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占い師としての成長日記
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もう三月に入っていたんですね。し、しかも今日はひなまつり。今週の土曜日は息子の誕生日じゃないですか!(何も考えていなかった・・・)速すぎる展開に愕然としている今日この頃です。


忙しく過ごしてきたので書き記すこともできなかったのですが、お葬式のとき、改めて母と私というものを考えさせられることが起きたので、今日はそのことを記載しておこうと思います。


私から見た母は、見た目もきれいで、おしゃれで、働き者でいつも動いていて、活発で、だらしのないことが大嫌い。それに身内やら親戚やらでたぶんいろいろあるとは思うのですが他人への悪口や愚痴も言わない人です。冠婚葬祭の時などよく見ているとわかるのですが、すごくしっかりとしていて、ダラリとした部分がなく、いつも動き回っています。キビキビ・しっかり者がキーワードの人。


私はよく母に「縦の物を横にもしない。開けたら開けっ放し。脱いだら脱ぎっぱなし。お父さんそっくり」と言われ続けるほど、整理整頓には無頓着で、母から見て「私の子供なのに・・・(唖然)」とされることばかりだったでしょう。それから私は自分の容姿に自信がないこともあって、服装や化粧や髪型などには本当に興味を示さないタイプでした。東京で一人暮らしをしていたころ、たまに帰省すると「なに、そのカッコは?!もっとまともな服を着てきなさい!」と実家に帰るのに洋服チェックが毎回入るので、いろいろ言われるのが面倒になって、最後には自分の家に帰宅するだけなのにスーツで帰省するようにしていました(笑)。母は私をよく自分の洋服や私の洋服を買うのに買い物に連れて行ってくれましたが、私は洋服はチラッと見るものの内心つまらないから早く終わらないかなって思ってて、でも母は洋服選びにかなり夢中になっているという状態が何回もありましたね。


女同士だけど、私はどうしても母に相談することが怖かった。
なのでいつも私の相談は父から始まりました。結婚のときなんて母には話せなかったな・・・。だって絶対に「どこの会社?年収は?」で始まるから。


子供を二人抱えて、生活に必死になっている今の私から見れば、この母の発言の根拠はよくわかるんですが、でも若いときは受け入れがたく、母にはできるなら相談したくない、決め付けられたくないと反発していました。決め付けられたり、ものすごく不服な空気を出すから、それがイヤで向き合うのから避けていました。
母は厳しいんですね。亡くなった祖母のお葬式で感じたんですが、大きな家を実家に持ち、若いころは養蚕の会社でものすごくいい待遇を受けて、金銭的に恵まれた娘時代だったらしいので、私にも自分と同じように安定した収入と将来を・・・と望んでいたのかもしれません。私が短大を卒業して家から通える銀行に入ったことは母の希望がかなったことのひとつかもしれませんが、私は銀行辞めたいの繰り返しで、挙句の果てに地元を離れて東京にいきなり勤務してしまったから、母がよく言う「親の思うように子供は育たない」のひとつが私のことなのかもしれません。兄は本当に親から見て「よくできた息子だ」と感じるような成長をして、出世もして、家庭も持ち、親の将来のことも気にかけるというウルトラC級の技を成し遂げていますが、私はいつもこの兄の影でウジウジしていて、やっぱり兄のほうが親としてはかわいいのかもな・・・って考えてきたりもしてました。


祖母の葬儀のときです。
お通夜の次の日が告別式になりますが、火葬のために出棺する翌朝の予定を話していたときのことです。
母にこういわれました。
「お前は来なくていいから、子供たちと一緒に10時半くらいになったら、式場に来ればいい。兄ちゃんは棺を運んだりする仕事があるから連れて行くけど、お前はゆっくりしてていい。」
え?!おばあちゃんと最後のお別れに私は同席しちゃ駄目なの?
「え?行かなくていいの?」
「バスに乗る人数が決まっているから、朝も早いから来なくてもいい。」
なんだか釈然としなかったのです。確かに出棺が朝の7:30だから同じ市内とはいえ30分くらいかかる母の実家まで間に合うようにするには子供たちと6:30には出かけなければならないことは確かですが、でも最後のお別れにどうして来なくていいと言うんだろうと思って・・・。
母の姉のところには私とひとつ違いの従姉妹がいて、彼女は三人の子供がいますが、彼女も出棺を見送った後、火葬場まで行く予定になっているんですね。同じ立場なのに、私は行かなくてもいいなんてすごく納得がいかなくて・・・。


でもこういうとき私は母に直接言えないのです。
だから父をつかまえて事情を話しました。
「お母さんが、私は火葬場に行かなくてもいいって言われたんだけど、私は最後のお別れだから一緒に行きたいんだけど、行っちゃだめなの?」
「バスは余裕があるから乗れるし、おばあちゃんと最後のお別れなんだから孫のお前は行かなくちゃ駄目だろう?」
「でもお母さんは来なくていいってって言ってるよ。」
「大丈夫だからみんなを連れて火葬場まで来なさい。」
そう父に言われたので、お通夜が終わって家に帰ってコタツに当たりながらみんなで明日のことを話していたとき、父も同席しているので思い切って母にそれを提案しました。
「明日火葬場まで一緒に行きたい。おばあちゃんと最後のお別れをしたいから一緒に行く。」
そういうと父が私の発言に加勢してくれて「バスは乗れるから大丈夫だ」と言ってくれたので、母も「じゃあその代わり子供たちも明日6時に起きていかなくちゃいけないわよ。」と言って了解してくれました。
ああよかった・・・。
そのおかげで私たち家族は祖母の火葬に立会い、子供たちにも祖母の骨を拾うということを教えてあげられたし、私も祖母の最後の姿を見舞うことができたのです。


ただこのやりとりは私の中でちょっとショックでもありました。母はきっと子供を連れていくと迷惑がかかるからと思って火葬場への参加を考えていなかったのかもしれませんが、私は私なりに祖母に対して想いがあり、見送ってあげたいという気持ちは持っていたからです。それを子供がいるからと簡単に切り捨てられたような気持ちになったり、それに「お兄ちゃんは連れて行くけど、お前はいい」といわれたのがどこかで面白くなかったんでしょうね・・・。


母はどうしてそんな風に考えたんだろう。
もちろんそれは葬儀を取り仕切る実家のお嫁さんたちへの気遣いであったのかもしれませんね。
でも私は「なぜそう言うのか」という理由がわからないからいつも納得できない。「あれもだめ、これもだめ」という切り捨て方をするけれど、なぜそれが母としては駄目ということなのか、わかる言葉で説明を受けたことが一度もないのです。


だからどうしても、母に対して「私はこう感じたの、こう思ったのよ。」と話せないのかもしれません。自分の気持ちを開放できない。心から開放できなくて、結局事務的なやりとりだけはできるけど、気持ちや感性の部分においては行き詰ってしまうんですね。話したらバッサリ斬られちゃうんじゃないかって怯えてしまう。私がどう思っているのか、母はどういう思いを抱いてこの人生を生きてきたのか、本当は私はそれを話したかったし、聞きたかったのです。私という人間を育てる間に起きたさまざまな葛藤も、喜びも、きっと何も無いわけないのですから、聞きたいと思っているんですね。そういえば、そんなことを私たちは親子なのにほとんどしてきませんでした。私が夫婦の危機をずっと抱えながら生きていた頃、本当のことを私は母親に打ち明けられず、いつも「お前の我慢が足りない」と言われ続けてきました。だから母にどうしても心の叫びを打ち明けるのに数年を要しました。あの時、私が勇気を振り絞って自分の現状や気持ちを始めて打ち明けたときも、母だけではなくて父も同席していました。父がいないと私はひとりで母と向き合う勇気が持てないんですね。


ただ、私の気持ちを打ち明けてから、母はずっと反対していた占いの道を進む私をけなすことはなくなりました。本来は子供をいついかなるときも守るという気持ちには満ちていた人なので、受け入れる努力をしてくれたのかもしれません。でも葬儀のときのように、ちょっとしたことですが、母の考えが理解できなかったり、私自身が言い返せないときもあります。距離を感じるというべきなのか・・・。


私は母に対して感じたことを占いの師匠であり、ある意味今の私にとってはもう一人の母と呼べる輝夜師匠に打ち明けてみました。輝夜師匠がこう言ってくれたのが印象的でした。


『精神的な交流や深く関わるということは、親子の場合、なにも親がリードしなければいけないと決まっているわけではありません。雨音さんのお母さんがリードしないのであれば、雨音さんが引き出してあげたらいいと思いますよ。口下手な人から話を引き出すようにするのと似ています。そういうやり取りを遠慮しないで、むしろ積極的に行うようにすると、親子は意味があってご縁を持った、誰よりも特別な関係ですから、ちょっと他ではありえない魂の覚醒が果たせます。』


輝夜師匠がおっしゃるには、私も私の母も両方とも「聞き役タイプ(積極的に自身の考えを主張しないタイプ)」で、そして兄は「話し役タイプ(積極的に考えを述べ、リードするタイプ)」。しかも兄の話し方は誰が聞いてもわかりやすくて明快だから兄の考えていることは把握しやすいし、扱いやすかった。でも私は自分のことは話さない上、そして親子間で最も大きい障害になっているのは、私が母に対して何かと反抗的だったということ。その上、自分の容姿に自信のない私は後ろ向き発言が多かったから、母としては素直に言うことを聞かない娘よりも、どうしてもわかりやすくて前向きな兄のほうに傾倒してしまったのではないかということでした。そうですね・・・まったくそのとおりです。兄は男だけど私よりもトークに花が咲く人です(笑)。男ってあんなに母親に対してオープンなのかと思ってしまう!でも兄のようにオープンな気持ちをもてない、素直じゃない私は母の意見は小言にしか思えず、絶対に母の言葉には従ってきませんでしたから・・・。


また、もうひとつこの葬式でのやりとりにおいて輝夜師匠から鋭いご指摘を受けたのは、私と父の関係でした。


『雨音さんはいつもお父さんを盾に使っていました。これもひとつの依存で、自立が出来ていないことになります。自分の問題を自分で解決するのが自立なので。ですから、今回のように雨音さんがお母さんとちゃんと向き合おうと思うことは、雨音さんにとって必要なことだと感じます。雨音さんのご両親は離婚になったり夫婦仲が悪くなるようなことはなかったので良かったですが、雨音さんがお父さんを盾に使っていることにお母さんは気付いていたと思うので、人によっては、それが原因で夫婦仲に亀裂が入ってしまう可能性もありました。なぜなら、一般的に母親は「夫よりも私の方が何倍も苦労して色んなものを犠牲にして子育てしてきた」と思いがちなためです。ですから、子供が母親に懐く分には問題ないのですが、父親に懐くのは問題が生じる場合があり、夫婦間、母子間の亀裂を招いたり、母親の浮気による離婚ということもあります。少なくとも、子供が母親に懐かない場合、「自分が一番苦労した」と母親が思っていればいるほど子供が憎たらしく見えるため、冷たい関係となりやすいです。』


私が母に直接対峙せず、父を頼りに問題を乗り越えようとしたことは実は依存のひとつだったんですね!こんなにわかりやすいかたちの依存はないのに、全然気づかないでずっとこのパターンを使っていました(苦笑)。
母としての私自身の立場で想像してみれば、自分は命を持っていかれる!と思うくらいの痛みと気持ち悪さを二回も味わいながら子供を生んで、あらゆる時間と金銭と自分の自由を夫とは比較にならないくらい犠牲にして子育てに没頭してきているのだから、それなのに子供たちに「パパがいい~~~」なんて言われたら、私も、言葉は悪いのですが、「なんだとぉぉぉ(9 ̄^ ̄)9!!!」って怒りに身を任せてしまうかも・・・。何かと夫の味方につこうとする子供に、どう考えても優しくなんてできないですよね・・・きっと。


でも、祖母を見送って思ったのですが、いつか私も自分を生んでくれた母にさよならを言う時がくるのですね。
母は義父母と同居し、しかも明治生まれの石よりも硬い頑固じいちゃん(私はおじいちゃんを内心そう名づけていた)と頭のいいおばあちゃんとの厳しい同居生活の中で私たち兄妹を育て、家を守ってきました。そんな母がいつも私たちを乗せて実家に向かうときはどんな気持ちで自分の両親の顔を見てきたのでしょうか・・・・。
今私が母になって感じることは、きっと母も感じてきたことだと思うのです。もしいつかさよならする日が来ても、私は母との向き合いでこれだけのことを話せた!というものを作っておきたい。自分を生んでくれた人と、事務的なことしか話せずにお別れをするなんて、きっと私は後悔すると思うんですね。もし、母に対して自分のことを正直に話せるようになってきたら・・・・私の人間関係も、今までのことも、きっと変わってくるような気がします。そして話下手な私ですが、ここはやっぱり反省し、子供にはいろいろ話してあげたいと思います・・・・。
 

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先週木曜日の夜、私の母方の祖母が87歳でこの世を去りました。


ちょっと長くなってしまいますが、祖母のお見送りのことを記載させていただきますね。


祖母逝去の連絡を受けたのは金曜日の朝。お通夜と告別式参列のため、週末は実家に戻っていました。
2/4のブログで、祖母のお見舞いに行ったことを記載していましたが、それから二週間ほどのことでした。逝去の二日前、実家の母と連絡をした際、「あのお見舞いのあとおばあちゃんはぜんぜん反応が無くなってしまった。もう長くはないと思うから、覚悟している。」という言葉を聞いていて、あのお見舞いに行った日はたまたま調子がよかったんでしょうね。その後は一向に回復せず、毎日お見舞いに出かけていた母も、だんだんと別れの時を予感していたのでしょう。ただ私のほうは、2/28に父方の祖父母の13回忌が実家であるため、またその日に祖母のお見舞いに行こうとは考えていたのです。


しかし、その再会予定の日を待たずに祖母は旅立っていきました。


私は、奇しくも息子の学級閉鎖があったために、予定外で2/4に実家に行くことができました。私はお仕事をしていますし、それとは別にどうしても出かける予定が入っていたため、学級閉鎖をされて息子の預かり先がないので、子供二人を実家で4日間預かってもらうようお願いしました。ちょうど母も時間が空いていたし、正月に遊びに行かなかったから大丈夫だよと受け入れてくれました。もしこのとき、この学級閉鎖がなかったら、私は祖母を見舞うことができず、後悔を残して最後のお別れに参列することになったでしょう。


最後に見た祖母は、私の言葉にうなづき、私を見て笑ってくれた・・・。聞こえる、とうなづいてくれた。
あの後、反応がまったくなくなってしまったということなので、本当に私は幸いだったのかもしれませんね・・・。私が最後に見た祖母は体こそ動けなくなっていたものの、耳も目も頭もちゃんと反応していたのですから。


自宅に戻り、化粧された祖母はとてもきれいでした。
穏やかな顔で、今にも起きてきそうです。でも点滴だけで栄養を補給していたので、ふっくらとしていた祖母の顔からはずいぶん痩せてしまったんですね。
それでも、いろんな管につながれていた病院から、自宅に戻りようやくあらゆる管から開放され、穏やかに眠っている姿に「おばあちゃん。長い間ありがとう。本当にお疲れ様でした。ようやくおじいちゃんに会えるね。」と声をかけさせてもらいました。


7年前に亡くなった祖父は脳梗塞で、祖母が自宅で介護していました。二人には二男二女の四人の子供がいます。私の母は二女です。祖父母はずっと長男である叔父家族と同居していますが、代々続く大きな家で、昔でいうところの庄屋のような家だったそうです。祖父は現役時代、とにかく地区の役員をいくつもをこなしていて、家には感謝状がずらっと並んでいた記憶があります。今の叔父の代で17代目くらいだそうです。ちなみに両親を初代として十代遡るとなんと1,024人ものご先祖がいることになるのだそうですから、17代目ともなると母方だけで2000人近いご先祖様がいらっしゃるんですね!
母が言うには、そんなに長く続いている家系なのだけど女系らしくて、何度か養子を迎えているらしいです。そういえば、跡継ぎである叔父の子供は女三姉妹です。


四人の子供たちはみな今も元気で、そして全員が祖父母のそばに居を構えています。そのおかげで、祖母の介護も母や伯母、それから叔父の奥さんが中心になって行っていました。
母は言いました。「もう十分にやってあげたと思うから、私は後悔はないのよ。」
そんな四人の子供から生まれた孫は9人。そして今、ひ孫は13人です。


祖父母の家は養蚕をしていた家なんです。
お蚕様のあの桑の葉を食べる音、動く音・・・お蚕様のお部屋に入ると、おびただしい数のお蚕様が飼われていて、なんでおばあちゃんのお家は得体の知れないこんな虫をたくさん飼っているんだろう?と不思議でした。
そして広くていくらでも遊び場になる大きなお屋敷にお庭。祖父母の部屋の座布団のにおいと、お蚕様の部屋のにおい・・・今でも思い出せます。


祖母は大きな家を守りつつ、いつもしゃんとしていた、筋の通った肝っ玉母さん・・・そんな姿勢の人でした。87才・・・天寿を全うしたことになりますよね。子供たち全員に見送られて、その場にいるみんなが祖母の死を悼みながらも、でも尊敬し、感謝し、「おばあちゃん、本当にありがとう。」と心から送り出せた儀式でした。


お通夜が終わり、みんなでお酒を飲み交わしながら、親族だけの席になりました。そこで昔のアルバムが登場し、親族たちがおばあちゃんの思い出を語りながら、同時に「どの孫が一番迷惑をかけたのか」ということで話が異常なほどに盛り上がり(笑)、この家に遊びに来たとき何枚ガラスを割ったとか、おじいちゃんがにわとりを目の前で絞めて、それをカレーにしたけれど、目の前でにわとりを殺されたショックでカレーが食べられなかったこととか、おばあちゃんに叱られた話、それからおじいちゃんとの写真を見ながら、誰に似ているとか・・・。東京育ちのわが夫はこの異常なまでのにぎやかな盛り上がりのお通夜にびっくりし、「もっとしんみりするものじゃないの?」と不思議がっていました。


祖母が19歳で結婚したときの写真が出てきました。セピア色の花嫁衣裳の写真。おそらく昭和15年くらいでしょう。そのあまりの美しさに、一同は感動しました。またその目元が内孫である叔父の次女にそっくりでしたし、
目元がぱっちりしているのはわが母と同じです。昔、祖母が母に向かって、「わが子ながら美人だ。」と誉めていたこともありましたが、母の美人は、祖母譲りだったんですね(残念ながら私は母方にはまったく似ておりません。ああ、似てみたかったパッチリ二重まぶた・・・)。


孫もひ孫も叔父伯母たちも、みんなで思い出話に大笑いしたり、祖父や祖母のことを語って、飲んで・・・。
母なんかは「そんなに騒いだらおばあちゃんがうるさいって棺から起き上がってくるよ!」と言いながらも、みんなの幼いころの話に花が咲きました。にぎやかに、そして温かく、祖母を囲んで思い出を偲びました。


そのお通夜の席で、私の兄が「俺は小さいころ遊びに来るたびガラスをいっぱい割っておばあちゃんに迷惑をかけたから、今夜はおばあちゃんの横に寝る。」といって、その夜棺に添い寝をして泊まったんですね。祖母は大きなお座敷の奥で、祭壇の前で棺に入っている状態です。普通の家の何倍も大きいので、お座敷に寝るといっても、慣れないと寂しさや怖さを感じる場所なのです。
兄いわく、子供時代にこの家のガラスを三枚くらい割ったそうなのです。自分はやんちゃでこの家に遊びに来るたび、いたずらをしておばあちゃんに怒られたと。でも本当のところはきっと、明朝骨になってしまう祖母に最後の夜を、こんな広いお座敷でひとりぼっちで眠らせるんじゃなくて、孫である自分が朝まで寄り添おうという気持ちだったんでしょうね。


こんなさりげない優しさを誰に言われなくても持っているのが私の兄。ああ、やっぱりこの兄には敵わないと思いました。孫は9人もいるし、内孫だってこの家で寝ているのに、結局お座敷で祖母に添い寝してあげたのは兄だけです。私は現実に子供の世話があるので泊まれないと言う事もあるけれど、思いつくという気持ちがあるとないとでは全然違うものですね。


そんな兄はもちろんアラフォー世代になってもなお、父方母方どちらの親戚でも、ムードメーカーで人気者です(⌒-⌒)。兄はお見舞いできずに祖母を見送ることになったので、それも寄り添いたい気持ちに拍車をかけていたのでしょう。


今回のお葬式は神式でした。特にこの地域は神式で行われる風習があるらしいです。
実はお通夜も通夜祭と言うらしいです。告別式は葬場祭、神葬祭とも呼ばれます。そして四十九日は五十日祭と呼ばれます。不祝儀袋は「御霊前」です。「ご香典」は仏式なんですね。それから一番戸惑うのは、お坊さんではなく地区の神主さん(斎主さん)が葬儀を行うことと、焼香がなく、玉串奉奠(たまぐしほうてん)を行うこと。その際、神社の参拝と同じように、二礼二拍手一礼を行いますが、この二拍手は音を立てないで行うことになっています(しのび手と言います)。仏式のお葬式ではないので、参列者が「え?焼香がない?!」と祭壇前で戸惑う姿が多く見受けられました。


仏式の葬儀と神式の葬儀で大きく違う点を調べてみました。仏教が即成仏を祈るのに対し、神式は故人の霊が家の守護神・氏神として祭られる点にあるそうです。また、仏教の場合寺院でも葬儀が行えるのに対し神式の場合「死は忌み嫌うもの」として神社での葬儀は行えず、戒名もないといったことも、大きな違いです。


何よりもびっくりしたのは、祖母の斎主を務めた地元の神主さんは94歳!
今も現役で、地域の活動や神式の催し物があると、出かけていって働いているんですね。87歳の祖母を見送ってくれたのは94歳の現役神主さん。でも見た目は60歳といっても通用するくらいに若々しいのです。自分より若い年齢の方の葬儀を、この神主さんはどんな想いで見送っていくのでしょうか・・・。


無事に告別式が終わりました。祖母の死は確かに悲しいものだったけれど、だけど祖母が残してくれた思い出という財産の中で私たちは祖母を感じることもできるし、これから子供たちに、祖母が教えてくれたことを伝えていくことができます。思い出の中の祖母はいつも働いていて、厳しいけれど、いつも温かいまなざしで私たちを出迎えてくれた人です。あんなふうに私も年老いていけたらいいな・・・祖父に寄り添い、身体が動くうちはいつも働き、子供たちが何を言わなくても自然に集まってくるような、生前の祖母のように。


さよなら、おばあちゃん。
私の母を生んでくれてありがとう。母は結婚してこちらの家で性格のきつい姑と舅に囲まれて、大変だったと思うけれど、きっとおばあちゃんの顔を見るために実家に足を運ぶときが一番ほっとする時間だったんだと、今ならよくわかります。おばあちゃんが一生涯通じて持っていたシャキンとした強さが、私には遺伝しているかな?
これからはおじいちゃんと二人で、私たちを見守っていてください。


(今日の日記は大変長くなってしまいましたが、まだお葬式を通して感じたことがありますので、またそれは別の日にこちらに記載させていただきますね。)
今日は久しぶりに新宿まで出かける用事があり、電車で遠出しました。すごい人、すごいパワーがある街です。自分も10年前はここで働く人間だったのですが、こんなにたくさんの人が行きかうこの大都会でよく毎日過ごしてきたなあ・・・とちょっと驚いたりもします。それだけ私の普段の生活は淡々としていて、こんな雑然としたなんでもあり!の新宿とは距離のある生活を送っているということでもありますね。


さて、なぜ新宿に来たのかといえば、あるイベント会社に占い師として登録させていただいており、その会社が今度HPをリニューアルする際にきちんとした写真とプロフィールを掲載する運びになったので、ぜひ写真を撮って送ってくださいと依頼されていたんです。でも新宿に出かけるまとまった時間がなくて、先延ばしにしておりましたら、社長さんからじきじきに催促メールをいただいてしまいました(汗)。


指定されたスタジオに入ったときは外の風で髪はセットの苦労も完全に消えておりました(笑)。


対面鑑定の際に着用する黒い仕事服を着て、普段はメガネですが今日はコンタクトでばっちりメイクもしてきました。気合は入っています!しかし、いざカメラを向けられると、本来は自分の顔形、スタイルにまったく自信がない私は気恥ずかしくて・・・・「ハイ、笑ってください」と言われてもひきつるばかり。出来上がりが怖いなあと思ってました。

10分ほど待つとパソコンの画面に私の顔が何枚も並びます。それこそ画面いっぱい「雨音、雨音、雨音、雨音・・・」それがまず可笑しくて吹き出してしまいそうになりました。自分の顔がこれだけ並んでいるし、しかも営業スマイルです。恥ずかしいですよね~~。


でも最も強く思ったのは「ああ、私って老けたなあ」ということでした。


当たり前ですよね。来年はもう40代なんですから。昔と同じわけがない。鏡を見ていると気づかないけれど、写真にするとわかるんですよ。あごのラインが妙にくたびれ始めていたりすることに。口元に年齢が出るんすね。
それにこれはどうしようもないことなんで、老けたということに対してショックはありませんでした。普段何も手入れをしていないのだから、ある意味朽ち果てて当然と言えば当然だよね・・・と思っていたからでしょうか。


ただ、老けたけれど貫禄が出てきたと思ったんですね。
この場合は占い師としての貫禄というよりも、おばさんたちが持って匂わせている貫禄ですが。


若さは退化します。保つことはできても、すべての老いを止めることはできません。でもそれと引き換えに私は年配者独特の空気を持つことができ始めているんだ・・・と思うと、この貫禄の兆しは結構嬉しかったですね。
いくら頑張っても20歳の肌には勝てません。力もなくなってきたかもしれないけれど、だけど「そう簡単には負けないわよ!」と言いたげなふてぶてしさが身についてきたなら、自分もこの年の重ね方には納得できます。


この宣伝用写真をアップしようとしたら、重すぎてダメなんですね。プロフィールの写真を気分転換に差し替えてみようと思ったのですが・・・残念です。背景をピンク色にしてもらいましたので、「明るく親しみやすいイメージ」の写真の仕上がりになって、私の顔立ちはともかくとして(笑)、仕上がりはとても気に入っています。また機会がありましたら公開させていただきたいですね。
二月だけど、とっても暖かい日が続いていますね!


昨日はコタツをつけて家にいたんですが、なんだか外に出たら外のほうが暖かくてびっくりしました。まだ二月だけどこんなに暖かくなってしまっていいんでしょうか?花粉予報も多摩地区は「非常に多い」に変わり、私は洗濯物を家の中に干す毎日です。


学級閉鎖で実家に子供を連れて遊びに帰ったら、最終日に息子が熱を出し、そのバトンは木曜日に娘に引き継がれ・・・土曜日は占いの定例会議の予定でしたが、それもなくなってしまいました。大事をとってずっと家にこもっていたので、外がどんなに春らしい一日なのかもよく知らずに過ごしてしまったようです。風邪を引いてしまったらその週は大体全滅するんですね。今週はまさにそんな一週間でした。インフルエンザではなかったのが幸いです。


風の音だけはとても響いてきます。春の嵐ですね。
それから我が家の前の家がいよいよ上棟され、本格的に建築が始まったので、その音もかなり響いてきます。


まるで冬眠している動物たちのように、家の中で過ごし、春が来ても花粉があるので外に出るのをためらうのはなんだかさびしいですが・・・。バレンタインなども特別にすることもなかったので、今日は子供たちとお菓子でも作ろうと思います。皆さんはこんな日曜日はどんな風に過ごしているのでしょうか。私は予定がない限りは本当に限りなくインドア派なんです。子供は外で遊べ!なんて思うのですが、そうなると自分も付いていかなければならないので、じゃあ家の中で・・・ってことになってしまって。矛盾してますよね(苦笑)。


でも家の中で過ごしていても主婦はあれこれ片づけがあって、結局いつもとすることは一緒。
本当の休みは、家族が出払った時間帯です(笑)。
『僕のちから』


「最近忙しい」という言葉を
「ありがとう」よりも
いっぱい発信している


そんな自分の生活がやばいと思っていたんだ


コンビニでちょっとだけ買い物
なんてことはないただの買い物
おつりは10円
「ありがとうございました」と共に
手のひらにゆっくりと渡される丸いもの


久しぶりに「ありがとう」を聞いた
僕はその人の顔を見た


あんなふうに僕は笑っているだろうか
働いている その現場で


僕はこんなふうに
込めた想いで
誰かをハッとさせているだろうか


おつりをしまいながら
僕も「ありがとう」と頭を下げた
その人はまた微笑んでくれた


そんなことが僕の人生に訪れてくれる


僕は無力な人間
権力も学力も財力も体力も顔力も
縁がないけど
言葉で誰かにお礼が言える
誰かの優しさに気づくことができるハートが
まだしっかりとここにある


だから 大丈夫だ



2009.2.12 BY雨音
近所によく行くコンビニがあるんですが、ここの店員さんは全員が、と言ってもいいくらい、気持ちのよい応対をしてくださるんですね。特に午前中のシフトの方は花マルをあげたいくらいです。おつりひとつ受け取るのもさわやかで、にこやかなんですね。お仕事が楽しそうなんですよ!
そんなやりとりを思い出しながら、ここのところ誰かに心をこめて「ありがとう」って言っているかな?という意味をこめてこの詩を作ってみました。私はお仕事でお客様と電話でお話しすることになりますが、最後に必ず挨拶は心をこめて伝えるようにしています。「ありがとうございました」・・・その中にはご縁を持ててありがとう、ご縁をつないでくださってありがとう、これからこの方が今の問題を逃げずにクリアできますように・・・とさまざまな想いを祈りをこめて発声しています。しかし、身近な家族にはつい「ありがとう」って言わなくなっていくんですよね。一番接点が多いのに。ありがとうって家族間で言うと新鮮だったりする(^-^;。本当はもっと自然に言葉が出れば一番だと思っています・・・。言葉には力があります。その力を受け入れ、いい方向性に持っていける自分でありたいと言う願いを「僕」に託してみました。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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