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占い師としての成長日記
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明日から四月。
入学式はまだ来週だけど、息子の通う学童には明日から新一年生が一足先に入ってくるのです。

夕飯のとき「四月から一年生が入ってくるね~。二年生だからいろいろ教えてあげてね。」と、息子に言いました。
そしたら、息子がちょっと勢いのない発言。
「うん、でも俺負けちゃうかもしれない。」
「どうして?」
「だって俺、小さいから。」


息子が自分から、自分のことを「小さい」と言ったのは初めてかもしれません。


それだけ周りと自分、という意識が出てきたのでしょうか。


確かに、彼の背は低いです。どこに所属しても、クラスでもずっと一番前。道を歩いている人に「今度入学なの?」と言われることも。彼には、三月生まれだからね~と言い聞かせてきたけど、同じ三月生まれでも背の高い子は高い。
ただ、周囲を気にするということは「劣等感」が芽生えてきたということでもあるんでしょうね。


できるだけ、私としては「不安」という色を消したいと思って、とにかくしゃべりました。
「お母さんだって、中学生までは一番前だったよ~。それに、今度三年生になる子だって、二年生よりも小さい子いるでしょう?」
「うん。いる。」
「いろんな子がいるからね。背の低い子はHだけじゃないよ。それに、背はこれから伸びるし、毎日ワダカルシウム飲んでいるからバッチリだよ。今、体の中にたくさん伸びる栄養がたまっているんだからちゃんと大きくなるよ!」


息子の背が今後どうなるのかなんて、正直言って私もわかりません。
でも、大事なことは「小さい=弱い」「小さい=ダメ」という価値観を膨らましてはならないこと。世の中の流れがそういう大きなものをよしとする傾向がある中で、私は自分の価値観も同時に見直さねばなりません。
身長って、子供の世界の中で一番残酷なほどわかりやすい基準になっているかもしれません。ましてや男の世界は。


でも、「Hのお心が誰よりも大きいかが大事!」といつも励まして終わります。この手が幾つまで通用するかわからないけど・・・(苦笑)。


私は息子が私の元にやってきてからずっと考えていたことがあります。
何でこの子が私の子供なんだろう。この子は私を鍛えるために、自分が背負いたくもない「男のチビ」の看板を背負って来てくれたのかなって思うんです。しかも一番子育てに気合が入る最初の子が三月生まれで・・・。
比べて落ち込んだりすることが最も多いかもしれない。


ママが一番!と思ってくれている間は、「絶対大きくなるから大丈夫!」と魔法の呪文のように、言ってあげようと思います。もし、それでも小さいままでも、劣等感に負けないように、彼の他の魅力を引き出せるように、見守るしかないですよね。


息子の男の子という心の中に、男としての意識が芽生えてきたのですから、それは拍手だと思いますよ。いつか反抗されるとしても、それはそれで大切な道なんだから・・・。
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先日の日記で、今年の目標を書きましたが(ご飯を中心にした食事を作る)、もうひとつ、書こう書こうと思っていた目標があります。


実は、小学校一年のわが息子、12月からボーイスカウトに入隊させていただきました。
いや、ボーイスカウト、冗談抜きでいいですよ。今の時代の学校よりも、よほど指導者が指導者たる器を持っているし、「これぞ!」というときには、親と同じようにビシッと叱ります。道路をいきなり飛び出すとか、危険なことをしようとしたら、手も出すみたいです。でも、すごく「よくやった!」「いいぞ!」と、褒めるときはとことん褒めてくれます。
週末はどこにも行かずにごろごろして、妹を泣かせるか、DSばっかりやっていて、ゲーム三昧だった息子をなんとか外に向けさせたくて、知っている人もいないけどとりあえず体験させたボーイスカウト活動。いもほりあり、登山あり、クリスマスありと、行事もたくさんです。


そして、ボーイスカウトというのは、習い事と違って、親の協力が必要な場面が意外と多いんです。
これは、正直言って、大誤算でした(苦笑)。私は息子を外に連れ出して欲しかったのですが、親も影でいろいろ手伝わなければならないことが多いみたいです。そう、まるで幼稚園の行事を髣髴とさせるような!


実は、ボーイスカウトに入ったけど、別に知り合いが入るわけでもないし、同じ小学校の人もいないので、ちょっと孤独な我が家なんですね。
それは、この土地に来てからずっとそうなんですが・・・(苦笑)。


なので、ボーイスカウトのお手伝いで、知らないお母さん方と一日を過ごすなんて私には地獄の責め苦としか言いようがない試練です。私にとって、実は最も苦手なことだといっていいでしょう。知らない人、苦手な人と共同作業をすること。時間を過ごさねばならないこと。できるだけ避けてきました。仕事があるからとか言い訳を作って・・・。下の子もいますから、できるだけできるだけ関わらないように、人間関係の煩わしさに飲まれないようにしてきたんです。


これは、私が基本的に、他人とかかわりを持つことに恐れを持っているからかもしれませんが。知らない人たちの中で、どう振舞えばいいのか、私は迷ってしまいます。


でも、知ってもいるんです。そういった関わり合いから逃れていれば、楽なこともあるけど、誰からも大事にされないことも。自分を助けてくれる相手も、自分も助けてあげたいと思える相手も出てきやしません。
虎穴に入らんずば虎子を得ず。
私は、今年、虎穴に入るつもりです。


だめかもしれません。入れないかもしれません。でも、独りぼっちになってしまうかもしれないけど、息子の活動を、それなりに応援して行こうと思います。


ボーイスカウトは、親も一緒に登山したり、キャンプしたり「一緒に楽しんでください」と言われました。
そうか・・・と思いまして、頑張っていろいろお手伝いして、全力で地域になじもうと感じています。
ストレスもあるかもしれませんが、逃げてばかりはかっこ悪いですからね!

久しぶりに自己反省の日記を・・・(涙)懺悔のような告白ですが。


二週間前、息子の太ももにとびひを発見して、土曜日の晩に救急病院へ連れて行き、薬を処方してもらったのです。抗生物質と塗りくすり。
抗生物質は、渡された分量をちゃんと飲み切らないといけないということですが、私は次の日は飲ませたものの、翌々日はすっかり忘れて、しかも学校が始まって一日三回の規則正しい薬時間がなくなったことを言い訳に薬を飲ませるのを放棄しました。


塗り薬だけでとびひを治そうと思っていたのですが、どうも風呂上りに見る息子の病状が日々悪化していくんですよ・・・。
でも「まあ、こんなものなのかな?」と思って塗り薬だけで対処してたら、いつまでたっても水泡が消えず、息子の股間~お尻にかけてものすごいことになってしまって、夫に「病院に連れて行け!」と言われ、ようやく二回目の受診をしました。


診察の際、息子がパンツを下ろして股間を見たとき、先生の「なに?ひどーい」という声がこだましました。


看護婦さんに処置をされ、二人がかりで包帯やら薬やらを巻かれて、息子の股間はオチンチンだけが顔を出しているという不思議な姿に。
看護婦さんが処置をしている間、私は看護婦さんから、さんざん怒られました。とびひをなめてはいけません!傷口にばい菌が入ったら、全身に熱が出て入院ですよ!!抗生物質は飲ませないと治りません!!
ここまで悪化したら学校なんてとんでもないですよ。とまで・・・二人がかりで教え諭されました。


私としては、とびひってそんなに恐ろしいものなのか・・・と思って認識不足を痛感しました。「なんとかなるよ」って考えるのが私のやり方なんですが、子供の健康や病気に関しては、手を抜いてはいけないんですよね。思い切り、手抜きをした結果が学校休みになってしまったわけです。
娘を蓄膿にしてしまったという過去の経験が生きていない・・・。


薬を飲ませるって、正直言って、本当に面倒くさいんです。
嫌がるし、こぼすし、忘れちゃうし。
めんどうくさがると、その後が大変なんですよね。倍になって帰ってくる。小児科にいって待っている時間やお金を考えたら、ちゃんと処方された薬を飲ませているほうが、全然無駄なストレスにならないわけです。
子供が大きくなるとつい油断したりしますが、やっぱり、まだそれは許されないんですよね・・・。


子供だけではなく、大人もとびひになりますから、お母さん気をつけてくださいねと、言われました。
たるんだ気持ちに思い切りカツを入れられた一日でした。


今日は娘の保育園でお楽しみ会が開かれました。働く父母のための施設である保育園は土曜日が重要な行事日です。お楽しみ会とは、それぞれの学年が、合唱や合奏、それからお芝居を父母の前で披露するもの。お遊戯会みたいなものですね。


娘は4歳。4歳児は、歌と、合奏、それからひとつお芝居をすることになっていました。私は一番前の席を確保することができました!女の子だからこういった催し物は子供のほうが大変気合が入っているのです。「ママ見ててね!」と言って、いろいろお話をしてくれました。お楽しみ会のために、毎日練習を重ねてきたようです。


で、4歳児の番になりました。合唱と合奏です。合唱が終わった後、合奏は「かえるの歌」です。私の座っていた場所は一番前の列ですが、娘は後ろの列の一番端にいたので、前の列の友達の頭が邪魔をして、ビデオでも娘の全身がうまく入りません。でも一生懸命歌っている様子はわかりました。女の子は、男の子よりも歌を歌うのが本当に好きですよね。


歌が終わって、次の合奏に入りました。
ビデオでその様子を写していたのですが、位置的に、どうしても私の位置から娘の楽器を持つ手元が見えないのです。


問題はここで発生していたようです。


演奏中、娘は片方の腕をスカートのポケットに入れたり出したりしています。演奏中とは思えないくらい、不自然な動きなんです。娘は鈴を担当しているのですが、隣にいる鈴を振っている女の子と動きが合わない。あれ?と思いました。


実は・・・このとき、娘の分の鈴がなかったんですね。


前の子の頭に娘の手元をさえぎられていたため、私はそれに気づきませんでした。


お楽しみ会が終わり、家に帰って、さあビデオを見よう!ということで早速再生をしました。しかし、合奏の部分に来て、音楽が始まっているにもかかわらず、娘は明らかに手に何も楽器を持っていないシーンがあり、ここで初めて私は娘に問いかけました。


「もしかして・・・・鈴がなかったの?」
「うん・・・本番は二つしかなかった」
というではないですか!
三人で鈴を担当したのですが、用意されていた鈴が二つしかなかったため、娘は合奏ができなかったんです。


・・・ここからの日記の文章が、感情的になってしまったらごめんなさいね。
合奏の間、もじもじしていた娘の気持ちを思うと、いてもたってもいられなくなって、即保育園に電話をして、事情を説明しました。


観客の大人が150人くらいずらっと見ている舞台の上で、自分だけ楽器がなくて、でも隣の子は楽器があって、でも演奏がもう始まろうとしている中に「先生、鈴がない」とはとても言えなかったと思います。先生たちも他のことに手いっぱいで、全員に楽器がいきわたっていると思ったのでしょう。
でも一生懸命練習してきたのに、不手際で楽器なしの合奏参加は、私だったらとても辛いです。私は保育園に電話をしましたが、そのときの娘の気持ちを思うと何だかやるせなくて、孤独感が募ってきて、自分が取り残されたような感覚というべきなのかな?これはとても自分ひとりの胸に押さえていられるものではなかったんです。楽しみにしてきた子供の気持ちを考えると、先生に事情を説明しながら、涙が溢れて止まらなかったです。


もう終わってしまった行事ですし、保育園のことを責めることはできませんが、娘のやるせない気持ちをだまって見過ごすことも私にはできませんでした。


正直言って、今もそのときの娘の気持ちになろうとすると、どうしても感情的になってしまいます。私は幸か不幸か、楽器のない娘の姿を、リアルタイムで見れませんでした。見ていたら・・・私は、きっとお楽しみ会が終わった後、保育園に泣いて訴えていたでしょうね。
他の場所から見ていた父母たちにはきっと、娘が楽器を持っていない姿は見えていたのでしょうけど・・・。


この件を通じて二つ気づきがありました。


「恥ずかしかったから言えなかった」というのが娘の言い分です。
でも、「恥ずかしくても、ちゃんと言わないとわからないこともあるのよ」と教えました。娘は肝心なことを恥ずかしがって言わないからです。
恥ずかしくないんだよ、と導くことがこれからの課題です。


それから・・・子供って、自分の世界でいっぱいになってしまうと、お友達のピンチに気づかない生き物なのかもしれませんが・・・。
「もし、お前が今度、困っている友達を見つけたら、今日みたいに自分の分がなくて困っている友達がいたら、ちゃんと『先生、○×ちゃんのがない』って友達を助けてあげられるような子になってね」と言いました。
きっと本番で誰もがそれどころじゃなかったんでしょうね。


でも、この経験を通して、娘には「友達のことに目を配る」優しさを知ってほしいと思いました。


こういう体験をしてしまうと、その時のビデオをみるのが結構凹みます(苦笑)。
ビデオも良し悪しですね。
小1プロブレムって聞いたことありますか?


新一年生が、学校の授業をおとなしく聞いていられなかったり、授業の妨害をするなどの問題がここのところ多く発生しているそうです。
そして、息子のクラスもそのような傾向があり、事態を重く見た学校は、授業をスムーズに進行するためのサポーター役を派遣してきました。


教室の中に先生が2人いる、ということですね。


学校公開で、息子の所属するクラスが落ち着いておらず、けんかやおしゃべりが多かったり、休み時間にはけんかが絶えなくて、それを授業の時間にまで引きずっていたりというのを目の当たりにし「大丈夫なの?」と思える条件がいくつか重なっていました。先生はしゃべる子を注意し、注意しなければならない子供があちこちにいて、注意をしている間に授業が止まり、授業がとまることで他の子供たちも集中力を欠くという悪循環。
体育の授業を校庭で公開していたときは悲惨たるものでした。
先生1人でけんかしている子供を抑え、授業を行い、それを尻目に広い校庭を走り回る子に、クラスの集団に入らず、ふてくされている子もいました・・・。
他のお母さんから「一年生が学校から脱走した」ということも聞いていました。


時を同じくして、息子が学童に行くことを拒み始めました。それは10月の初めくらいですね。
私が仕事をしている関係で、在宅とはいえ、息子が家に戻ってきては私の仕事はストップです。ですから学校が終わってから息子は学童保育にお願いしているのですが、息子は私が家で仕事をしているのをよく知っているのに、家に帰宅して、ドアを30分以上ガンガンたたいて、私の鑑定が終わるのを待っているんです。
ドアを開けると息子が「疲れた。学童に行きたくない。眠い」を連発するので、何度か「仕事が入ったら絶対にお母さんの部屋に入ってはだめよ」と言い聞かせて学童を休ませました。
それが毎日続くようになったので、息子の異変が学校の荒れ具合とダブり、それとなく息子にいろいろ聞くようにしていました。
が、男の子は話さない!絶対に自分に都合の悪いことや友達に言われたことややられたことは言わないのですよ。
幼稚園時代からそうでしたので・・・。男のプライドというものがあるんですよね。でも学童に行きたがらないのが、息子の語らない部分を象徴しているように感じました。
そして同時に、息子の言葉遣いがひどくなりました。


「バカ」「嫌い」「ウンチ」というものではないんです。
「デブ」「ハゲ」「キモい」「うざい」「消えろ」「死ね」という、存在を否定する言葉、あるいは身体的な欠陥を指摘する言葉に代わっていきました。


息子はそれを家で使っています。
もちろん、私が知らないだけで、もしかしたら、学童やクラスで使っていることがあるのかもしれません・・・。
そういった思いやりのない状態にクラスが陥っているのが問題なのです。


そして、サポーターをつけたことで、先日臨時の保護者会が開かれましたので、私も参加してきました。
学校側は担任、校長先生が参加。学校側は、とにかくこのような事態になったことは学校の管理責任であり、担任の指導の問題であるということを最初に父兄に謝罪がありました。


私は、この問題に対してこう思ってきました。


小学校一年生の指導は本人の性質や人格に問題があるわけではない。
もちろん、学校の指導ということもあるかもしれないが、私が見ている限り担任の先生は一生懸命ご指導してくださっている。今の、一年生という年齢を考えたら、それは親の姿そのものが映し出されているのではないか。子は親の鏡なのだから、親の問題がクラスで出ているのだと思う。
本当は基本的なしつけや思いやりや挨拶、それは家庭で行うものだ。
だから、私たち親の責任がどれほど重いものかをこの問題を通して考えるべきなんだと思う。学校だけの責任にするにはあまりにも無責任だ。
それに、小学校に入ったら、私は小学校のことがまったくわからない。何が起こり、何があったのかを知ることができない。子供はそれを家で語ってくれないからだ。でも「知らない」で終わるのではなく、もっと積極的に学校や子供たちに関わるべきだと思う。学校も、昨今のPTAなどの動向もあるが、親たちに飛び込むことを恐れずに、もっと親と学校がぶつかるべきだと思う。


そんなことを「ご意見のある方は手を挙げて発言してください」と求められたので、発言しました。


私はこう発言したのですが、他の方は手を挙げるというのはなかなか難しいので、最後は出席した全員が意見をひとことづつ言うことになりました。


厳しい見方を書かせていただきますね。


クラスで授業の妨害をするなどの問題行動をとる子供の親御さんに限って、こうした学校の保護者会や、学校公開に来ないということがあります。働いていると、そう時間の都合も合わせる事ができないのでしょう。


統計的なことで言わせてもらうと、やはり働いている親の子供が落ち着いていないということはあります。それは自分もそうですが・・・。


いろんな意見が出ました。
お母さん方の話を聞いているうちに最初持っていた「親がしっかりしていないから子供に出るんだ」という考え方に少し変化がありました。


もしかしたら、私は自分の息子が被害者のような前提でものを見ていないか・・・息子は語らないだろうけど、授業で騒いでいたときもあるかもしれない。調子に乗って誰かをからかってしまったこともあるのかもしれない。それは探りようもないことだけど、ゼロだとは言い切れない。


信じているけど、自分の子供がいつも正義の味方であるという保証などないということ・・・。


それに気づかず「私の息子は悪くないです。悪いのは授業に集中できない環境を作っている子供(そしてその家庭)です。」と言い張っているだけなんじゃないかと感じました。
相手を責めて、先生を責めて、学校の体制を責めて、自分に非がないように振舞っている自分がいることに気がつきました。


まず、私がしなければならないのは、親として自分なりに一生懸命やっているけど、まだまだ至らない部分があったのかもしれない、気配りが足りない部分があるのかもしれないと自分のありかたを謙虚に受け止めることなんですよね。
他人の家庭をどうのこうの言う前に、まず自分。


なんだか、結局人のことを祭り上げようとしていただけなんだ・・・と大騒ぎした自分が少し恥ずかしいですよ。


保護者会の前日に一緒にお風呂に入りながら、息子にこんな質問をしたんです。
「クラスの中でけんかが起きたとき、いつもお前はどうしているの?」
と。
息子は「見てるだけ」と返してきました。「止めないの?」と聞くと「うん」という回答。もしかしたら逆にやり返されるということもあるのかもしれませんが、息子が止める勇気がないことがちょっとショックでした。
そういう場面に遭遇したとき、息子が勇気を出せるように、私も導いてあげなくてはいけませんし、言葉が汚染されてきたら、それがいかに人の心を傷つけ、暴力と同じであるかを真剣に教えなくてはいけませんよね。


働いている親として、やはりどうしても余裕がなくて限界や辛いことが多いです。
葛藤というべきでしょうか。
それぞれの家庭内、どうしても子供に時間をさけないという「生きていくための事情」があるのかもしれません。でも、子供が落ち着いて授業が聞けない、けんかばかりする、言葉がひどい、荒れている、という流れの時、親としてできることは何なのか、具体的にわからなくても、できなくても、一生懸命悩んだり、苦しんだりすることはできますよね?心を砕く、といえばいいのでしょうか。あの子がよりよくなるために私は親としてどうすればいいのだろうか、その気持ちこそが、何よりも子供に伝わり、子供を愛しているという一つの形なのだと思うのです。


クラスが荒れているということは、そこに毎日送り出す親としてはショックを隠せませんでしたが、でもこの問題のおかげで、学校に自分の思いをぶつけることもできましたし、自分の至らなさを他のお母様から教えていただきましたし、何よりもいろんな思いを持って子供を愛しているお母様方の気持ちを知ることができてよかったです。普通に問題のないクラスでしたら、親であることの重大さ、親としてできることの最善に気がつくことをスルーしてしまったところでしょう。


私たちが子供のときと違って、学校の先生たちが教育することに対して窮屈そうな感じを受けます。そうさせてしまったのは理不尽な要求を突きつける親が増えたことでもあると思います。もっと先生方も、怒ってもらっていいんですけどね。少なくとも我が家はガミガミOKです。そう思っている方が意外と多くて、学校にはぜひ受け止めてもらいたいところです。


私には親として未完成な部分がたくさんあり、日々努力と改善です。


家に帰って、息子に保護者会のこと、クラスのお友達同士で思いやりの気持ちが少なくなっているから大事なお話をしてきたのよ、と教えました。
言葉で人の心が傷ついてしまうこと。
体の欠陥をからかう言葉は絶対に言わないこと。
自分がされていやなことは人には絶対にしないこと、言わないこと。
けんかはしてもいいけど、絶対に仲直りすること。


息子も思うところがあったのでしょうね。「チビって言われたことあるよ」と告白してきました。
「そう、そういうことを言われたら悲しいでしょう?小さいのはお前のせいじゃない。」
チビって言葉は我が家では禁句ですが(爆)、学校でやっぱり言われたんですよね。「でも心はチビじゃないぞ!と言い返して来い!!」とハッパかけました(笑)。


小学校に入って見えない部分は増えますが、そうはいってもちゃんとアンテナをはりめぐらし、自分の子供以外にも、積極的にかかわりを持って、子育てを試行錯誤して行こうと思った一件でした。

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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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