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占い師としての成長日記
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輝夜師匠と他に数名の仲間が集い、また新たにスタートを切ったところに、私は合流させていただきました。勉強を開始と言っても、みんな関東平野在住ですが、バラバラに住んでいたし、仕事をしている人もいましたので、そうそう顔を合わせて勉強することは、滅多にできません、そんな私たちの勉強を可能にしたのはインターネットというつながりでした。これを利用すれば、勉強する時間も場所もそれぞれ違っていても、顔を合わせることと同じような集いができます。輝夜師匠が私たちのために掲示板を設置してくれました。宿題はそこで出されます。そしてその宿題のスレッドに対して返信します。もちろん宿題だけではなく、毎日起きたさまざまなことをちょこちょこっと記載したり、質問したり、掲示板にはいろんなことを書きました。


しかし、最初のスタート当時、娘が一歳、息子が三歳になったばっかりでした。ちょうど幼稚園に息子がなじまなくて、苦しいときでもありましたし、母乳を与えながらの育児をまだ続けていて、夜も何度か起こされていた記憶があります。狭い家だったので、パソコンをするために篭れる部屋もありませんでした。というより、場所どころか、ゆっくりとパソコンに向かう時間がなかったんですね。今でもパソコンに向かっていると息子たちが乱入してきて、パソコンを見たがるのですが、当時は見たがると言うより、壊したがるといったほうがいいのでは・・・というくらいでした。前のパソコンはキーボードをもぎ取られて壊れたんですよ( ̄▽ ̄;)。子供が昼寝をしている間、あるいは夜早く寝かしつけて・・・暇を作るのが大変でした。自分の中で占いの勉強がそれほど高い位置になかったんですね。まず目の前の子供子供・・・子供がいるからできない、子供がいるから時間がない、勉強をすることで子供がほったらかしになってはいけない・・・それがいつも頭にあって、最初の参加はとても中途半端なものだったですね。


今もこの掲示板は存在しています。何があっても毎日必ず顔を出したり、書き込みしているんですよ。毎日の習慣になるまで、私はかなり迷走したり、占いを勉強することがこんなに大変で辛いのだから辞めてしまおうということはもうそれこそ、何百回考えたでしょうか。二日か三日に一度ならまだしも、毎日パソコンに向かう時間を確保することはこの当時の私には至難の業でした。だからとても言い訳が多かった。「子供がいるので参加できないことが多々あると思いますが、ご迷惑をかけないように頑張ります。」


今でこそ、小学校や保育園と言う預かり場所ができて、パソコンに向かう時間をしっかり確保できるようになったものの、当時は自分が子育てをしながら、自分の勉強なんてできない!と思っていたところがあって、もしこれが両立できないなら、占いは辞めようと思いながら臨んでいたところが本音です。小さい子供を抱えていたのは私だけだったので、なおさら他の人の同情に甘えてたところもありました。でもこの時点では「何が何でも占い師に!」という気持ちよりも「輝夜師匠やみんなと一緒にまた勉強ができるんだ。」という楽しい仲間との再会が嬉しかっただけなんですね。


以前と同じように・・・という意識でいたために、私はものすごくこの掲示板や他のやり取りがルーズでした。友達意識と言えばいいのでしょうか。子供を育てる間の息抜きの時間になっていたのでしょう。息抜き=娯楽ですよね。


「娯楽」と書くとちょっと言い方がひどいかもしれませんが、あの当時一番近い感情とするなら、これだったのかもしれません。


プロとは呼ばれたかったのに、でも毎日勉強して、生活を犠牲にするのはいや。
矛盾していますが、この矛盾した感情が私の本音だったのです。


無難にプロになれる人なんていない。あの時はそんなこともわかりませんでした。プロと言う響きに憧れていたのでしょう。恋に恋するのと同じように。でも、占いを勉強したいと思ったのはそれだけではありません。輝夜師匠のタロットの解説、占いの進め方は、私にとって芸術作品を拝見するようなものです。解説の一つ一つに命が宿っていると言うか、魂を感じられるんですね。そういったものに酔いしれていました。偉大なる師匠に対する憧れ。いろんな占い師さんをはしごした私ですが、いつもこんなに詳細に渡って深く切り込んで説明してくれる先生はいませんでした。新宿の母だって、何を言ってるのか私には理解不可能なところがありましたし、根拠がわからないんですね。でもこの先生は違う!ということを目の当たりにしてきましたので、師事を得るならこの師匠以外考えられませんでした。他にはない強烈な個性と、理路整然としたわかりやすい説明、そして鑑定の随所に織り込まれる、自分自身の人生の経験を通した想い・・・そうですね。これはきっとある意味恋愛に近い惚れ込み様だったのかも知れません(今は以前よりさらに惚れ込んでいるかも!?)魅了されていた・・・というくらいに。それは集った仲間みんなが感じていたのではないのでしょうか。私だけではなかったはずです。中には現役で占い師として活動している人もいました。占いの勉強をしたいと思って通った学校に、惜しみなく教えてくれる先生がいて、みんなはその感性に惚れこみ、もっと輝夜師匠から吸収したいと思ったんです。
輝夜師匠も「私が皆さんをプロとして育てます」とハッキリ最初に宣言してスタートしました。


しかし、私を含めた仲間と輝夜師匠の大きな隔たりというか、違いがありました。
それは「自分を追い込んでいく」ということ。


例えば、自分が体力をつけたい、筋力を上げたいと思ってスポーツジムに通うとしましょう。最初は軽く動かしていますが、筋肉の力を付けていくためには負荷をかけていく必要が出てきます。ダンベルの重さを増やすように、ジョギングマシーンの速さを二倍に加速するように。でもそれって鍛錬において当たり前の負荷のかけ方ですよね。なのに、人間って何で精神面で負荷をかけられると逃げたくなるのでしょうか。私はそうでした。あらゆる課題を目の前にすると、すぐに余裕がなくなってしまう。余裕がなくなると、「もうやめよう」という短絡的な考え方に支配されてしまう。そうなると人間は積極的な書き込みや発言ができなくなるものです。無難にまとめようとするものですし、あらゆる場面でやる気を見せられなくなってきます。


当時、授業の掲示板を使ってさまざまな宿題が出されました。
それはタロットカードの解釈であったり、輝夜師匠が実際鑑定したお客様のお話を問題として、自分だったらどう回答するか、という内容のものもありました。
また授業の掲示板だけではなく、私たちは「月の占術館」というサイトを輝夜師匠を管理人として運営し、それに参加させていただきました。その中で掲示板が設置されていたので、そのやりとりを当番制にして、掲示板当番の週は自分が掲示板に訪れた人への書き込みを対応するというものでした。


サイト上では、エッセイも公開していました。少なくとも各個人毎月一本はエッセイを提出し、一般に公開するように決められていたりしました。始めの頃はブログというシステムもなかったので、「月の占術館」の中で、「雨音の日記」というコーナーを作ってもらって、そこにいろんなことを書き記したりしていました。でもほとんどが子育ての内容だった気がする・・・(汗)。一番大変な時期でしたから、日記には子供がらみのことばっかりだったんですよね。


まず、私の中で苦手だったのは掲示板当番。
お客様に失礼があってはいけないし、また返信に時間がかかってもいけない。かといって常にパソコンの電源をオンにして見張っているわけにも行きません。また私ってば、この掲示板のマナーを良くわかっていないものですから、書き込まれた人に対して順番に返信していくことも、相手から返信があったらまたそれにもきちんと対応し、必ず自分たちの返信が一番下に来るように、相手に書き込んでもらったら自分が最後まで応対すること、きちんと挨拶して書き込むことも、失礼があってはならないのに、そんなネットマナーの常識すら知らなくて・・・お客様の名前を間違えて書き込んでしまったこともありましたし、「あ!間違えた!」と気づいたのに、その記事の編集の仕方がわからない。わからないというより、以前やり方を教えてもらっていたのに、そのように操作していなかったので、こうなると私の手では直すことができないので、輝夜師匠にメールするなりお電話して、急いで変更をお願いするしかありません。しかしそれが輝夜師匠のお仕事中だったり寝ていると思われる時間だと、「どうしよう・・・(オロオロ)」でした。
いつの間にか、自分が掲示板当番の週は誰も書き込みがないといいのに・・・って思うようになってしまったくらい・・・。


でも、この掲示板のやり取りのおかげで、いわゆるネットマナーを教えてもらうことができました。
もちろん、これは授業の掲示板にも言えることでした。相手が質問をしたら、それにちゃんと回答する。仲間や輝夜師匠が新しく話題をUPしてそれに目を通したら、無視をしないでちゃんとすぐに書き込む。もし書き込めない(時間がない)理由があるなら、ちゃんと後で記載すると一言書いておくこと。これが一番守れなくて、輝夜師匠が書いてくれた記事を見ながらもすぐに返信せずにいることがしょっちゅうだったので、本当によく注意を受けました。


顔を見て話すわけではないのだからこそ、余計にそういった気の細やかさが問われる場所だったのです。時間や場所を問わないネットの世界であるけれど、でもいわゆるやり取りの常識は、対面しているときとなんら変わりないわけですよ。話しかけられたら話し返す。相手が書き込んでくれた内容がどんなものであっても無視しない。
そういった常識を一つ一つ教えながら、同時に、輝夜師匠は「占いをしていない時間も、占い師として生きなさい」とおっしゃいました。それは今も変わらない教えの一つです。

でも私は占いをしていない時間も占い師として生きると言う意味がわからなかった。
占いで指導を受けるのならまだしも、占い以外の常識的な部分で注意を受けることがあまりにも多くて(それだけ意識が低かったんですよね)「そんなに高い志なんかで生きられないよ」ってずっと思っていました。
掲示板を開ける時、また注意されているんじゃないかと思うと、怖くなってしまったこともあります。自分では気をつけたつもりだけれど、ついうっかりがあったかもしれない・・・占い師って、こんなことをしなければなれないの?とっととなれるものじゃないの?なぜここまでしなくてはならないの?


そうなってくると、すぐに「子供に手がかかるんだから、辞めよう」という考えになってしまうんですよね。いつもそんな気持ちがすぐに訪れてしまいました。当時、パソコンの時間を作り出すために、早起きして、朝五時くらいから掲示板を見る時間を作り出していました。その頃の私にとってこの早起きひとつとっても大変で、それなのにどうして注意ばっかりなんだろう・・・占い師として生きるためにここまでしなくてはならないの?もっと時間を削らなくてはならないの?と疑問を感じながら、でもみんながちゃんと提出するのに、自分だけが遅れるのも嫌だし、やらないわけにはいきません。宿題を解いて書き上げる時間もなかなか確保できず、その中で掲示板当番だったり、エッセイの提出があったりと、パソコンに向かわなければならない時間が増えていきます。


当時から夫との仲が険悪になり、夫婦間でものすごいストレスを抱えながら、その上にこの時間がないと追い詰められるストレスも加わり、子供がいる私だけ特別扱いもできないですから、その間でものすごく苦悩していたことは思い出せます。
みんなが頑張っているのに、私だけ抜けるのも嫌だ・・・そんな変なプライドが、あの頃の私の真ん中にありました。
それでも、輝夜師匠が与えてくれる宿題の中で、日記を書いたり、エッセイを書くということは、私にとって苦手なことではなく、むしろとても楽しく、イキイキ動ける課題だったのです。もし自分が、書くと言う作業が苦手と思うタイプだったらどうだったのかな・・・なんて思うことがありますよ。でもネットの世界で何かを表現していく限りは、書くという作業は絶対について回りますよね。そういう意味では、私は書く作業が好きだと思えることでかなり救われていたかもしれません。


ただ、一つだけ「あの頃私は本当におバカだった」と思えることは、エッセイを書いたり、課題を提出する中で、師匠という存在に向かってですよ、「たまには私をほめてください。ほめてもらえないと私は頑張れないタイプなんです」と言ってしまったことです。それも一度だけではなく、ずっとそんなこと言ってましたね。この発言で、かなり依存的というか「ほめないとできないのか!?」と突っ込みどころが満載ですよ。そういうことを平気で書き込める自分はいかに逆境に弱いか、今なら笑っちゃうくらいです。


とても一方的な、受身だけの勉強でした。人様から恩恵をいただくことはできるけれど、自ら開拓することもなく、恩を返す頭もなく、注意を受けたら辞めたいと思い、凹み、子供を楯に逃げていた時代です・・・。


私は自分以外の人間がどういう想いで、どういう覚悟でいるのか、どんな気持ちで私と向き合ってくれているのか、その部分をまったく考察できなかったんですね。
それがスタートして一年半以上続いた、芽の出ない修行時代でした・・・。
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最近すっかり私の「独白劇場」と化してしまったこのブログですが、私は自分を掘り下げる作業として、最近では読者が見ていようが見てないが構わない!書かせてもらいます状態に突入しています・・・(汗)。


まだ夫や結婚生活については、書ききれないものもあるのですが、これはもっと掘り下げて研究しようと思いました。いろんな人からメッセージをいただいて、「結婚って?」「夫婦って?」ってすごく考え直しました。


同時に、夫婦というものを考えようとすると、やっぱり「自分」に行き着くこともわかりました。夫婦の片割れは自分なんです。夫の分析よりも、本当の自分がどうなのか、この振る舞いは自分の何がそうさせるのか、己を知ることが、夫婦を語る上で欠かせない作業なんですね。


そうなると今度は、どうしても占いと私について書くときが来たように思います。輝夜師匠に、「これから今までのこといろいろ書かせていただきますがいいですか?」とお尋ねしたところ、「大丈夫ですよ。思うことを書いてください。」と許可をいただきました!なので、赤っ恥だろうが、この際、分析には必要なことです。さらけ出そうと思います。


その前に私にとって「占い」とは何なのかを解いてみました。


二つの理由があります。
一つはとてもミーハーですが・・・他人とは違う自分を手に入れられるスペシャルな小道具ということです。
ガッカリさせる理由になってしまうかもしれませんが、私にとって占いは目立つ方法、人目を引く個性的なやり方だったんですね。人間関係を作るのに、非常に役立ってくれました。平凡な私が占いという魔法の杖を振ることで、特別な人に変われる・・・そんなマジックに酔っていたのです。
そうそう占いを勉強する人はいません。しかし、占いは毎日どこかで配信されるし、雑誌の終わりには必ずつきものです。何かを決断するときは占いに頼る人もいっぱいいます。身近なものなのに、それを仕事にしている人はいませんでした。銀行時代なんてなおさらですよね。みんな銀行員というお堅い仕事についているんですから(^-^;。占いと銀行って結びつきませんが、この水と油のような異質さが私には魅力だったのかもしれません。当時は「なんちゃって手相占い師」だったので、目立てることが一番で、人を助けようとか、苦しんでいる人の役に立とうとか、そういった使命感はなく、自分のためだけの占いでした。少なくとも入り口は、人の興味を集めるためにスタートしたんです。将来的な展望など何もなかった。だって「早く結婚して楽になりたい」が私の展望だったのだから。


占いに惹きつけられたもう一つの理由は「私を知りたい」という気持ちでした。


きっと私が思うに、占い師を生業にしている人は、生まれてからこれまで
精神的にか、あるいは物理的にか、そのどちらかで地獄を見てきた人だと思います。そういう人でなければ、この仕事に興味を持つことはないでしょう。私自身はあの20代が「地獄」でした。環境的なものが地獄だったわけではありません。私の感じ方が「地獄」だったんですね。恥ずかしいと思う自分。自分のことが自分で恥ずかしいんです。なぜこんな状態になってしまうのか。私に未来はあるのか。どうして私はこんな人生なのか。恥ずかしくて埋めてしまいたくなるような自分の行動がいっぱいあるのに、でも負けず嫌いが激しくて、それを必死になって隠そうとする自分。あれもこれも含め「私って、客観的に見てどういう人間なんだろう???」
と思うことがありました。「誰か私のことを教えて!」とばかりに、占い師さんをはしごして、自分の頭の上を流れている宿命を知りたくて、知って納得がいきたくて、走り回っていました。


自分の姿を鏡で映して「これが等身大のあなたよ」と教えてくれる方法は占いだと思ったのですね。人はなぜ、生まれてから死ぬまでお付き合いする自分のことすら知らないままなんだろう。嫌いな自分はどうすればいいんだろう。どこを愛せばいいんだろう。その答えが知りたくて、私は占いを自分のために始めたのです。


占い師というのは流れとしての結果になりましたが、街頭で「あなたは~」と言って占う人に自分がなるイメージはまったくわかなかった。怪しげーなヴェールをかぶって水晶玉に未来を映し出す占い師もピンと来なかった。銀行員ですから、やっぱり福利厚生が安定している毎日を過ごしていると、自分がいきなり放浪のジプシーのような占い師はできないと思うのか。とにかく、なろうと思って始めたわけではないのですね。漠然と、自分を知りたくてこの道に入りました。同時に人目を引く趣味、いいじゃないですか。一石二鳥!それ程度の認識でしたよ。


自分のことなのに、まったく初対面の占い師さんがいきなり私の癖や、人生のことを言い当てるなんて、すごいと思いました。私だって私のことがわからなくてもてあましているわけです。占い師、おそるべし!
「すごい」といわれたくて、入った道です。
甘いわけありません。険しくないわけがありません。
挫折満載の山なのに、私には麗しい山に見えていたわけです。山は遠くから見ていると、美しく、悠然としている癒しの風景ですが、その山に一歩入ってみれば、鬱蒼とした延々と続く林、危険箇所、崖、岩場・・・準備して入らなければ登山は命を落とします。憧れで占いの道に入ると、それこそ軽装で冬山に登るのと同じくらいのショックを受けることになりますよ。


それを教えてくれたのは、私のお師匠さん、輝夜師匠でした。
この道にプライドを持っている輝夜師匠からみたら、占い師という登山において、私の不純な動機など、こんな危険なものはないと一発でわかっていたでしょう。


今から10年前、新聞広告で見つけた「三ヶ月でプロにします」という気学の勉強会。「プロ」という言葉にひきつけられて出かけた先で、私は占いを目指す仲間と出会います。気学の勉強は・・・楽しかったのですが、同じ話を延々とされる先生で、授業は「・・・(苦笑)。」でした。その三ヶ月の授業が終わり、次はその学校がタロットカードの講座を新しく開いてくださったので、引き続き参加することになりました。そこで、すでにプロの電話占い師として活躍している輝夜師匠が講師として現れたのです。


腰まで届くような長い黒髪に、印象的な大きな瞳。先生なんていうから、年配の女性を想像していた私には面食らう出会いでした。若くて、快活でなんて可愛いんでしょう!そして強烈だったのは、胸に下がっている大きなラピスラズリのペンダント。「うわ~~~本物の占い師や~~!!」と私は心の中でときめきました(爆)。タロットを扱う姿が絵になる先生です。輝夜師匠はいつも黒系の服を着て授業にきてくださっていたのでまさに「魔女みたい~~占い師だわ~~(憧)」芸能人が一般人として街を歩いていてもそのオーラが出ているように、輝夜師匠は一目見ただけで「この人は神秘的世界の住人みたい」と思えるような、不思議なオーラが出ていたんですよ。もちろん私はオーラなんて見えません。でも感じられるんですよ。


でもそんな神秘的なオーラを出しているのにもかかわらず、輝夜師匠の授業はすごくトークが面白いんですっ!!そのギャップが魅力でもありました。輝夜師匠は私よりも一つ上なんですが、輝夜師匠よりももっと年齢が上の女性ですら、輝夜師匠の魅力にひきつけられ、みんなでそのあとお茶をしたり、輝夜師匠との接点を作ってくれたりしましたね。


今もそれは変わりません。笑うときは口を開いて思い切り笑ったり、怒るときは毅然と、筋道を説明しながら(でも迫力満点)・・・表情豊かで、先生という剣を振りかざしたりしない。でも、だらしないことをしたり、約束を黙って破ったりしたら、それこそ親よりも学校の先生よりも怖いと思います。当時から今まで、もう10年間お付き合いしていますが、姿勢が一貫していて媚びることがありません。


タロットの講座が終わっても、輝夜師匠のファンになった生徒たちが、学校には内緒で輝夜師匠と接点を持てるように、懇願して引き続きタロットの授業ができるようにお願いしました。その代わり、教室はカラオケボックスでした(^-^;A私は妊娠、出産を機に占いの勉強を停止。また始めようという計画もなく、無期休業状態にはいりました。


輝夜師匠とは不思議なもので、その音信不通状態が二年ほどあったのですが、その間無性に輝夜師匠に連絡を取りたいと思うことがあり、まだパソコンでやり取りをしていなかったので、オーソドックスにお手紙を書いては、いろんな思いをつづっていました。勉強も終わったしもう会えないのかな・・・って思いながらも、でも他の人ではなく、輝夜師匠に聞いてもらいたくて、お手紙を何通かしたためた記憶があります。あの感覚は不思議です。「輝夜師匠に聞いてもらいたい。今話がしたい。」授業をやっていたときは、他にたくさんの生徒さんが周囲にいて、一対一でやりとりということはなく、みんなの中の一人、という状態だったのに、何が私をそう走らせたのか。この長く続く試練の道を予感していたのか。これほど頼りになる人を、私は見逃さなかったのか(とするなら、すごい予知能力!)。


そして2003年秋、娘の病気が発覚し、悲鳴と、怒涛のような日々を過ごしていた同じ頃、輝夜師匠は最愛のお母様をご病気で亡くされていました。私はそんなことも知らず、娘の病気が回復したという年賀状を出してしまいました。そして、春になるころ、輝夜師匠から一通のお手紙が届き、お母様を亡くされ、傷心の中にいること。そしてかつて占いの勉強をしていた仲間たちが集って、もう一度一緒にやろうという話になったので、よかったら雨音さんも・・・というお誘いがありました。


そのお手紙にしたがって、私の人生の新しい舞台が幕を開けたのです。
本当の自分の道を探し出していく旅、それは師弟関係において、真っ先に私がぶつかった自立と依存の壁でもありました。
占いとレイキのことについて触れようと思いましたが、その前にどうしても無視できない大事なことがありましたので、それを書こうと思います。


わが子が生まれ、幼稚園に入るまでは、平穏と呼べる日々が続きました。もちろん病気だったり、いろんなトラブルはありましたが、二人のかわいい小さな子供を抱っこできる喜びは、私の最高の瞬間の連続でもありました。仕事はまだまったくしておらず、子供一色の毎日でしたが、私なりに充実はしていたのです。娘が一歳を過ぎたこの頃から、もう一度輝夜師匠の元に集い、以前一緒に学んでいた占い教室の仲間と占いをネット上でやり取りを開始し、本格的に学び始めたのもこの時でした。しばらく音信普通でしたが、このとき、声をかけていただいて、私は喜んで飛びつきました!(その後、それが本当に想像以上に大変な道であることを、私は想像もできず、また輝夜師匠と一緒に勉強できるんだ!という喜びでいっぱいでした)


以前もブログに何度か記載したかもしれませんが、幼稚園に入ってからが、親にとっても、子供にとっても試練の連続でした。幼稚園に入ったらもっと楽になると思っていたのに・・・そんなことはまったくありません。むしろ、心配や不安やあせりや落ち込みが日々強くなっていく場所でした。三月生まれでオムツの取れたばかりの息子が、幼稚園に行くのを拒み、朝はおんぶして、嫌がる息子を引っ張って、時におんぶして(しかも娘は前抱っこしている状態で!)みんなが颯爽と友達に混じって遊ぶのがまぶしくてならなかったのに、肝心の息子は私の足元にしがみついてるわけですよ。イライラしましたね~~~(苦笑)。「ホラ、入っていきなさい」と突き放せば、余計にしがみついて離れないんです。今でも私には「抱っこして~」とやってくる二年生の息子ですもの、当時三歳なりたてのほやほやですから、離れないのも無理はないんです。ずっと私は幼稚園の教室か園庭で息子のそばにいるんですよ。これじゃ家と一緒です。娘はまだ母乳だったので、そばについているのも大変でした・・・。おまけに身体も小さいし、話し方もたどたどしい息子。幼稚園の間、四月生まれと三月生まれでは、顕著な差があります。息子は赤ちゃんに見えたし、四月生まれや次男次女のように、上に兄弟がいる子達はすごくしっかりしていて、主張もできているし、集団に入ることを何の抵抗もなく行っているから、しっかりした子供に映るんですよ。赤ちゃんが子供の間に混じっているようにしか見えず、てきぱきと動く同じ年の子と比べて落ち込む日々。
同時に、誰かのうちに遊びに行けば、自分の気持ちを上手く伝えられないもどかしさから、友達のおもちゃを取ったり、泣き喚いたり、とにかく遊べない。そのうち友達に「Hくんのお母さん。Hくんが邪魔するんだけれど」と私は注意を受けます。そんなことが重なって、年少から年中にかけて、彼が他のお友達と喧嘩せずに、泣かずに遊べるようになるまで、誰かと一緒に遊ばせることが怖かったこともありました。恥ずかしかったんですね・・・。上手く伝えられないのは彼のせいじゃないのに、私は代弁してあげるどころか、一緒になって萎縮してしまいました。子供に対するコンプレックスと書けばいいのでしょうか・・・うちの子以外の子供たちがみんな素晴らし気に見えるのです。頭がよさそうに見えてしまうんです。仲良しの友達ができる流れも見出せず、親も子も、幼稚園の中で居場所を探していたのです。追い討ちをかけるように、年少の終わりに、0歳の頃から仲良くなり親子で共に行動していた友達が、海外に赴任してしまいました。同じ三月生まれのお子さんを持ち、マイペースで明るい彼女がいてくれれば、私は大丈夫だ・・・と思っていたのに、そんな確実なものはなく、突然放り出された状態でした。あの時は、転勤の怖さを思い知りました(苦笑)。


でも、彼女に頼りきっていた私にとって、この別れは一つの転機になって、他の人との交流を促すきっかけになりました。それに、今はその彼女とは音信不通になり、連絡先もわからなくなりました。でも、それもまた一つの結果だと思っていますし、彼女と別れたことで、私は他の人と繋がれたことも確かです。二人でつるんでいた、そんな時代が終わり、私は幼稚園でまた新しい人間関係を開拓することになりました。


そして、幼稚園で一番私が萎縮していたことは、経済的な問題でした。
これは・・・住んでいる地域の特徴だったかもしれませんが、都内の一等地ですから、一般的なお勤めの収入では、住むことは難しい場所です。若いサラリーマンであるなら、住居費だけで給料が底をつくような物件しかありません。一軒家に至っては、一億円近いお値段。買えません!(爆)。私たち夫婦は、親が持っている敷地の上に一緒に住まわせてもらっているだけで、自分たちのお金でこの土地を買ったわけでもありません。親の支払いに乗じているだけです。なぜ乗じているかと言えば、出て行くお金がないからです。たとえ近所で借りるとしても、家族四人が満足に暮らせる3LDKの広さなら20万円はしてしまいます。絶対ムリ!
私は「家賃がないなんてラッキー!」と思って、言われるままに二世帯住居の扉をたたいたのですが、まさか子供の幼稚園を通じて、それがこんなにコンプレックスになるなんて、夢にも思いませんでした。上場企業に勤めている社宅の人や、自分たちのお金でこの土地の家を買えた人たちと、お金がなくて、幼稚園代も苦労して編み出している自分が一緒の空間にいていいんだろうか?すごく場違いな気がする・・・その居辛さはずっと私の中で消せないままでした。しかも、お金のことだから、口には出せないし、そういうセコセコした部分も見せたくない私は、見栄を張って歩いてしまいました(まあ、そんな虚勢を張っても、バレバレだったかと思いますが・笑)。特に子供の習い事なんてそうだったかもしれません。


習い事はお金がかかりますが、幼稚園のみんなのペースに合わせて、私も息子にいろいろさせてしまいました。
月曜日・・・学研
火曜日・・・体操
水曜日・・・お休み
木曜日・・・プール
金曜日・・・お絵かき教室
土曜日・・・(短期だったけれど)フットサル
一時はこれだけの習い事を息子に課していました。体操やプールなどは区の開催だったのでさほど負担がかからなかったのですが、それでも身に過ぎた出費だったのです。みんなが習わせていると聞けば、乗り遅れないようにと急ぎ、情報を集め、息子が他の人についていけるかどうかが大事でした。それも親心、と言えばそうかもしれませんね。ただ、私の中では、見栄の部分がからんでいたことは否定しません。やりすぎたという気持ちが確かに残っているからです。息子は「小学校に入ったら全部辞めたい」と言いました。それもそうです。小学校入学と同時にその住み慣れた区を出たのですが、もうそれ以来、他の人に追いつき追い越せと競うように通わせる習い事はさせていません。二年になってから、学研とボーイスカウトだけですね。


みんなゆとりがあるなあ・・・と感じることもいっぱいありました。でも私にはお金もない、夫婦も冷め切ってて、愛もない。ないない節の始まりでした。お金のことを考え始めると泥沼のようになりますし、こればかりは泥棒して収入を上げればいいというものでもありません。子供にかけられるお金が限られている私には、うらやましいと感じずにはいられない環境でした。


私がこの環境から逃げ出したいと思う理由は、夫婦の問題だけのことではなかったのです。格差社会の一端をかじって生きる勇気がなかったんですね。お金のことは、やっぱり大人同士の会話でも言わないことが多いかもしれませんが、生きていけないわけではないのに、自分の収入を虐げたくなるこの土地柄が好きになれなかった。それはまるで、痩せているのにもかかわらず、たまたま周りの人たちがみんなモデルをしていて、いつもスタイル抜群の人たちばかりを目にしているから、自分のスタイルがどうしても太っていると思うような心理状態に似ています。


お金がなくても心意気!と思うようにしていましたが、でも私の中で強い強い劣等感でした。東京の一等地だったから余計に感じる問題だったのかもしれませんね。今の土地は全然そんなこと気にしないですから(^-^;。
だから「お金もない、愛もない」空しいだけの生活をどこかで吹っ切りたくて、私は次第に占いの勉強に身を投じていくことになったのでしょう。


私にしかできない、私だけの個性が欲しかったのかもしれません。お金に振り回された上、何ももてない自分でいるのには耐えられなかったからこそ、占いで私は抜きん出たかったのかもしれません。負けず嫌いの私がチョイスした、他とは違う私の人生・・・占いは私にとって、最後の砦だったのかもしれませんね。


次回でようやく占いのことが書けそうですね・・・(苦笑)。
ここのところ、同じテーマでずっと掘り下げてきました。自分自身の根本と言うべき問題にこれだけハッキリと触り、表にすくい上げたのは初めてかもしれません。「なぜこのような私になったのか」と問い詰め、原因と思われる言動や思いを書き上げていくと、思いもかけない大発見があったりして、書いている内容は私にとっては決して快楽的でもないし、懐かしい思い出でもない、むしろ触れることすら嫌なものなのですが、それでも「そうか~~」って自分に納得できるんですよ。


同時に、今こうやって客観的に自分のことを掘り下げられる自分が、ありがたいなと思うし、昔はバカで考えなしだった、でも今はちょっと考えて行動できるようになったかもしれないって、遅い成長すら愛しく思えますよ。もちろん、すぐに100%改善しました!ということではないけれど、でも人間って気づいて変わっていけるものなんだって・・・何の力も魅力もないと思っていた私ですが、誰に魅力があるねと言われなくても、自分で自分のことを知りたいと思えるのはものすごい強みなんだなって言えますよ。


くどい書き方になりますが、これまでの私には、「自分が、自分の想いで行動していく」「自分の決断を信じる」すごく当たり前のようですが、この部分が抜け落ちていたのです。


28歳で出会った夫と30歳で結婚し、私は念願の寿退社で、地獄の銀行に通わずにすむ人生を手に入れました。銀行にいた10年間は、仕事として言うのなら本当に合っていなくて、苦しみばかりで、楽しくなかったけれど、ドジでおっちょこちょいの私をたくさんサポートしてくれる上司や同僚、後輩に恵まれました。その人たちの助けがなかったら私は早々にドロップアウトし、自分のしたいことも見つからないままの流れに身を投じていたでしょう。なじめないなりに、それでも一生懸命打ち込んだ日々・・・今も月末の、窓口でお客様があふれんばかりにやってくる夢をみて、いくら処理しても処理しても、片付かないといってうなされる自分がいます。仕事に自信がない私なのに、銀行の上司はチャンスをいっぱいくれました。研修や、新人を育成するリーダーに出してもらえたり、支店の要になるように推してくれたり・・・。ありがたい環境でした・・・。


30歳で結婚し、31歳で長男を、32歳で長女を出産し、私の人生は夫との出会いを境にいきなりジェットコースターのように回り出しました。


20代のオロオロさまよう時代を変えてくれたもの、いつも自分に自信がなく、逃げてばかりいた私を変えてくれたものが30代にありました。それは要約すると以下の3つです。


・出産と子育て
・占いの勉強の継続と、レイキをアチューンメント(伝授)してもらったこと
・夫との結婚生活(嫁いだ先の両親の関係も含めて)


妊娠は思いがけずすぐにやってきてしまいました。新婚旅行で大当たり(^-^;でも、なぜすぐに妊娠することになったのか今なら良くわかります。夫と私のつながりを強くするために、連続して出産することになったということも。もし、私たちが計画して「しばらく二人を楽しもう」という回答で二、三年ゆっくりと過ごす選択をしていたのなら、その間に破綻してしまったかもしれません。絶対に、そう思います。


妊娠して出産に至るまでの期間は、常に船酔いのようなつわりに始まり、最後はあの死神に腰を鎌で刺されていると思われる陣痛との戦い。いわゆる痛みとの戦いです。妊娠と出産、それから産んだあとも、女は痛みや変化と戦わなければなりません。あの経験を自分がしたことで、「ああ、私も大きな山を越えられたんだ」と単純に思えるようになったんですね。生まれてきた子供も、私は子供はあまり好きじゃなかったのに、わが子が生まれて始めて、子供がかわいいと心から思えるようになった。赤ちゃんを育てるということは今まであった自由がまったくなくなることでしたが、息子との生活はとても楽しく、満たされたものでした。当時は、夫の会社は傾き、月給が10万円台!でも住居費がいらなかったので、生活できました。夫としては、喜んでいられる状況でもなかったと思いますが・・・。


続いて娘が生まれ、私はこの頃の記憶がほとんどありません。なんせ二歳前の男の子に赤ちゃんの加入・・・。手のかかる男の子になっていた息子と母乳オンリーの娘を抱えて、髪の毛振り乱してやっていました。娘におっぱいをあげながら、寝てしまって、気づけば朝・・・ということが何度もありました。娘は9ヶ月のとき心臓の病気が発覚し、急遽入院、手術ということになりました。ちょうど5年前の今頃の出来事です。万が一、という可能性も言われたのですから、泣きまくって夜を明かしたこともありました。また、そのとき夫に対する信頼が、ガクッと下がることがあり、究極の場面で頼れないことも、だんだんとわかり始めてきました。


いずれにせよ、庇護が必要な二人の子供の前に立ち、今度は私が道を指示したり、手ほどきをする番になってしまったのです。「できないから」では通りません。子供をちゃんと育てたい、そんな私の想いが、私を変えるきっかけになりました。母親にならなければ、私はさっさと夫と別れていたかもしれません。でも、母親になれたおかげで、私の見える、感じる世界がぐっと広がりました。もちろん世界が広がれば、その分の苦悩も伴います。それに、皮肉ですが、一人で母親になることはできません。母親になるためには夫の協力が絶対不可欠です。彼は私を母親にしてくれた立役者ですよ。


そして、夫との夫婦としての関係は、子供の成長にしたがって冷え切っていきました。まさに、氷のようにですね。しかし、彼はそう思っておらず「俺と結婚した奥さんは幸せだ!」と何度も真剣に言うので、一体何を基準にそう断言できるのか、その神経も信じられませんでした。


夫と私がこれほどまでに亀裂を生じてしまった理由は浮気でも借金でも暴力でもありません。お金は大事に使うし、短気だけれど暴力はしません。もちろん浮気なんてありえません。風俗だって毛嫌いしている人ですから。あえて言うのなら、その人間性に対して、私が嫌悪するような出来事があったからです。


夫婦だから多少のすれ違いはいくらでもあります。でも、すれ違うのがいけないのではなく、相手がそのことについて話し合いの場を持ってきたときや真剣に話をしようとするとき、どういう態度をとるのかで、その人間性がくっきりと浮き彫りになります。真剣に耳を傾けて欲しかった・・・できないならできないなりに、バカにしないで話を聞いて欲しかった。何度も何度も私は夫を訴えました。「訴える」・・・私がこの人生で一番苦手で、一番逃げてきたことかもしれませんね。相手に自分の思いを訴えることが、怖くてできなかった。でも、今は違う。夫にわかってもらわなければ、今度は自分の心が壊れてしまう。嫌われようが、変態と思われようが、言いたいこと、わかってもらいたいことは、例え夫婦であってもいわなければならないんだ・・・。


なぜ夫婦になる前に、これができなかったんだろう・・・。


きっとこの後悔は私が一生背負い続けるものかもしれません。


出会ってから結婚するまで二年近く時間はありました。惚れた弱みと、せっかくの結婚のチャンスを手放す恐怖が、私を臆病にさせていました。二年もあれば、どんな相手でも「あれ?」と不審に思いたくなるような言動が必ずあるのです。でも一緒に暮らしていないと、不審に思ってもすぐに打ち消されてしまうため(というより、自分が打ち消したいんですよね。そんなはずはないって)自分のアンテナにひっかかった忌まわしい予感を切り捨ててしまうんですね。ちゃんと伏線は張られているんです。いきなり人間性を疑うような人格に変わるのではないのです。目の前に彼が現れた日から、自分が見ようとしなかっただけで・・・。独身の目から見ると、婚約を破棄するなんてあり得ないと思っていたけれど、既婚になって思うと、それは時に勇気もいるけれど、賢明な選択だと思うのです。結婚し家族になってからの破棄はあまりにも多くの人の人生を狂わせることになります。私は、夫の「芽」に気づいていました。不安もありました。実は、結婚が決まったあと、これでいいのだろうか・・・と不安に悩まされ、電話占いで有名な占い師(男性)に相談しているんです。結婚が決まったけれど、どうもなんだか、思ったよりも嬉しくない。ほんとうにこれでいいのかわからなくなる・・・と。


その占い師はこういったのです。「ちゃんと考えて、どちらにするかを決めなさい。今考えなかったら、本当に後悔する、最悪の結果になるよ。」


その低い声と「最悪の結果」という言葉だけは、妙に耳の奥に残りました。


結婚にとっての最悪の結果って何でしょうね。
離婚し、別れても泥沼化し、子供の人生も含めてぐちゃぐちゃになることでしょうか。
自分自身の心が壊れ、病に伏せることでしょうか。
それとも自分が死ぬまで愛のない夫婦関係に不満を爆発させながらも、依存することでしょうか。


そういう意味で、あの占い師の言葉は半分当っていたかもしれません(現に、心が伴わない夫婦関係になりました)。その占いだって、もしかしたら私に「まず、この二人の関係、しがらみとか自分の損得抜きで考えて、この人と結婚したいのか落ち着いて考えて見なさい。引き返すことは罪ではないのよ。」というメッセージだったのかもしれません。でも私はそれを無視して、聞こえないフリをしました。問題を先送りしたんです。損得で動きました。でももう今更引き返せないよ~~って思いましたしね。


引き返せない・・・結婚前なら、いくらでも立ち止まり引き返せることもできたし、話し合う余地もありだったでしょう。引き返せないことなど何もなかった。そこで彼と話し合い、改善するチャンスも作れたかもしれない。すべては損得勘定や、破棄したら絶対みんなに説明できないという恥ずかしさが先にたち、「笑われる!恥ずかしくて辞めるなんてできない!」ここでも私は「他人にどう思われるか」という見栄を出しました。


結果として今に繋がっています。
最悪の結婚生活とはもしかしたら、こういうことを言うのかという時を何度も経験し、涙が枯れるまで泣いたし、怒りの塊になって、彼を恨む毎日でした。でも・・・「恥ずかしいから離婚はできない」と言う視点はもうありません。「私の人生は私の想いで作り上げるもの」だと考えるようになれたのは、夫や、夫の両親を含めて、私が自分の感情を血のつながりのない人たちに初めてぶつけたときに目覚めたことでした。


「たとえ自分が間違っていると言われても、みんながお前はおかしいと批判されても、自分がこう想うと感じたものは、感じたときに、ちゃんと口に出さないといけないんだ。」


私は夫婦問題のクライマックスに、夫や、夫の両親に怒鳴り散らすことになりました。こういうのもなんですが、私はよほどのことがない限り怒鳴るなんてタイプではないと想います。むしろ黙って見守るタイプ。そんな私が目上に向かって怒り狂ったのですから、今までの私だったらありえない行動です。「お姑さんやお舅さんには逆らわない。いい嫁と思われたい。」それが私の哲学であり、生きる基本指針だったのですから。「逆らった!!」と思いました。でも・・・後悔はありませんでした。


でも、そのとき自分だけの扉が、生まれて初めて自分の力で開けられた様な気がしました。ああ、どうしてもっと早く、自力を信じなかったのか。36年もかかりました・・・。


たぶんその扉を開ける力は、レイキや占いを学んだところが大きく作用していたと思います。明日はその点を交えて分析したいと思います。



私は子供には絶対に東京で一人暮らしをさせようと思っています。東京都在住なので、もったいないと思うんですが、でも私が東京の真ん中で得た体験や、孤独な日々はとても貴重で、いろんな意味で私を少しだけ成長させてくれました。


一番は親に感謝できるようになったこと。田舎が美しいと思えるようになったこと。それから、自分が一人になったとしても楽しめるようになれたこと。


同じ銀行とはいえ、支店が変われば、転職したようなものです。ましてや田舎暮らしの私VS現地採用の東京の人では、いろんな部分で相違点がありました。でも・・・それこそなじむために一生懸命だった自分がいたし、東京に出てきて始めた念願のシナリオの勉強が、私の孤独を薄めてくれました。夜なのにどこにいってもきらめくネオンで明るい東京の街に一人放り出されても、寂しいと思わなくなるのに何年かかったでしょうか。一人で映画を見に行き、一人で好きな街を歩いたり、ショッピングしたり・・・ラーメン屋でもファミレスでも一人で入れるようになりました。
それと同時に「気の合わない人と、ムリに一緒に行動しなくてもいいんだ」と思えるようになって、一人で行きたい場所には一人で、たまに一緒に行動する相手は気の置けない友達と、本当に自分のつきあいも深く、濃くできるようになりました。自分のスケジュールを大事にするというか・・・生きている時間を自分のために使うことが、これほど楽しいと思えたときはありません。


「ああ、私もなかなかやるなあ」と東京の街を一人でズンズン歩けるようになったとき、初めて孤独を楽しめるようになりました。孤独とは、とにかく避けたい逃げたいものだったのに、いまやその孤独が私を救ってくれるようになったのです。


でも結婚は絶対にしたいと思っていましたよ(爆)。それこそ田舎では出会えないようなかっちょいいお兄さんがわんさかいるので、もう夢だけは追ってました。この点は、独立しても落ち着かなかったですね。


残念ながら、そんなかっちょいいお兄さんと恋に落ちるわけもありません。だって、私の結婚したいという気持ちは、寂しいから結婚したいというよりも「早く楽になりたい。専業主婦になりたい」という意味だったんだから。
銀行の厳しい業務と、責任から逃げたかった。合わないと思える仕事を続ける気力が本当にありませんでした。でも、収入だけは27歳からぐっと上がったので、余計に辞める決断が鈍り、お金のためだけに居座っていたのです。誰かに養ってもらう未来を夢見て・・・(ホント、大富豪と結婚しない限りそれは難しいのに)。
根底に結婚願望はありました。しかし私の場合、絶対にこれは「結婚式願望」だったんです。20歳から30歳までの間、結婚式は30回くらい呼ばれましたよ。結婚を経験したことのない未婚女性があのイベントを見ると、猛烈に結婚願望が上がります。少なくとも私はそうでした。自分が結婚するときはああしたいな・・・いいなあ、いいなあ・・・何で私は彼氏ができないんだろうな。早く結婚して楽になりたいよという考えで頭が支配されているのです。


でも、そんなときに出会っても「恋に恋する」状態で、上手くいくわけないんです。私がそんな舞い上がっていた自分から覚めたのは、皮肉にも夫と結婚してからだったのです。こじれ始めて、初めて自分の過ちに気がついたのです。結婚とはどういうものなのかを、知ったのです。結婚とは相手に依存して楽になるイベントだと思っていたから招いた大失敗ですよ。
銀行を辞めたいために結婚したかった。
でも自分と結婚する相手なんて絶対いないと思い込んでいた。
だから、夫と出会った時、絶対に失いたくない、これが最後のチャンスだと思っていたんです。冷静に考えれば、「絶対いない」なんて、ありえないんですけどね。男性に関してまるで自分を失う私にとって、夫との関係にメスを入れるなんて真似は怖くてできませんでした。穏便に穏便に結婚にたどり着けばそれでいいと・・・。


自分が誰かにこの自分の人生を楽にしてもらおうと思ったら、それと同じくらいに重い十字架が私の背中に乗るのです。条件のいい依存状態などありえないんです。結局誰と一緒になっても、私の人生は私のものでしかない。結婚相手に衣食住関係は振り回されることになるけれど、それでも何を選ぶかという選択は私がしないと駄目なんですね。自分ひとりの身を経済的に自立させていくことだって非常に大変なことです。現に私はストレスで銀行にはもういられないと思っていました。でも辞めるきっかけがなく、次の仕事も見えないからただ居残ったんですね。結婚ならば、他の人に逃げだと後ろ指を指されないから、この手段が一番円満だと思ってた。
自分の経済的自立に伴う試練を受け容れられないから、男性にそれを背負わせて自分は楽に家で待っていたいという考えは、こうやって書くと、非常に稚拙だと思いませんか?社会で生き抜く辛さを十分知っていながら、自分はそれが嫌だから結婚に逃げるんですよ。女だからできる技かもしれませんが、ひどいことを言うと、相手を支えたいという気持ちではなく、ただただ、私の中には「早くこの環境から私を無傷で救い出して」という叫びしか存在していませんでした。


これって、やっぱり本当は気が合わなくて別れたいのに、切り出せず、転勤を理由に彼と別れたときの精神構造とまったく同じではなかったでしょうか。パターンというべきか。浅はか過ぎる理由を隠すための逃げ。これが私の姿でした。


本当に戦うべき相手は、己の中にある。
そのことをこのときの私が知っていたなら、気づいていたのなら、私の人生も、夫の人生も、もっともっと変わっていたのかもしれません。憎しみと殺意と呼ぶべき感情に覆われるような夫婦ではなかったかもしれません。
だからわかるのです。「気づきのある」人生と「気づきのない」人生はまったく違うものに変わることを。さまざまな局面に立たされたとき、問題は外にあるのではなく、自分の内側にあることを知り、それを認めるのなら、人生はきっと変わる。依存という言葉すら自身に当てはまることを考えず、ただ欲求を満たすために動いた自分が、今どれほどそのしっぺ返しを受けていることかも。


自分の人生を自分で歩く。
それがたとえ躓きの連続であっても、障害の連続でも。
「他の人にいい子だと思われたい」
「できると言われたい」
「嫌われたくない」
「一人になるのが怖い。寂しいのは嫌」
こう書くと良くわかると思うのですが、自分が主人公になっていません。全部他人の感受性に重きを置いている発言です。他人がどう感じるのかという視点は、自分がどう感じるのかという視点とはまったく違っていて、そこに主体性もなければ、責任感もありません。他人の印象のために自分が振り回され、次第に自分の感じる気持ちを殺してきたのですね。


「早く誰かと結婚して楽になりたい」
「寿退社なら誰にも文句を言われずに済む」
こんなことをずっと考えていた私は、相手を幸せにしてあげる義務が自分にあることもすっかり頭から抜け落ちていました。自分が幸せにしてもらうことしか考えていなかったことが、私の依存そのものでした。もらうことしか考えていなかったら、そりゃ、結婚をなめてますよね(爆)。


自分の心を使っていなかった私は、やがて「夢にまで見た結婚生活」に入ってから、その心を自分のために動かすときが来るのです。それは夫婦の危機という最も残酷な形で、わかりやすく訪れました。因果応報と言うけれど、私は自分の逃げてきたものから、一番襲われたくない形で、逆襲を受けた気がしますよ・・・。

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志我雨音(しがあまね)
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占い師・レイキヒーラー・主婦
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