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占い師としての成長日記
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昨日は携帯から更新しましたので、じっくりと書くことができませんでしたが、親子ハイキングで感じたことを書こうと思います。


ボーイスカウトは小学校二年の9月に今まで所属していたビーバー隊からカブ隊へ上進します。活動は月に二度しかないので、今までカブ隊に入っても周囲がよく見えていなかったのですが、今回カブ隊の親子ハイキングに参加して、一緒に活動すると隊長さんや副隊長さんの様子もわかるし、他のスカウトのご両親もわかります。仕組みがわかるといえばいいのかしら・・・ボーイスカウトは他の習い事と違って、こういった制度的な色が濃いからです。参加しないとカブ隊の仕組みがわからないのです。一緒に登山に参加したご家族は家族そろってアウトドア好きで、ご主人も一緒に登山をしていたり、よくボーイスカウトに慣れているという感じでした。お昼には簡易式のガスでインスタントラーメンとコーヒーを振舞ってくれましたが、その美味しかったこと!その気遣いが味に沁みていました。息子と一緒に活動する他のスカウトたちの事も含め、そういったことがよく見えてきた一日だったかもしれません。


娘を登山に連れていくという予定を変更して大正解でした。ケーブルカーを降りて御岳神社に向かう参道だけでかなりきつかったからです。まだほんの入り口だったのに、これだったら絶対娘は抱っこって言うに決まっています。しかし、本当の試練はここからです。目標は1500mの大岳山ですが、その手前の鍋割山に行くまでの道のりがあまりの険しく、登山初体験の息子(標高500Mの高尾山くらいしか登ったことがない)は途中から先頭集団についていけなくなりました。参加したスカウトは5名でしたが、4名は先にずんずん進んでしまい、しかも騒ぎながらですから余裕があります。しかし息子は黙ったまま、短い足を思い切り上げないと登れない山道の連続に足が上がってきません。私は息子のすぐ後ろを歩いていましたので、息子の様子がかなりダウンしているのはわかるのですね。何も言わないし、足をあげていると言うより足をずっている状態です。体力がない上に、コンパスが短いので段差のある山道は彼にとって想像以上にきついものだったでしょう。


そんなわけで急斜面を登る息子に「大丈夫?」と声をかけたら「もう歩けない」の半べそな答えが返ってきました。


ずっと先にはカブスカウトたちの元気な声も聞こえてきますが、我が息子はそんなレベルではありません。目の前の一歩すらきつかったのでしょう。


私自身も足は痛かったのですが、息子のことが気になってしまって、でも・・・もどかしいのですが、これは息子の登山なんですよね。荷物を持ってあげることも、おぶって登ることもできません。私にできるのは「頑張れ」と声をかけて自分の足でゴールするのを見届けること。本当にもどかしいのですが、それしかないんですよ。いくら親であってもこの息子の苦しみを代行してはならないし、それは息子の登山ではなくなってしまう。そして私も息子に手を貸してはならないのです。それが自分の足の痛みよりももっとも苦しかったかもしれません。


結局天候が悪かったこともあり、大岳山に登る計画を変更して下山をしてきました。大岳山はもっと高いので、あのままだったら息子にはかなり厳しかったかもしれません。きっと隊長がフラフラだった息子の状態を見て判断してくれたのかもしれません。


帰りに他のお母さんから「あれは慣れだから、来年になったら絶対できるようになっているから大丈夫よ!」と励まされましたが、夏の親子キャンプでは川遊びが怖くてまったく飛び込めず、水にも入れず「川はダメなのか」ということになり、今度は山も大変だったので「あの子は水も山もダメなのか」と思ったのですが、私もつい厳しく考えてしまって・・・息子をダメだと思わないようにしなくてはなりません。でも、私は考え方がつい短絡的になってしまって「じゃあ何もできないじゃないか!何もできないなんてどうすればいいの?」という結論を出してしまうんですね。これは息子だけじゃなくて、自分のこともそうですが。


フラフラの息子の後姿をずっと追いかけながら、半分イライラしている私がいたんですね。「どうしてできないの」って。他のできる子達と比べてしまっているからイライラしたのでしょう。もう一人の私は「そんなこと言わないでさ、あの小さな体で頑張ってるんだからそれを褒めようよ」と言うのです。二人の私が、息子を見ながらずっと葛藤しているうちに登山が終わりました。でも責めてはならない、それが最後の結論でした。


比べることがおろかなことだとわかりながら、私はなぜ比べるのか。


私の考え方は陰タイプです。
できないことがあると、「なぜあの人はできて私にはできないの」と比較してしまう。比較して落ち込み、比較する自分を非難する。その繰り返しでした。息子との関係などはまさにそのとおりだったと思います。
私自身の登山もこのために楽しくなくなってしまいます。


山を登りながら私もいろいろ考えました。登りだけではなくて山って下るときも大変なんですね。登山はよく人生に例えられますが、本当にそのとおりだと思います。自分が苦労して登った登山は忘れられないものになる。下りだからと思って油断すると大変なことになったりする。登り道は大変だけれど、その周囲には登れないと見れない美しい景色があったりするんです。私には私の登山道が、息子には息子の登山道があって、自分なりに登ることこそが尊い。なのにいつも私は息子の登山道をけなしてしまいます。あるいは手を出してしまうか、どちらかです。


でも今回は目の前で苦しむ息子がわかりながらも、手を出せずに声をかけて最後まで付き合いました。息子は登山の大変さを身を持って知ったことでしょう。でももしこの息子が、今後のスカウト活動の中で再び登山に挑戦してくれることがあったら・・・怖さや難しさを知った上でもう一度チャレンジしてくれたら、私はそれをちゃんと認めなければなりません。それこそ私も欲しいと日々願っている、人間としての強さなのですから。


山は遠くから見ているのと、実際登るのとでは大違いです。
遠くから見ていればきれいだな~とし思うのですが、実際山に入れば険しくて、きつくて、それこそけもの道を進むようなものですが、登った先にあるものは、キツい道を乗り越えた達成感です。
これだって、景色と同じくらいに美しいものなんですね。


さすがに疲れ果て、今日は朝から筋肉痛の嵐ですが、親子で経験した苦い思いや、それでも乗り越えた思いを交えながら、これが私と息子にとっての糧になればいいな・・・と思うことばかりでした。一緒に体験することだけでも、本当はありがたいことでもあるのですから。
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娘と昨日一緒に映画を観にいきましたが、息子がボーイスカウトなどでいないと必然的に女同士で出かける機会が多くなります。娘と一緒に出かけるといくらお財布があっても足りなくなるくらい「あれも!これも!」と買いたいものを次々と指差されます。まあ、片っ端から買うことはできませんからやんわりと「わかった。棚に戻してらっしゃい。」と切り捨てなければなりません。娘も母の財布の紐がゆるくないのは心得ているようすで「わかった。クリスマスにね。」とつぶやきながら商品への執着を捨てています。


昨日も大きなショッピングセンターの中にある映画館に行きましたので、映画が始まるまで娘と店をいろいろ探索しました。


それにしても最近こういう手のショッピングセンターが増えました。
巨大映画館に専門店街と巨大フードコートやレストラン街。それからジャスコなどのデパートがひとつになってて一日中遊べます。昨日出かけたところもすごく大きくて圧倒されました。買い物好きの女性にはたまらないスポットですが、買いたいものがないと逆になんだかモノばかりあふれていて何が買いたいのかわからなくなってきそうです。


今回は映画が目的で他に買いたいものもなかったので、娘と二人でプラプラ歩き回っていただけです。バーゲンでもないのでさほど安くないですし、欲しいものがないのにお金を無理に使う必要もありません。でも娘にとっては、私と一緒に買い物に出かけられるのがすごく嬉しかったみたいで、自分の好きな店(サンリオショップやかわいらしい雑貨のある店)に私の手を強引に引っ張って見学していました。あの嬉しそうな顔は買い物好きの女の子ですね。


いつか大きくなったら、友達とこういう場所に遊びにきたり、映画館デートをしたりするのでしょう。親と手をつないで映画に行くことも今のうちだけです。満員のフードコートでは席がなかなか確保できず、しかも娘はケンタッキーが食べたくて食べたくて待っていたのですが、時間をずらして憧れのケンタッキーにありつけたときのあの笑顔!!
そして私にチキンを差し出し「ママ、ひとくちあげる」と言って食べさせてくれました。そんなかわいらしい気遣いも見せ、彼女ももう子供へと変わりつつあることを感じます。


4歳の夏に一回迷子になったことがきっかけで外出先で私から離れたことが絶対にありません。必ず私を呼ぶか、手をつないで店に入ります。ちいさなちいさな手のひらはいつも私の存在を必要とし、一緒に感動してもらったり一緒に見てもらいたかったり・・・私が娘のよびかけに応じることが彼女にとっての安心になるのですね。


ずっと小さくて抱っこが楽チンだった娘ですが、最近は「あ、重いなあ」とすぐに感じてしまい、抱っこして町を歩くこともなくなりました。でも彼女は私の手をいつも離しません。どこにいっても。いつか小学校に入ったら変わっていくのかなあ・・・。私は娘の成長が嬉しいのと同時に、もう小学生になってしまうのがすごく寂しくなるときがあります。自立していくことは喜びですが、この素直さも変わらないでいて欲しいと思うのは親のエゴなのかな?と。思うように育たないからこそ子育ては大事なんですよね。


それでも娘が私に向けるいろんな笑顔は私の中でいつも安心であり、宝であると思っています。自分は絶対にこの笑顔を忘れないつもりで噛み締めているのに、不思議と二歳や三歳くらいの娘の顔は忘れているんですよ。
それくらいの年齢の子が歩いているのを見ると「ああ娘にもあんな時代があったのね」と思うけれどその当時の娘の顔つきが思い出せない。どれくらいの大きさだったのかも忘れてしまっているんですね。


生まれてきたときはそれこそお米よりも少なかったのに(2500グラム)その小ささを今思い出せないのです。不思議ですね。
生まれたときから二年近く言葉だって話せないときがあったのに、そのときはどうやってこの子とコミュニケーションを交わしていたのだろうかと思うのです。夢中になっていたからそんなこと考えてもいなかったですけれど。


娘の小さな手のひらのぬくもりは忘れたくないなあ・・・そんなことを願いながら一緒に歩き回っていました。手のひらは大きくなってしまったら私とつながれることはないでしょう。でも手をつないだ記憶はずっと奥に残り、娘にとっても大事な思い出であって欲しいと思います。
今日は息子が朝からボーイスカウト活動だったので、残された私と娘は約束していた映画へ行ってきました。
映画は「Yes!プリキュア5GOGO!」です。


幼児の女の子を持つ方なら誰でもご存知のプリキュアです。


五人のプリキュアと呼ばれる女の子たちのお話ですが、わかりやすく言えばアニメ版女の子向け五人の戦隊レンジャーもの、とくくればいいでしょうか。時代は古いけれどゴレンジャーみたいです。普段はかわいい普通の中学生の女の子たちが敵が現れるとプリキュアに変身して力を合わせて戦います。まあ、とにかく無敵です。半分くらいが戦闘シーンですし、また変身シーンが長い!「華麗に羽ばたく五つのこころ!」といいながら、五名が段々変身するお決まりのシーンも長い!そんなに決まり台詞を叫びながら変身している間に倒されちゃうんじゃないかという突っ込みが入りそうです(笑)。


でも大好きなんですよね。園児たちはプリキュアごっこしてますから。娘もプリキュアの大ファンで、とくにキュアレモネード(黄色の担当)の春日野うららちゃんがお気に入り。「レモネードみたいな髪型にして」と無理難題を突きつけてきますから(^-^;。映画も大興奮の状態で見ていますが、私は寝不足だったのでものすごく眠い映画鑑賞でした(爆)。戦闘シーンの途中で目が覚めたんですが・・・。


それにしても女の子が蹴ったり殴ったり殴られたり吹き飛ばされたり、光る剣を操って敵を刺したり、自分が子供のころはこんなに女の子のアニメは激しくなかったし、魔法使い系のモノが多かったような・・・。しかも「絶対に負けない」と何度も踏み潰されても起き上がる姿はいまどきのヒロインなんですね。華麗に戦う姿はまさにプリティーでキュートなプリキュアです。


面白いのは最強の敵を倒すとき、最後は普通のプリキュアでは倒せなかったので進化した状態で倒したのですが、それも相手を光る剣で刺し、切り倒したのですが、少年漫画ならきっと敵が半分に裂けるシーンまで丁寧に書くのですが、ここは少女漫画、敵は裂けません。光って粉になって空に昇天して行く美しい散り方なんですね・・・。敵だけれど、最後はちょっと改心して、微笑みながらプリキュアの前に倒れる・・・。


やっぱり子供の夢を壊さないような演出がいっぱいです。


それにしても・・・今のアニメに出てくる女の子はやたら目が大きくて、顔の半分以上が目です。足が長くて足首と腿が同じ太さですね。かわいらしく描かれています。そして、男顔負けの強さ!!!そんなアニメに目を輝かせている娘は一体どんなヒロイン像を築いていくのでしょうか。キュートであってほしいけれど、男をあんな調子で蹴り飛ばして欲しくないなあ・・・と母は密かに心配です( ̄▽ ̄;)。


暗闇が苦手でまったく映画もダメだった娘ですが、今日は大丈夫でした。
小学校に上がったらプリキュアなんて言わなくなるのかな?
三ヶ月に一度くらいの割合で、朝学校前の交差点で交通パトロールする当番があります。児童たちの登校時間の30分間、地域の交通安全ボランティアの方と一緒に交差点に立つだけなんですが、今朝はその当番でした。私は学校前にある交差点が担当箇所です。保護者は三ヶ月に一度くらいですが、交通安全ボランティアの方々は毎日交差点に立って、それこそ、雨の日も風の日も、旗を振って交差点での誘導をしてくださっています。


学校のすぐ下の交差点では多くの児童が登校してきます。その子供たちに「おはようございます!いってらっしゃい!」と声をかけます。小学校のすぐとなりに中学があるので、中学生も恥ずかしそうに混じっていますが、今の中学生、恥ずかしがらずにちゃんと返してくれる子もたくさん居ます。


パトロールが終盤になると、寝ぐせがついた頭でボーっとした状態で歩いてくる子の率が非常に高くなります(笑)。でも急いでないんですよ。寝過ごしたようですね。


その小学生の中でひときわ目を引く男の子が居ました。
髪は茶髪・・・というよりオール金髪。
Tシャツから伸びた腕には刺青が?!(本物?シール?)
ランドセルは背負っていなくて、リュックサック。
耳にはピアスが!!
Gパンをお尻のあたりまで下げて履いていました。いまどきの着こなしです。


でも小学生なんですよ。一緒に歩いていた友達はランドセルを背負っていましたし、背も五年生か、六年生くらいかもしれません。格好だけで判断してはいけないのかもしれませんが、子供なのに、していることは子供の趣味ではないですよね。でも高学年になれば、自分の好みも出てくるから髪の色も、ピアスも、嫌なら嫌だといえばいいのです。しかし、彼はこの支度を選んでいるのですから、きっともうずっと昔から、こういう格好をしてきて、自分のスタイルになってしまっているんでしょうか。それから親も、同じような格好をしているから、同じように子供も抵抗なく生活に取り入れているんでしょう。


その子の格好が衝撃的で、凝視しちゃいましたが・・・。


でも、その子の格好はなぜ、高校生のようなスタイルなんでしょうか。
親を見たいと思いました。親も同じスタイルをしているんでしょうか。
この突拍子もない格好は、一体何からもたらされたものなのか。


もし、自分が人より目立つ格好をしたいときは「注目を集めたいとき。関心を寄せてもらいたいとき」だと思います。俺はここに居るぞ!と目をかけてもらいたいときに、人はいわゆる「普通」の格好からはずれて、個性のある支度を始めるはずです。目立ちたい=目をかけてもらいたいということであるなら、彼の格好は、自分に関心を持ってもらいたいための戦闘服なのかもしれません。


でも、さかのぼっていけば、そこにはその子の親にぶつかります。小学生が自分の髪の毛を一人で染めに行くことはないでしょう。ピアスを買いに行くこともないでしょう。きっとそこには親の影があります。その親も、きっと誰かに自分の存在をアピールしたくて、同じように着飾ってきたのでしょう。そう考えると、こんなに幼いわが子にも、自分の埋められない気持ちを託しているようにも見えるのです。大人に近い格好をして、小学校に向かう彼は、ランドセルの集団の中で、ひときわ浮いて見えます。


この格好を「個性を尊重する」という時代背景が守っているのかもしれません。格好よりも中身が大事だし、すれ違っただけの子供の人格まで見通すこともできませんが、子供が実年齢に合わない支度をしていることを「かっこいい」と受け容れているその価値観が、やっぱり自分には理解できません。


なぜなら、私は田舎育ちで、もう若くもないですし(笑)、昔気質で周りの目が厳しいところに住んだせいもあるのか、中学校の生活スローガンで「格好の乱れは心の乱れ」と教えられてきたせいか、どうしても気になってたまらないのです。これは受け容れるべき今の教育環境の真実なのか。


パトロールが終わった後、ボランティアのおじさんとちょっと立ち話をしました。


「いろんな子が居るよ。化粧してくる子も居るしね。いきなり後ろから蹴る子もいるんだよ。こっちもいきなりやられたから、旗で尻をたたいてやったけれどね(笑)」
「え~!」
「まあいろんな子が居るから見てるといいよ。蹴った子供の親にね、蹴られたことを注意したら『ボーっとしてるから蹴られるんだ』って言い返されちゃったよ。駄目だね。言ってもこうなんだから、親がどうしようもないんだよ。」


そういっておじさんは立ち去りました。
でも・・・いきなり蹴られたりするという衝撃的なことがあっても、毎日旗を持ってこの交差点に立つことは勇気が要ります。親に注意したこともそう。子供のせいではない、そう思うから、おじさんはボランティアをして、子供を見守り、厳しさも出していくことを続けているんですね。おじさんに勇気がなければ、愛がなければ、蹴られた時点でボランティアなんて放棄ですよ。毎朝立つのは大変なことですもの。


毎朝交差点に立つ三人のボランティアの人は、いつも遅れてくる子供の顔などは把握しているらしくて「今日はあの子は来ていたね。大丈夫だね」などと言いながら解散をしていました。ただ立っているだけではなく、毎朝すれ違う子供に愛を注いでいるし、気に掛けている。もし、何かあってもそこで毅然と注意する気合も持ち合わせている。ボランティアだけれど、その瞬間は親のようなものですよ。その姿勢は。


もし・・・あのピアスと刺青をしたご両親がパトロールに立っていたら、
自分の息子とほかの子の違いに、唖然とするのだろうか。それとも、目立つことをよしとするのだろうか。いや・・・それ以前の問題で、パトロールには当番であっても来ないような気がしてしまうのです。息子にいち早く大人の趣向を教えて、子供であることを早く消そうとしているのだから、遠くから静かに見守るというより、早く自分と対等に、大人になって欲しいと願っていると思うから。保護が必要な子供では居て欲しくないと思うから・・・。見守る役割のパトロールなど、めんどくさいだけではないか?だからきっと・・・来ないのだろうな・・・。


そんなことを考えてしまったパトロールの朝でした。
2歳の頃から重度の慢性副鼻腔炎(蓄膿症)に悩まされつづけた5歳の娘は、あらゆる治療法を試みて、最近ようやく、365日鼻づまり、という状態から脱却を図ることができました。抗生物質漬けの生活をやめ、鼻うがいと、鼻が詰まったらとにかくまめに耳鼻科に通って鼻水だけ吸い取ってもらう方法で、現在はきれいな状態をキープすることができています。また馬油を夜寝る前、それから鼻うがいを行った後に、鼻の穴に詰めるという方式をしていたのも、炎症を抑えるのに役立ったのかもしれません。


「成長して手術しかない」と思い、あきらめかけていたのですが、本人も苦しい鼻うがいに耳鼻科の吸引に耐え、小学校入学前に一段落を迎えられそうです。ヤレヤレ・・・(^ー^;・・・と、安堵していた私にまたしても次の刺客が!!!


今度は息子のアレルギー結膜炎?と思われる症状がひどく出始めています。彼はもともとハウスダストにアレルギーを持っていますので、朝起きたときはくしゃみの連続の毎日。鼻もむずむずしているようです。その上、今度は目がかゆいかゆいかゆ~~~い!!!の連発で、寝るときも苦しいみたいです。彼にも馬油を施しているのですが、これはやっぱり体質そのものがハウスダストに反応しているので、娘のように目に見える効果はありません。市販の目薬(子供用の目薬)と、私のレイキで対応していたのですが、さすがに真っ赤に充血してかゆがる息子の前で、私のやり方もまったく通用しません。かゆがって眠りに入れないようです。「カモミールをお茶として飲んだ後の出がらしを目にパックとして当てると、アレルギーによる目のかゆみがやわらぐ」という記事を読んだことがあり、カモミールはあったので、息子のまぶたに紙で包んだカモミールをおきました。そしたらなんとかおさまったのか、ようやく眠ってくれました。


蓄膿症は最終的に手術という手段がありますが、アレルギーには根本を切り取ることも、治す手段も確立されていません。まるで迷路のような病です。私は息子が歩き始めのとき、階段の上り下りの練習のため、いつも甲州街道の歩道橋に行っていたのですが、あんな交通量の多いところで真っ黒な空気を吸い込んでしまったのが、彼の免疫系を狂わせてしまったんでしょうか。産んだ私は、20代の頃、マクドナルド大好きで、週に2,3回は通っていました。マクドナルドだけじゃなくて、脂っこくて甘い外食ばっかりでした。あのころの不摂生が息子のアレルギーや娘の蓄膿体質になっていたのかもしれません。そう思うと悔やまれるというか・・・因果応報ですね。楽しい、口当たりのいい、美味しいだけのものなんてないんですよ。


真っ赤な目でかゆいと訴える息子には何の罪もないのに、なんだか作り手として、申し訳ないです。


できるだけ体に負担を掛けないような薬や民間療法を探しながら、また息子のアレルギーと向き合わねばなりません。いい方法が見つかりますように・・・。

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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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