、それでも、もしも雨音さんが『ママのこと好き?』と聞けば、『うん!』って答えるでしょう?」
「はい。」
「それって、どうしてなんだと思う?」
「・・・・・・私が子供たちの面倒を見ているから?」
「そうだね。雨音さんが子供たちの人生を自分のことのように考えてあげているからなんだよ。私もそう。どうして私がこんなにも母の死をいつまでも引きずっているのかというと、母が私の人生を自分のことのように考えてくれていたからなのよ。だから、母が死んでしまったとき、もうこの世の中に私のことを自分のことのように心配してくれる存在はいなくなってしまったんだって、そう思ったの。まるで先日雨音さんに『私について展開してみてごらん』と言って展開してもらったときに出ていた金貨5のカードのように、私は孤独なんだって思った。でもね、自分が孤独なんだなんて普通は思いたくないでしょう?だから、今度のことはそれを思い知らされたかのようなショックもあって、本当に悲しかったの。」


輝夜師匠は泣いていました。私はもう何も言えませんでした・・・・・・。


ああ、そうか。私は本当に「他人事」でこの問題と向き合っていたんだなと思いました。
たとえば、これが我が子の病気だったら何が何でもららぽーと横浜クリニックに連れて行ったはずです。いいと言われるものを与えたい。その一心で。だけど、私は輝夜師匠にはそう思わなかった。自分の病気だったらためらわずに行くのに、どうしてそれが出来なかったのか。それは、ご指摘を受けたように「他人事」で片付けていたからです。


これまでにも何度も何度も同じ注意をされてきました。でも、私は改善していませんでした。だから、ついに輝夜師匠は師匠だって本当はこんなことしたくないのに、この経験をブログに記載するという思い切った決断をすることで、この問題が二人だけの問題ではなく、誰との向き合いであっても問題なんだということを私に自覚させようとしたのでした。
それなのに私は最初、師匠に対して「どうして人前に私のミスをさらしてしまうの・・・」という被害者意識しか持てませんでした。輝夜師匠からブログ掲載にいたる師匠の想いとご決断を聞くまで、まったく理解出来ませんでした。また、これまでも輝夜師匠は、感情的にどうしても許せないということを私がしてしまっても、どんな問題も私の占い師としての成長の糧にして欲しいという想いがあるから、「もうあなたとは付き合えない」といって私を拒絶することはされませんでした。でも、今回の私の言動は関係を拒絶されても不思議はありませんでした。しかも胃の診察を受ける前の、恐怖感や緊張感が募っている状態の待合室で、今更他の病院に変えてみたらと話をされても・・・しかもその病院は最初私が付き添いを断った病院だったのですから、私から何の優しさも感じられなかったのは当然のことでした。


『所詮は他人事なんだね』と思われるような言動だったのです。


「今回の件について、本気で自分に非があると認めるなら、逃げずに受け止めてください。」


そう輝夜師匠はおっしゃいました。きっとこのごろの私が師匠にお叱りを受けるたびに、改善よりも先に「やめたい」「どう思われてもいいから逃げ出したい」とすぐに考えてしまうために、このように言われたのだと思います。また、こんなにも輝夜師匠が厳しい口調で私を叱るのは、この数年間で初めてのことでした。普段も教えを受けるときはかなり厳しいですが、今回はその比ではありません。


震えました。そして、本当に悔しくて泣けましたが、輝夜師匠に「泣きたいのはこっちです。これで挫折でもされたら、私は本気で雨音さんを怨みますよ。」と言われました。


私は挫折はしたくない。この道でやっていくことを決めたのです。
なのに現実は、こうして毎日やり取りさせていただき、自分を犠牲にしながらもご指導をして下さる師匠に対してですら、親身になることが出来ない自分がいるわけです。穴があったら入りたいし、消しゴムがあったら消して逃げたいくらい恥ずかしいし、情けない。占いの修行を続けることで、これからもこうしたことが続くのかと思うと怖くて構えてしまう。
苦しくても、できないことがあっても、出来るように努力することが私の道だと思っているのに、どうしてこんな風にちょっとしたことで揺らいでしまうのでしょうか。


私はずっと「ちょっとだけ占いの出来る主婦。占いでちょこっとだけお金を稼げる主婦」の意識だったのです。だけど流れはもうそうじゃない。


私は占いを商売道具にして、占いでちょっとだけ懐が潤うことしか考えていませんでした。だけど、輝夜師匠の元に弟子として入り、数年間にわたって毎日ご指導を受け、占いの学問だけではない、生き方、姿勢を学んできたのです。輝夜師匠は占いを商売道具にするような占い師ではありません。魂で占いをするような方ですし、お金儲けや人気を出したくて占いをしている方ではないのです。それこそ私の意識とは対極にいらっしゃる占い師さんでした。
そして、ここにも大きなヒントが。
「ちょこっと稼げればいい」という考え方だったから、私には今回起きた失言に代表されるように「他人の問題を自分の事のように考える」意識が育っていなかったんですね。その意識を捨てることが実際はまだできていないということなのです。


「雨音さんは死ぬ気で自分を根底から見直さなければなりません。」


輝夜師匠が口を酸っぱくして何回も何回も言っていたことは「お客様は我が子だと思いなさい」と言う姿勢でした。
今回のこの事件は、私にその姿勢を叩き込むためのものだったのかと思うのです。


「我が子の相談だと思えば、それこそ本気で道を一緒に探そうと思えるよね。もし、雨音さんが占いでお金や人気を欲しがる道に入りたいのなら、私の弟子をとっとと辞めたほうがいいです。占いはお金儲けの手段ではありません。人助けです。それがこれからもずっとできるかどうか、雨音さんは問われているんですよ。でもちっとも改善されていないし、覚悟も決まらない。だからこの前のタロットのようにこのまま行けば挫折、なんて言われてしまうのです。」
「私は、占いでちょこちょこっと稼げればいいかなってずっと思っていて、我が家の経済状態が決していいわけではないので、いつもお金を稼がなくちゃということが一番にあったと思います。商売のための占い師だったと思います。」


現実の生活も大切で、お金を稼がなくてはならないという現状も、輝夜師匠は「うん、そうだよね」とご理解をしてくださいました。


でも本気の覚悟は責任が重い。そんな繰り返しで、いつも叱られていました。このことは今に始まったことではないのです。ずっと前から言われてきたことなのです。あまりにも中途半端で、意識の低い私が、この厳しい業界の中で生き残るなんてとても難しいことです。


輝夜師匠が掲示板にこう書き込んでくださいました。


 天命が重い。でも、霊感は欲しいなんて、矛盾もいいところです。
 だから、相談者に対し、説得力に欠けてしまったりして、顧客を作れないのだと思います。
 いい加減、運命を受け入れ、天命に身を委ねる覚悟をもてるようにならないとね。
 努力と根性は大事だけれど、努力と根性だけではやっていけません。


お客様のために親身に、必死になれない自分が、霊感を欲しいと追い求める姿は、まさに滑稽です。私は何を守っていて、何を変えられないのでしょう。今回のことも、自分を大事にするあまり、身から出た錆になってしまうような失言でした。そのことで私は大切な人の信頼を失うことにもつながったのです。


輝夜師匠に


「頑張ります。でも、そう言ってこれまで何度も失敗しているから、頑張ると言っても、まるで嘘つきの狼少年って思われるかもしれません。だけど、注意を受けたことを忘れないように頑張ります。」


そうお伝えしました。


逃げたくないです。怖いけれど、逃げるのはもっと嫌です。涙がこみあげました。でも「頑張る」と言う回答が出ました。
輝夜師匠は「わかったわ。忘れないで頑張って」と最後は励ましてくれました。そして、私との電話のやり取りを終えると、すぐにご自分のブログに書かれた私の失態に対する記事を黙って削除してくださいました。そのことに後日気付き、お礼を言うと、「なぜ改善が必要なのか、その意味を雨音さんに理解してもらえたのならば、いつまでもあそこに記載している必要はないので、削除しました」と言われました。


輝夜師匠もそれこそ傷だらけになりながら、命を削るようにして指導をしてくださっているし、私も半べそをかきながらですが、この状態を乗り切りたくて必死です。至らないところは直し、失敗を重ねても決して希望を失わない。そして、他人のために一生懸命になれる。そんな人間になっていきたいです。それが私の思い描く自分の未来像です。


長いブログになってしまいましたが、最後まで目を通していただいてありがとうございました。

ここのところ、輝夜師匠の体調が優れない日々が続いています。もともと胃の悪い輝夜師匠でしたが、それでも食べたいという気力までなくなってしまうようなことはありませんでした。しかし、今回は病院でいただいたお薬が合っていないのかもしれない様子で、吐き気が続き、食べたくないし、食べられないということをおっしゃっているので、これは大変だ・・・いつもと違うかもしれない・・・と心配になる日々が続いています。考えたくないけれど、衰弱という言葉がよぎってしまいます。私の中でいつも輝夜師匠はタフで倒れることを知らないスーパーマンのような存在でした。しかし、今はそうではない、非常にお辛い状況です。毎日精力的に更新されていた運営サイトも、ついに休止宣言を出されました。

輝夜師匠は実家を離れ一人暮らしですし、一番頼りにされていたお母様を五年前にご病気で亡くされています。一緒に生活しているのは愛猫のランマル君ですが、ランマル君も老猫のため、万が一輝夜師匠が入院になったりでもしたら預ける先もなく、猫によっては環境が変わったストレスだけで死んでしまう猫もいるため、安易に病院やペットホテルに預けるという選択は絶対に出来ません。輝夜師匠の妹さんには小さいお子さんがいて、しかも離れているため、輝夜師匠はご自分が倒れられたら、誰かに甘え、頼るというスタイルがまったくないのですね。その厳しい事情は長いこと密なつながりを持っていた私は良く知っています。もし、突然何か不測の事態が起きても、そのサインを真っ先に察知できるのは毎日やりとりしている私です。


そんな輝夜師匠がご自身の状態のお悪い中、私にお電話をくださいました。


輝夜師匠と私は同じ電話鑑定の会社に所属していますが、ここのところの私の成績不振は私自身の気持ちを非常にナーバスに陥らせていました。もちろんこのことで私は輝夜師匠に心配をずっとかけていました。最近、鑑定の仕事が激減し、経済的にも精神的にも追い詰められた状態ですが、やはり「鑑定がない=私は必要とされていないのではないか?」という想いがぐるぐると頭の中を支配し、「やっぱり私はこうだからだめなのか・・・いや、だめだなんて思うな!」と落ち込み、這い上がり、でも結果が出ず、毎日が反省と反省と、動かない仕事への不安でいっぱいになっていました。そのことで輝夜師匠に鑑定をお願いし、ご相談していた経緯もあります。


電話の内容はこうでした。
輝夜師匠は私のことを心配され、会社の管理者と私のことを相談して下さっていたのです。それによると「暇なのは雨音さんだけではなく、新しい鑑定士が増えたため、雨音さんと同じような状況の先生もたくさんいます」とのことだったそうで、でも、輝夜師匠は「ただ、たとえ会社の集客率が上がり、相談者が増えたとしても、それで雨音さんの問題が解決するとは思えない。つまり、相談者が多いか多くないか、それによって相談者が雨音さんのところに回ってくるか否かが問題ではなく、雨音さん自身に問題があると思います」とハッキリ言われました。


「集客率の問題ではないとしたら、自分の何が問題なんだと思う?」


と輝夜師匠は私に訊ねました。


「私に個性がないからでしょうか?」
「個性がないなんてことはないでしょう。雨音さんはちゃんと個性もあるし、占いの知識もちゃんと持っている。じゃあ、何が問題なのかと言うと、これから言うことを落ち込む材料としてではなく、きちんと受け止めて欲しいのだけど、たとえば今、私は今までになく具合が悪い状態にあるよね。でも、こんなとき、雨音さんを頼りたいと思えないの。むしろ、雨音さんと向き合うときは虚勢を張って、師匠として弱っている自分を見せないようにしなくては・・・と思ってしまう。なぜなら、雨音さんはこんなとき、一緒にオロオロしてしまったり、何をどうすべきか、正しい判断が出来なくなってしまうでしょう?たとえば、私は今回胃が酷く弱り、お医者さんに胃カメラを勧められたよね。でも、私は母を診断ミスで亡くしたということや、当時の医者たちの酷い態度のせいで病院にトラウマが出来、信頼や安心で診察を受けようという気持ちにどうしてもなれないということがありました。それに、私には年老いた猫がいるので、この子の最期を看取るまで入院できないし死ねないという気持ちもあるので、胃カメラの検査は出来ないし、たとえ最悪癌であっても入院出来ないのだから、知っても意味がないと雨音さんに言っていました。でも、それは冷静ではない私の『想い』であって、正しいことは、胃カメラの検査をきちんと受け、病気と向き合う勇気を持つことでしょう?でも、雨音さんは私のようなトラウマと想いの持ち主に、それでも胃カメラの検査を受けるべきか否か、判断がつかないんですよね。それだけじゃありません。今回私は病院に行ってから余計に胃が弱ったので、雨音さんは何度も『病院に行かなければ良かったんじゃないか』というようなことを言っていました。でも、これは間違いです。確かに病院に行ってから余計に胃が弱りましたが、でも、行かないことが正解ではないことだけはハッキリしているでしょう?行かなきゃ治らないくらい今回胃が弱っているのは明らかなんですから。こんなふうに、雨音さんは何が正しいのか、どうすればいいのかわからないわけです。それじゃあ占い師はダメなんですよ。相談者も私のように気が動転していたり、精神的に追い詰められたりして、冷静な判断が出来ない状態にある場合が多いです。そんな時、正しい道を指し示すことが出来なければ、占い師としてやっていけないでしょう。渦中の私が言うのもおかしい話ですが、今回のことでは『師匠の気持ちはわかりますが、それでも胃カメラの検査は受けるべきです。もしも入院が必要なら、猫ちゃんのことは私も出来る限り協力させていただきますし、妹さんもきっと協力してくれると思います。何とかなるものですよ!だから、ちゃんと検査して、きちんと治療を受けてください』と私に言えなければいけなかったです。もうプロとなって一年以上経ったのですから。だって、もしもこれが私ではなく、我が子だったらどうでした?それでも胃カメラの検査は受けるべきではないかもしれない、病院に行かない方が良かったかもなんて思いましたか?そんなことないでしょう?もう何が問題なのか良くわかったと思うのですが、雨音さんはハッキリ言って、こんなふうに頼りないんですね。」


私には身に覚えのあることでした。モヤモヤしていた「原因」が一気に言葉になって私に押し寄せてきました。


「きっと雨音さんは今まで自分から積極的に他人と関わろうとしていなかったんだと思います。私はいつも『占い師じゃない時間も占い師として生きなさい』と教えてきたけれど、日頃の自分がどれだけ占い師としての姿勢に影響を与えているか、これで良くわかったと思います。色々な人とただ関わればいいのではなく、何かあったとき、その人に嫌われることを恐れて何も言わないのではなく、たとえ嫌われるのだとしても、その人のためにどれだけのことを言ってあげることが出来るのか、してあげることが出来るのか、これが大切なんですね。でも、雨音さんはそれをしてこなかったんですよね。その姿勢がそのままお仕事に反映されちゃっているんだと思いますよ。」


師匠の言われるとおりでした。自分の今までの姿勢を振り返ると、他人のために嫌われるのを覚悟で飛び込んだ記憶がないのです・・・。何時も私の頭の中には、自分が嫌われないためにどうするべきなのかが中心でした。相手のために自分がどこまで頑張るかという尺度は持ち合わせていない、それが輝夜師匠から見て、私を頼ろうという気持ちが起きない原因でもあったのです。いや、輝夜師匠だけではなく、きっと私に関係する周囲の人々、お客様、みんな、すでにわかっていたのですね。自分だけが知らなかったのです。


今までの私はそのSOSを受け取る役から逃げていました。あと、師弟関係ということもあり、師匠に対して進言することに抵抗があったのかもしれません。


「ちょっと嫌な言い方をするようだけど、たとえばもしも私が胃癌で、このまま死ぬことになってしまったら、もう雨音さんに色々教えてあげることは出来ません。私は雨音さんの師匠だけれど、親がいつまでも元気でいるとは限らないのと同じように、私もいつどうなるかわからないでしょう?雨音さんより先に死んじゃうことだってあるかもしれない。だから、私がこうしてアドバイス出来るうちにしっかりした自覚を育てて、一日も早く安心させて欲しい。」


私は師匠のこの言葉を聞きながら、以前師匠に言われた言葉を同時に思い出していました。


  これは誰との向き合いでも言えることですが、
 『何かあったらいつでも相談してきなさい』
  そう言ってくれている間に、それを鵜呑みにして甘えることなく自立するようにしなさ
  い。


それは、いつも輝夜師匠に甘えてしまう私への戒めの言葉でもありました。
また、こうも言われたことがありました。


  家族や親しい友人などに見せる顔こそが『素の自分』。
  単独でいる時の自分は、自分さえ良ければいいという『協調性のない自分』であって、
  『素の自分』ではありません。気を抜いているときの自分こそが『素の自分』=『本性』
  になりますから、
  魂を向上させたいと思っているのなら、親しい間柄であればこそ、甘えを出さずに、
  きちんと気遣えるようにならなくてはいけません。


輝夜師匠とのことに限らず、私は他人と深く関わりあうことをすごく怖れてしまう部分がありました。というか、他人のために一生懸命になれない自分がいつもいるんです。友達のピンチ、友達の子供のピンチ、師匠のピンチ、「ふ~ん」という感じでいつもスルーしてきたんじゃないかと思います。これが私の「素」なんですね。他人のために一生懸命になれない私が、仕事の量が向上するわけもないのです。


輝夜師匠がいつも教えとして私に伝えている内容は、占いは当たる当たらないが大事ではない、一番大事なことは、その人のために一生懸命鑑定できるか、そこに尽きるということ。そのために私がすべきことは鑑定だけを一生懸命するのではなく、普段のこうした他人とのやりとりから逃げないことだと指摘を受けました。


輝夜師匠はこのことについて、こう言われました。


「人との関わりで色々なつまづきが起こってくると、それによって萎縮することもあるかもしれません。萎縮するのは簡単です。でも、萎縮したまま、ただ行動することを、関わることをやめてしまったら、同時に『こうしてあげたい』と思っていた気持ちも一緒に捨ててしまうことになります。たとえば、誰かの悩みに気付いて、その人のために良かれと思ってしたことが、そんなつもりじゃないのにカドが立ってしまったり、間が悪かったなんてこともありますよね。それにひるんで萎縮してしまうのではなく、知らずに立てたカドなら謝罪して、今後気をつければいいだけの話ですし、間が悪かったなら、タイミングを覚えればいいわけです。せっかくいい気持ちで行ったことなんですから、そうやって気をつけながら行動を起こすようにしていけばいいんですよ。萎縮からは何も生まれないでしょう?」


私は普段の生活における人との関わり合いを見直さなければならないと思いました。


なぜ、私に顧客が出来ないのか。
それは、技術が足りないのでも個性がないのでもない。私が相談者の人生に深く踏み込み、信念を持ってアドバイスをきちんと伝えることが出来なかったからです。お客様の顔色をうかがい、自分の鑑定にお客様はどう反応するのか、そればかり気にしていたため、お客様から見て頼りに出来るような占いをしてこなかったのですから、当然の結果です。


輝夜師匠は先日の占いで私が占い師として挫折することになるかもしれないという結果が出たこともあって、今の私の状態を深刻に受け止め、「もしかしたらこの体調不良は重篤な病気のせいかもしれないけれど、もしもそうであったなら、こうして生きてこんなふうに話せるうちに、師匠として雨音さんに言うべきことをきちんと言わなければならないと思って、今回これらのことを伝えることにしました」と言われました。どんなに自分が辛くても、這いつくばってでも伝えてくださった、愛のある私への魂の教えなのですね・・・。


このような姿勢は、私にあったでしょうか?


最後に厳しい言葉がありました。


「雨音さんは今まで痛いことがあると、すぐに落ち込み、逃げに入っていました。でも、いい加減にその姿勢を改善出来なければ、雨音さんは占い師として本当に挫折することになってしまいます。第三者である私がこれだけ危機を感じているのだから、当事者である雨音さんはもっともっと意識しないとダメ。本気で根本から見直し、改善するようにしなさい。」


占い師として大事なことは霊感でも、ミステリアスな空気でもない。本当に大事なことは人のためにどこまで一生懸命になれるかということ。
なのに私は、その基本を忘れて、どう見られるか、どうすれば注目を集めてもらえるのか、力ばかりを追い求めていたわけです。本当にお恥ずかしい限りです・・・。これから長い道のりですが、私は挫折できませんし、したくありません。すぐに改善できないこともありますが、言われたことはしっかりと受け止め、忘れないようにメモしておきます。


何かあったとき、そこにもし、誰もおらず、自分だけしか元気に動ける人がいなかったら、「信頼のバトン」をどう受け止めるか。「私にどこまで出来るかわからないけれど、やってみるしかないね」と受け取るか、「え~~~?!私だけ?無理だよ~」とオロオロするのか。
結果はどう出るか分からないけれど、役割を受入れてみる勇気は養っておかなくてはならないのだ、ということを、輝夜師匠の提言してくださった言葉で目が覚めた気持ちです。


自分のために真剣に向き合ってくれる人がいる。
なのに私は「できない」「私には無理」というのか。
そうじゃない、やればちゃんとできる。こうやって向き合ってくれる人が、私に足りないものを教えてくれているのだから、きっとできる・・・。


本日の感謝・・・
体調がよろしくないというのに、それでもこうして、私のためのヒントを即座に教えてくれた輝夜師匠。自分の緊急事態すらも、私が占い師としてどう成長していくのかをきちんと見届けてくださっている。
なのに私はいつも「できません。自信がありません。輝夜師匠はすごいです。」の三拍子で腰が引けていた。ああ、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。でもこれが私。等身大の私。
目をそらさずに見るべきだ。自分の体を張って大事なことを教えてくださった師匠の気持ちを無駄にしたくない。すべてが抜け落ちてはならない大事なポイントなのだから・・・。また今回のブログを記載するに当たっては輝夜師匠のお力がなくては出来なかった。私の書いた原稿をさらに分かりやすく、細部にわたって再現してくださいました。輝夜師匠、本当にありがとうございます。一刻も早く、体調が落ち着かれますことを祈っております。
先日、ちょっと考えさせられることが起きました。


用事があって小学校に行ったのですが、息子のクラスの女の子の忘れ物を見つけたので教室に届けに行きました。その女の子、Aちゃんに手渡したとき、Aちゃんがニット帽を被っていることに目が留まりました。特徴だったロングヘアをいつもポニーテールにまとめている印象があったのですが、その長い髪はどこにもなく、髪のかわりにニット帽を被っていたのです。


一緒にいたほかのお母さんに「あれ?Aちゃんは頭に怪我でもしたの?」と聞いたら「う~ん、子供の話だからどこまで本当なのかわからないけれど、なんでもAちゃんが約束を守らなかったから、お母さんが髪の毛を切っちゃったって話だよ。」
え?えーっ!?
だ、だって、女の子が丸坊主だよ?!
もちろんいつか生えてくるけれど、丸坊主にしなければならないくらいの守れなかった約束って一体どれほどのものなんだろう?


とにかく、この衝撃的なお話を聞いて、私はとっても納得できなかったんですね。なんというか、うまくいえませんがモヤモヤしていたんです。
少なくとも私も子供が言うことを聞かないときはカーッ(-"-;)となることはありますが、それでも女の子をつかまえて髪の毛を切ってしまうことはありえないので・・・。肩くらいの長さとかならともかく、坊主ですからね。とてもじゃないですが、いくら約束を守らなかったとはいえそれはいいのだろうか?という想いがどんどん沸いてきて、でもそれは一方的な批判になってしまいます。じゃあどうすればよかったのか、という考えには至りません。批判や疑問はわくのだけれど・・・。人って、自分とは違う考え方を持っている人に対してはガンガン批判精神がわくんですね。だけれど批判で終わってはまた手落ちのような気がしていました。


ちょうど別の用事で輝夜師匠と電話でお話しする機会がありましたので、この事件を輝夜師匠の見解を聞いてみたいなと思って、お話してみました。


すると輝夜師匠にこんな風に尋ねられました。
「雨音さんだったらどうすることが正しかったんだと思う?」
「う~ん・・・そこがわからないんです。」
「どうすることが正しかったのかを知るためには、自分がなぜこの丸坊主にされちゃった女の子に反応したのかを追究しなくちゃいけないんだよ。」
「追究・・・?」
「なぜ雨音さんはその丸坊主にされたことに反応したの?いいとは思えなかったんだよね?どうしていいと思えないの?」
「だって丸坊主だとその子が恥をかいちゃうから。」
「じゃあ、恥をかかなかったら丸坊主にしちゃうのはOKなの?」
「・・・(沈黙)。」
「例えば、その子が外に一歩も出ないような引きこもりのような状態で、家族としか顔を合わせないような生活をしていたら、その子が恥ずかしい思いをするということはないよね。そういう環境であったなら丸坊主にしてもいいと思える?」
「そんなことは・・・ないですよね?」
この時点で私はかなりしどろもどろになっていました。
「私に回答を求めるんじゃなく、私が雨音さんに聞いているのよ。雨音さんは初め自分の反応は、女の子なのに丸坊主にしてしまったら、その子が後に恥をかくことになってしまうから、そこまですることなかったんじゃないか、と思ったのよね。でも、もしもその子が周囲の目にさらされるような生活環境ではないとしたら、丸坊主にすることはアリだと思う?」
「・・・・・・いえ、やっぱりそうは思えません。」
「ということは、雨音さんはその女の子が恥をかいてしまうから、だから良くないと思ったわけではないということなのね。じゃあ、どうして雨音さんはこの出来事に肯定的な気持ちになれなかったんだと思う?」
「・・・。」
「なぜなら、その子がされたことは、実は体罰と同じだからなんだよ。体罰と言うと殴る蹴るみたいなことのように思えてしまうかもしれないけれど、実はそればかりじゃなくて、その子のような場合も体罰になるんだよ。きっと雨音さんはその女の子の様子を見て、お母さんの行き過ぎた行動に、随分乱暴なことをしたなと感じたんだと思う。そうじゃない?」
「あ、そうです。」
ようやく私は言葉が出ました。
「ここまでのことがわかったら、今度はどうすれば良かったのかを考えなくちゃいけないのね。お母さんの行動が体罰になってしまうことがわかったでしょう?それじゃあ、本当ならどうすることがベストだったと思う?」
「えっと、ちゃんと話すとか、説明する?」
「話しても分からなかったら?」
「話して分からなかったらですか?!これは私の場合ですが、やらせてみたり、手本を見せたりするかな。」
「それでも解決しなったら?」
「えーーーっ?・・・・(回答なし)」
「親が子と向き合う際のベストなことは、『それでもあきらめずに向き合っていく』ということなの。また、子供の年齢も考慮に入れて対応しなければいけないよね。たとえば、その子はまだ小学校低学年なんでしょう?だったら、まだ子供だもの。何度だって同じ過ちを繰り返すものよ。大人だってなかなか自己改善できないのに、子供がそんな簡単に自己改善できるわけないんだもの。それこそ舌の根も乾かないうちに、すぐに同じ過ちを犯したりするものじゃない?そうすると、親だって人間だから、どうしてもカッ!ときちゃうけれど、でも、怒りの感情で向き合わずに、愛を持って向き合っていかなきゃいけない。その子のお母さんが怒りの感情で向き合った結果が丸坊主なのかはわからないけれど、でも、なぜいけないのかをきちんと説明して、その意味を理解させるようにする。これがベストだよね。体罰じゃあ、怒られるからしない、という解釈になりかねないから。」


子供のことはけっしてあきらめないでとことん付き合う。
当たり前だけれど、とっても簡単でシンプルすぎる大事な回答。だけれど見落としてしまう私たち。


輝夜師匠はその話の途中でメッセージをいただいたらしく、こう教えてくださいました。それは私にとって、とても救いのあるメッセージでした。
「今こんなメッセージをいただいたのだけれど、私たちはその子が体罰と同じことをされてしまったということを心配していたけれど、でも、その子はなぜ、自分が丸坊主にされてしまったのかということをちゃんと理解しているから、だから私たちが思うような傷は受けていないんですって。その子は『私が約束を守らなかったから髪を切られちゃった』と言っていたんでしょう?その言葉どおり、自分が悪かったからこうなったんだ、と理解しているから、だから、少なくともその子は体罰と受け取っていないということみたい。つまり、たとえば神様から見たら、そのお母さんがしたことは体罰と同じだから、お母さんの対応は×。でも、幸いなことに、子供は体罰としてではなく自分が悪かったと認めて受け入れているので、お母さんはお咎めなし、ということになるわけ。もちろん、だからと言って、今後も体罰をしていいというものではなく、これからその子のお母さんは子供への対応を気をつけるよう天から促されるだろうけれど、今回はお子さんが素直に受け入れたことでお母さんは救われたわね。もしもその子が体罰として受け止めてしまっていたら、それは愛ではないと感じてしまうから、その子はお母さんに対する愛を失ってしまうのね。だから、体罰は絶対にしてはいけないの。注意する際、親が子供を叩いてしまうことはあるけれど、でも、それが体罰であったり、感情の捌け口であったりしてはいけないの。愛があるから叱るんだ、ということを常にベースにしながら向き合わないといけないんだよ。その子は体罰として受け止めていないということみたいだから、今回は親の愛を失わずに済んで良かったね。」


そして輝夜師匠は私にこうおっしゃいました。
「雨音さんはきっと自分のことをきちんと知らないんだと思うのね。たとえば、今回の出来事ひとつとっても、自分の心は反応したのに、なぜ反応したのか、何に対して反応したのか、ちゃんとわかっていなかったでしょう?それはなぜかというと、反応はしたのに、どうして反応したのかを追及していなかったからです。それに、ただ、追求すればいいんじゃないの。たとえば、今の私とのやり取りでも、私が深く突っ込まなかったら、雨音さんは自分の反応の理由が『その子が恥をかいちゃうと思ったから』というところで終わりだったかもしれない。物事というものは、良いことも悪いことも、その方法論は何通りかあるけれど、回答は1つで、それは条件や状況が変わっても変動のないものなの。そこを妥協せずにきちんと追及すれば、自分の内側にある揺るぎないものにちゃんとたどり着けるし、それこそが、雨音さんの考え方や価値観の部分なのね。それを知ることが大事。自分という人間はいったいどんな考え方や価値観の持ち主なのか、それが理解できると、おのずと道が開けるし、行動も定まってくる。矛盾もなくなってくる。揺るぎのない人生を築けるようになってくる。雨音さんが悩んでいる『占い師としての自分の売り』が何であるかもわかるようになるのです。」


はあ~~~~(感動のため息)。
そしてすべてが納得。
私はこの親の行動を批判することに終始していたような気がします。なぜそんなことをするのか信じられないという部分だけを感情的になって訴えていただけで、なぜそこに自分が反応したのかをまったく気にしてこなかった。だから自分の回答はどこかで筋が通らないものになってしまったんですね。どうして反応したのか、じゃあどうすればいいのか、本当はそこがとっても大事。そこまで考えていくことが占い師としての自分、ヒーラーとしての自分を育てることにもつながっていきます。


一方的で感情の掘り下げもなく見過ごしてしまうのは、偏見だけを増やすため、自分の経験値は増えていきません。こうした経験を生かすためには、常日頃から心が反応することにもっと敏感になり、自分で自分を突っ込んで、自分のことをよく知ることが大事なのだと教えられました。


本日の感謝・・・
私も一人の親。まだまだ未熟で子供を叱ることなんてもうしょっちゅう。
だけれど、愛があるから叱ることもまた事実。そこにある「愛」はやっぱり子供のためを思う気持ちからやってくる。時にはやりすぎて本当に怒ってばかりのこともあるけれど・・・。でも「根気よくつきあえる」のは愛そのものかもしれない。私自身とも根気よくつきあいたいなあ。私のことを自分で見放さないように。すぐにあきらめちゃだめよね・・・。自分のことを自分であきらめないことが親としての根気力につながるのなら、頑張って育ててみます。そんなことを教えてくれたAちゃん親子に感謝。
そして今日のブログを書くにあたり、このやり取りの詳細は輝夜師匠にご協力をいただきました。細かいやり取りはすでに私の中で抜け落ちている部分がありましたので、輝夜師匠のご協力があってこのブログが完成することが出来ました。ありがとうございました。
私にとって、ここかしこにとても大事なことがいっぱいつまったやりとりでした。この時間を提供してくださったこと、この流れにも「ありがとうございます。」
実は私、昨日悩める一人のお客さんとして、所属会社を通して輝夜師匠に鑑定をしていただきました。自分がにっちもさっちも行かなくなり、不安だけが渦巻き、卑屈な思いを抱えて毎日を歩いていくのにも限界があります。普段は自分が行き詰ったときなどは自分でタロットカードを展開するのですが、今回はもうそれも出来ませんでした。自分で冷静で客観的な判断ができるのか自信がまるでなかったからです。


輝夜師匠と私は同じ電話鑑定の会社に所属しています。普段は鑑定士としてやりとりする受付に電話をして「すいません。鑑定士の○○です。今日はお客様として鑑定をお願いしたんですが・・・鑑定士のA先生をお願いします。」といって輝夜師匠をご指名させていただきました(輝夜師匠も私も所属会社でのそれぞれの鑑定士名があり、所属会社の鑑定士としての活動名は輝夜師匠でも雨音でもありません)。


なぜこれほどまでに私が行き詰るようになってきたのか・・・。


先々月から、私のすることなすこと、本当に注意を受けることが重なりました。手抜きしたことは即刻見つかります。先日のシートベルト違反事件なんて本当にいい例ですよ。そして、自分が劣等感を抱えて歩いている部分が臭いにおいをばら撒いているかのような状態になってしまい、周囲の人の言葉を通して、自分の劣等感の改善を求められる日々が相次ぎました。そのたびに私は、分かっていても落ち込んで、「だめだ、私なんてダメな人間なんだ」という繰り返しの渦に飲まれていきました。比例するかのように、私の仕事量は落ち込み、ついには一件も鑑定がない日が発生するようになりました。所属会社の景気が悪いわけではないのですよ。きっとこれは私の問題なんですね。仕事量の落ち込み、自分の人間としてどうよ?という突っ込み満載の日々がこれでもか!というくらいに続くものですから、あれもこれも無秩序に起きているわけではない、みんな私への大事なメッセージだという確信が日々募ってきました。


自信のなさが鑑定に出てしまうから、一回限りの鑑定で終わってしまう。だからお仕事が増えないのでしょうね。すべてが劣等感に握りつぶされていたのかもしれません。私は口にこそ出さないけれど、きっと相手に気は伝わってしまうのです。自信がないことを。それを隠すため、つい大きく見せてしまうことを。


このブログに関してもそうですね。
最近の私のブログが暗い、読んでいるのが辛い、ということも教えていただいたこともありました。しかも複数の方から言われたんです。でも笑ってしまうことに、当の私はですね「え?このブログのどこが暗いんだろう?おっかしいな・・・」と思っていたくらいですから、要は暗さに慣れてしまって、暗闇に気づかない状態で記載を続けていたんだと思います。


私は輝夜師匠にこう質問しました。
「最近私は自分にまったく自信がなくなり、自分はダメな人間なんじゃないか、占い師なんて向いていないんじゃないかと思ってしまってどうしようもありませんでした。また仕事の量がめっきり減りました。これは無関係ではないと思います。私のどこが至らないのか、どうすればいいのか、はっきりと教えてください。」


そして、輝夜師匠の鑑定はこのような結果でした。
鑑定は三時間にも及びました。そのあと輝夜師匠はわざわざ私の鑑定結果を簡潔に文章にまとめてくださったのです。一部を省略しましたが、以下は私の鑑定内容になります。


雨音さんの場合、あらゆる方向から劣等感を克服するよう天からサインが来ていて、占いのお仕事が活性化しないのも、実はそこに原因がありました。

雨音さんの場合、剣9のような「予期不安」があって(もしこうなったらどうしよう、という種類の不安を予期不安と言います。たとえば「ただでさえ、こんなに苦しいのに、もしも今天命(※ヒーラーとしての使命)を受けることになってしまったらどうしよう」「もし挫折することになったらどうしよう。そんなことになったら、きっと私はその後惨めな時間を過ごすことになるに違いない」「もしうちの子が友達が出来ず、身長が伸びなかったらどうしよう。いじめられるようになったり、馬鹿にされるようになるんじゃないか」というふうに、ありとあらゆる方面において予期不安があるわけです)、そのせいで逃げ出したくなってしまったり、劣等感を強めてしまったり、無理やり闘志を奮い立たせようとしたり、見栄を張ってしまったり・・・と、多方面において問題が発生していました。

劣等感と予期不安を表すカードは同じくらいの負のエネルギーを持っていましたので、劣等感のせいで予期不安を持つようになったのか、予期不安から劣等感が強まったのかわからないくらいどちらも問題でした。

それにしても、今、こうして改めて書いてみると、ネガティブであるという性質は、こんなにもあらゆる分野に悪影響を及ぼしてしまうのですね。本当に恐ろしいことです。


(中略)


また、雨音さんは影ばかり見つめて、光の方を育てようとしないという問題点がありました。



納得できました。
私がいつも心の奥底に秘めている問題や感情をこれでもか!とばかりにカードは正直に出してくるんですね。私が恐ろしくて口に出来なかった不安すらも容赦なく私に伝えてきます。


一番最初にいきなり「棒9逆位置」でした。
このままだとあなたは挫折しますよ。間違いなく終わります。
先制パンチにしてはあまりにも強烈。一枚目から涙が出ましたよ(苦笑)。占いを止める自分はそう遠くない未来に待ち受けていると思ったら、もう悲しくって悲しくって・・・。でもこれは全部自分が作った流れなんですね。他の誰も関与していません。


でも占いで「挫折します」と出たからといって実現するかどうかはその人の今後の心意気一つです。占い師ですが、占いの結果に飲まれてはいけない。これを一つの起爆剤にして、「じゃあ絶対に挫折しないように取り組むにはどうすればいいのか?」という方向転換ができるか、否か。
このままで行くと確実に挫折。根本的な見直しが必要。
そうタロットで言われたら、やっぱり挫折はしないようにしなくてはならないし、根本的に間違っている部分を変えていくべきなんですね。


そして最後にあった「影ばかりを育てて、光を育てていない」という言葉に本当に思い当たることがいっぱいありました。


私の影・・・
「なぜ私は言われないと何もできないの?」
「なぜ私は未熟で人の気持ちがわからない人間なの?」
「なぜすぐに逃げ出したくなるの?」
「なぜ私はブサイクで女として全然美しくともなんともないの?」
「なぜ私はこんなにブツブツ悩むの?」
書き出したら泉のように湧き出る私の影。
輝夜師匠は「影だって必要な部分だよ」とおっしゃっていました。
でも私の場合、きっと今まで影しか見てこなかったんですね。まるで子供の悪い部分しか目に入らなくなってしまっている母親のように・・・。


光を見る。光を育てる・・・。
私の光・・・とは
「占いを勉強しているときは本当に発見があって楽しい。」
「難しい相談でも頑張って応じたときの達成感。」
「お客さんとのやり取りでお客様に必要な言葉を見つけ出せた」
ささいかもしれないけれど、まったくないわけではない。私の大事な光の部分。それは「占いが好き」という気持ち。いつの間にか、人からどう思われるんだろうか、失敗はしていないだろうか、という自己保全に傾き、なぜ私は占いをし続けているのかも忘れてしまっていた・・・。それこそが、きっと私の持っている光なのに。本当にスッキリと忘れているんです(自分で言うのもなんだけど、雨音さん、あなたって人は・・・・(-"-;)・・・・)


今までいいと思って書き続けてきた私の劣等感の塊は、誰の心にも光をささなかったです。当たり前ですが。
すごくよくわかりましたし、占いを好きだという初心を思い出させていただいたこの鑑定を終えて、やっぱり私はもう一度占いが楽しいと思える自分でいたいです。ただ、自分にとって自信のないことを、さも自信があるように偽って振舞うのは止めようと思います。それは結局私の中で矛盾になり、少なくとも私は自分でその矛盾に耐え切れなくなりました。


光を育てること・・・。
辛かった日々ですが、それでもこの鑑定を受け、今後は劣等感を手放しながら、自分の好きな道を飾らず歩いていこうと思います。


劣等感へ。
私はキミからたくさんのことを学んできたよ。それは本当にありがたいと思ってる。
でも私はキミを必要以上に頼りすぎて、キミという存在が私という存在になっていて、最後には自分がダメだと思うことにすべてが終始するようになってしまったよ。自分にとっても、周囲にとってもあまりいい結果が出来なかったから考えたんだ。
これからは、自分の中の輝く場所も見つけたいと思うから、ここでお別れだね。バイバイ。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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