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占い師としての成長日記
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まだまだ続く依存症の私の分解。もうしばらくお付き合いくださいませ。


今も女としての商品として自分を考えたら、どうしても顔にもスタイルにも自信が持てません。トークも・・・男性と向き合うとすごく緊張するんですよ。何でだろう?と思うくらいに。職場でも「承認印お願いします」とかは平気で言えるけれど、飲み会とかはすごく苦手でした。プライベートな話になると、何を話したらいいのかわからず、男性と向き合うこと自体が私には異常事態なんですよ。大げさな話じゃなく、コチコチになってしまうんです。


なのに恋愛はしたいと思うんですから、人間の欲望って、困りますよね。


だから男性と向き合うときはいつも「嫌われないためにどうすればいいのか」という方向性から向き合っていたのです。言うことを聞いていればいいと思っていましたし、我慢すれば何とかなると思っていました。それよりも孤独を貫くほうがよほど辛いと思っていたから。
自分を偽ってでも彼氏は欲しいわけです(爆)。そりゃあ、うまくいきっこありません。転勤前に付き合っていた男性もそうでした。今も「何であの人の彼女になろうと思ったんだろう?」彼に心が動いた形跡がないのに無理に彼女に昇格した自分。結局、私は「庇護されること」に高い望みを持っていて、付き合ったり結婚するってことが庇護そのものだと思っていたんです。誰かと一緒にいれば幸せになれると思っていたんです。でも・・・心の伴わない男女の付き合いはキツイだけでした。空しいんです。相手はすごく嬉しそうなのに、私はその笑顔を見ても全然嬉しくない。楽しくもなんともない。一緒にいるのにきつかった。でもそれを口にできないことがもっときつかった・・・。


そのキツイ関係に身をゆだねて満足感を捜し求めるほど、私自身の芯はグラグラだったんですね。


もちろんそこに「早く円満に銀行を辞めたい」という想いも絡んでいたし、友人たちが結婚する知らせが舞い込むたびに「私も早くここから抜け出したい」と焦りました。それが、私自身の素直な判断を狂わせ、誰かに救って貰える人生を追い求める結果に繋がったんです。今まで親が自分の人生を助けてくれていたように、結婚したら今度は自分の旦那様に自分の人生のフォローをして貰えるのだから、早くそうなりたいと急ぎ過ぎていました。


転勤を言い訳にして、彼と私の価値観の違いを棚に上げたまま東京に出てきてしまったことは、実はひとつの大きなミスでした。実はその放置こそが、今の夫と私の関係に大きな影を落としているからです。どうせ別れるのなら、最後は自分の思いをぶつけてちゃんと戦っておくべきでした。
私は「相手に嫌われたくない」という気持ちを別れる相手にまで持ち込んでしまったんです。裸の自分を見せたら嫌われる・・・別れる際にも自分は守りたいわけです。きれいごとで済ませようとしたからです。


ここで私の人生の課題は持ち越しになりました。


「自分が疑問を感じたり、違和感を感じたなら、相手に恐れずにぶつけてみること」これをできることもなく、田舎を出て行くことになりました。
夫とのねじれた関係がピークに達したとき、私の中でいつもいつも、この彼との別れが頭をよぎりました。これじゃあの時と同じだ、あの頃の自分と今の自分の基本は変わっていない。真剣に相手と向き合うことから逃げ回っているのは、他ならぬ自分をいい子に見せたいため。その逃げ回った結果が今の夫婦関係だとするのなら、私のしてきたこと、選んできたことは、間違いだらけですよ。


何が間違いなのかはもう再三書いているのですが・・・。
自分の守り方を間違っていたことです。相手を傷つけまいと思う気持ちを楯にしていますが、私は自分がいわゆる「いい子」でいたかっただけですよ。本当に守らなくてはならないのは「自分がどう感じたのか」という、私にしかないその感性であり、自分が自分であるための「私の想い」でした。もし私の感性が「それは嫌だ」と働いたのなら、それに従うべきなんです。きちんと言葉に出してね。


ぶっちゃけいうなら、友達が結婚しようが、彼氏ができようが関係ないと顔を上げて歩けばよかったんです。そんなものにいちいち振り回されて死ぬほど落ち込みまくり、友達の幸せも祝えず、自分の孤独を受け容れられずに、自分を好きになってくれた男性と好きでもないのに付き合って、結局不満もわがままも言えず、ぶつかることもなく逃げるように田舎から出てきた私なんですから。


これ、書いて読み直すと、ものすごい「やな女」ですよね。全然「いい子」じゃないじゃないですか。私が執着していた「いい子」の定義すらかなりずれています(苦笑)。


男は星の数ほどいるのだ、とよく言いますが、私はその星がすごくすごく遠くにいる存在で、絶対に自分のところには来ない星なんだと思い込んでいました。本当は希望を信じたかったのに、「駄目だ。私なんて駄目なんだ。結婚なんてできないんだ。一生独身かもしれない・・・(暗)」と毎日それこそ呪いの様に自分に言い聞かせていたのだから、全然上向きになれるわけないです。自立なんて、まったくできていません。っていうか、自立なんて考えてもいなかったと思われる言動です。男性に選ばれない自分=自分がダメダメ女だから。その方程式が固定化してました。ある意味、苦しい時代でした・・・。
誰かに頼る人生から誰の力も借りないで歩く人生をそのときちゃんと考えられていたら、今の私はもう少ししっかりしていたかも知れませよね(笑)。


それでも、こんな卑怯な逃げであっても、東京に出てきたことは私にとって非常に大きな分岐点になりました。


親がそばにいない。頼りにしてきた親がそばにいない。たったひとりだけ。
東京に親戚もおらず、高校時代の友達数人くらいしか当てがない、土地勘もない。ないない尽くしの東京生活は、ホントに寂しさの極地でした。女子寮だったのが幸いで、都内の同期がすごく良くしてくれたり、同じ頃に転勤で都内店に勤務となった総合職の女性の先輩にこう言われました。


「転勤して友達が減ることはないのよ。新しい店でも、前の店にも自分の知り合いが増える。そう考えればいいのよ。」


もちろん男っ気もない私の東京生活は、田舎では味わえなかった自由と、その裏返しの孤独を教えてくれるものでした。明らかに25歳の実家との分離をきっかけに、私は自分が「23歳で結婚、25歳で第一子、27歳で第二子を出産する」という浮ついた夢から覚めていくことができるようになりました。25で子供どころか、彼氏もいないって(爆)!!


それに田舎にいると「○△銀行に勤務・・・」と言えば、周囲の人がまるで水戸黄門の印籠を見せられたかのように「ハッハ~~」と道を開けてくれてさらにレッドカーペットを敷いてくれるかのような扱いだったのですね。公務員やNTTなど、合コンなんかはたくさんお誘いがありました。しかし、都内に出れば「○△銀行」て言っても、知ってる人なんて誰もいやしません。「何?それがどうしたの?」って感じです。もうお姫様なんかじゃありません。逆に銀行名を出したらこっちが説明しなくてはいけないのです。環境が変わってしまえば、エリートでもなんでもない、ただの人ですよ。それも私にとって、目が覚めるような現実でした。田舎にいれば、職場の看板だけで、私自身も「デキる人」と見てもらえたんですよ。でも、これも・・・間違いなくひとつの依存だったのです。


銀行の知名度なんて、所詮その世界だけの人にしか通用しないし、私の実力じゃないんですよね。「虎の威を借る狐」とはまさにこのことでした。それでも、転勤したおかげ?でこの銀行で更に居残ることになってしまいました・・・(苦笑)。辞めたいと思うことは多々ありました。しかし、東京で土地勘が出てきて、歩きたい場所に自分ひとりで行けるようになって来たとき、私の中で生まれて初めて「私に対する明らかな自信」が生まれてきたように思います。


長くなってしまっていますが・・・ごめんなさいね。
東京で暮らし始めて13年。田舎には田舎のよさがあり、帰りたいと思う気持ちは強くあるけれど、東京にいる私のほうが、努力家かもしれません。それはやっぱり田舎に帰ると私は娘に戻ってしまうからなんでしょうね。
とたんにだらしなくて、いろいろやってもらってしまう私に成り下がってしまいます。親には、実家を離れて初めて、いろいろ感謝できるようになりました。毎年秋の干し柿のお手伝いに参加するようになったのも、実は家を出てからなんです。親のために、娘としてできることはしたいと思えるようになったことは、独立のもたらした一つの成長といえるでしょう。
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前回からの続きですが、私の依存体質は、皮肉にも恵まれた環境のもたらした産物だったのかもしれませんね。小さい頃は、面倒見がいい二つ上の兄がなんでも手伝ったり、刺激を与えてくれました。私は兄の影響を思いっきり受けて、機動戦士ガンダム(初代!)とか週間少年ジャンプとか、そのころの流行も兄からそのまま流れてきたし、自らの流れを作り出すという作業をしてこなかったんです。そういえば兄に影響を受けることはあっても、兄に影響を与えるようなことは今まで一切なかったなあ・・・。


高校生の頃の親友はほとんどが長女。それだけ私は「庇護してくれる」タイプのお友達とウマが合ったのかもしれません。


短大を卒業し、言われるがままに入った銀行に最終的には10年間勤めました。当時としては長かったかもしれませんね。でもただでさえ便秘症で苦労していたのに、銀行に勤めている間は週末のみの便通くらいしかないほどストレスに追い詰められ、銀行辞めたいが私の口癖でした。でもコネで入ったら結婚以外の理由で辞めたら、それこそ父親のつながりで口利きをしてくれた関係に笑われると思ってできませんでした。本当に私って・・・見栄っ張りですよね(^-^;。決断もできないし、やめるときに「周囲にどう思われるか」しか考えていないわけですよ。しかも矛盾していますが、そのくせ銀行で一目置かれたくて、試験勉強も、資格取得も片っ端から挑戦していました。銀行でキャリアアップしたくて受けるんじゃないんです。「認めてもらいたくて、すごいねって言われたくて」受けていたんです。でも、受けた理由は不純でしたが、実際に試験をクリアしたり、資格を手にすると、今まで味わったことのないような自分だけの力になってくることも、同時に教わりました。「なんだ。やればできるじゃないか。」って。


25歳で大転機が訪れました。田舎の支店から、都内店への転勤です。ありえない転勤が自分の手の中にチャンスとして訪れました。


しかし・・・裏では、自分の恋愛の行き詰まりがこの転勤を後押ししていたのですね。今回初めて書く内容かもしれませんが。実はそのころ、地元の7つ上の男性とお付き合いをしていました。彼はすごく私のことを気に入ってくれていました。でも両親は相手のことが気に入らなくて、ものすごい反対をしていました(彼がお酒を飲んだあと車を運転して私を家に送り届けたことがきっかけです。飲酒運転バリバリじゃないですか。大反対を受けました。)。じゃあ、肝心の私の気持ちは・・・・。


私は自分に自信がない人間でしたので、自分を好きだといってくれる人が現れること自体が奇跡だと思っていたのです。だから彼のことが大事であって、彼そのものを好きなわけではなかった。こういう男性はもう現れないと思ったからこそ、保険のようにそばに置いておきたかっただけで、私の心が強く求めていたわけではないんですね。好きだと思える相手は別にいたんです。でも絶対にその人は私のことなど振り向いてもくれなくて、ずっと片思いでしかなかったから、私はそれに耐え切れず、自分を好きだと言ってくれる相手に気を許したのでしょう。彼は私のことを友達に紹介したりして、本気で将来のことも考えていたと思うのですが、でも時折見せる度を越した強引過ぎるところは、私は違和感を覚えていたんです。しかし、その違和感を感じたとき、私はそれを言えなかった。「私はこうして欲しいんだけれどな・・・」って思う気持ちをいつもいつも、胸に押し込んできました。いわゆる我慢が、彼との関係の中にありました。でもそれを口に出せなかったんです。それを口にして、責められるのが怖くて、言い出せませんでした。それは常に人目を気にして、自分の気持ちを封印するような時代の両親や祖父母と同居してきた環境がもたらしたものかもしれませんが、言い争うことが怖かった私の弱さの何よりの象徴でもありました。


今の私ならその言い争いも必要な葛藤だと思えるのに。


だから私は、自分も相手も納得し、相手に不満をぶつけないでフェイド・アウトできる別離の方法を転勤という渡し舟に乗っけてしまったのです。
東京に出てしまえば、この人とこのまま一緒になる未来は自然に避けられる。しかも周囲も「遠距離なら仕方ない」と納得がいくはず。


(これがほんの10年ちょっと前の自分の考えだなんて、恐ろしく稚拙で、書いていると汗が吹き出そうです・苦笑)


本当にすべき方法は、彼にちゃんと「どうしても好きだと思えない」理由を話し合ったり、打ち明けたりして、傷を負ってでも関係を作るべきだったのかもしれません。合わないと思ったのなら、それなりに断るべきでした。でもそれができなかったのはひとえに、ひとりになれない弱さがあったからです。これこそが自立できていない私の素の姿でもありました。


それは・・・夫との関係においても、結婚前に違和感を感じ、不穏な影に気づいていることがありながら目を伏せていたことで私は過ちを繰り返しています。二度もやってしまいました。結局根底には「私は愛される価値のない女なんだ。だからこの男性を失ったら私はもう終わりなんだ。」という強い自己否定がからんでいます。その気持ちがすべてを歪ませていませんか?


じゃあその強い自己否定はどこからくるのか?
私は三世代同居で、両親にはとてもかわいがってくれたと思います。忙しい中でも。一緒に遊んでもらうことが少なくても、両親の愛の不足を感じたことはないのですが・・・。私は父親にそっくりだったこともあって、父は私のことを本当によくかわいがってくれました。だから親の愛情の不足が原因とは一概に当てはまらないような気がするんですね。両親は忙しかったですが、代わりに私を大事にしてくれる存在がいました。今の時代よりずっと親類や近所の人たちとの繋がりも密でしたし、祖父母もいましたから(でも思い出せないだけで、忙しかった両親に不満があったのかもしれませんね)。


でも私としてはその父にそっくりな重い一重まぶたが大嫌いで大嫌いで、目が腫れていて、蚊にさされたようなまぶたを持つ自分の顔が嫌いです。
あと顔の中央に居座る大きなホクロ。それから小さい頃から丸々としていて、肥満児のエリアにいつも足を突っ込んでいた自分の「女としての価値」に、私は限りなく絶望していました。今もそうですけれど(爆)。
小学4年の頃、初恋の男の子が転校してしまうとき、当時同じ班だった私と彼は班毎にお別れの写真を撮影することになったのです。班のみんなで肩を組んで、一列になった状態で撮影するのですが、女の子と男の子のつなぎ目は私と彼でした。男の子と肩を組むのには何の抵抗もない彼が、肩をつなぐ女子が私だとわかったとき、明らかに「え?!」という戸惑いの表情を見せました。「お前かよ・・・」ってそんなニュアンスで言われてしまったんですね。「ああ、彼は私と組みたくないんだな。」ってすごくショックでした。なかなか彼が腕を組んでくれず、でも組まないわけには行かないと思ったのか、ガッチリではないけれど、肩をちょっとだけ組んで、写真を撮った瞬間にすぐに離されました。これが女としての記憶の中で一番最初に受けたショックですね。


その後も席替えや遊びのさなかにのときなんかに、男子から「げーお前が隣かよ。」的なことをいわれたことがあったので、そういった積み重ねや鏡を見るたびの劣等感が積み重なって、女としての自分は、男にとって受け容れられないタイプなんだ・・・と思うようになってしまったんです。


一緒に住んでいた肉親は私をかわいがってくれたけれど、この顔、この身体を自分が気に入ってなくて、本当に嫌だと思っていた時間が長すぎましたね・・・。女としての「私はかわいくない。」という屈折した気持ちが、今後の恋愛に影響を与えていったのは確かです。


小学校一年のときの記憶ってもう曖昧な部分がありますが、私の中で鮮やかに思い出せる唯一の記憶は、クラスの中でとってもかわいらしくて、大人びた表情を持っていた、ある女の子に対する憧憬です。「なんてかわいいの!」そういう目で同級生を見ていたということは、小学校一年であっても女同士でそういった「ビジュアル」に対しての意識が強くあったのですね。もう勝負(比較して落ち込むこと)に足を突っ込んでいる。その女の子はすぐに転校してしまったけれど、今でも名前も顔もはっきりと思い出せますよ。それだけ私は、かわいい、かわいくない、ということに敏感だったはずなんです。


女としての自信のなさ、それから男性と向き合うことへの恐れが私を東京へと導いたのは皮肉かもしれません。だから修行に出されたと解釈すべきなのか。


東京への転勤希望を出したと打ち明けたとき、「じゃあ、それは別れるってことだよな」とものすごい勢いで怒られ、告げたその夜に別れることになりました。「遠距離なんかできると思っているのか。」「なんで言わなかったんだ。」「俺はもう女なんか信じられない。」って。私は最後まで「本当はあなたのこと、心から好きになれなかった。」と言えず、転勤を隠れ蓑にして別れました。それは私がずっと隠してきた、私のひとつの罪かもしれません。


どんな相手と向き合っても、どんなに好きな相手であっても、価値観の違いからもたらされる「違和感」はあるはずです。そのときに相手を失いたくないと思うと、その違和感に手をつけるのを拒みたくなりますが、本当はそれが解決ではなく、違和感を感じたとき、どう動くのかで人生の流れはまったく変わったものになります。私は逃げてきたんです。自分で決断するということができなかったから。自分の言葉に責任を持つことが重荷だったから。たとえこのように相手と通じ合っていないとハッキリ把握しながらも、自分が自分の心から逃げることも、自立していないことなんですよ。
つきあっているという形で孤独からは免れます。依存というか、アクセサリーのような恋人関係にすがるしかなかった心の貧弱さが、私の弱さだったのでしょうね。貧弱という文字には弱いという字が入ります。


ああ・・・自分の弱さの原因を追求していくと、次から次へと、思いがけない気づきが起こりますね。それは私自身をスケッチしていく作業と似ています。まだまだ続きます。
記事とは関係ないですけれど、今時計を見たら「10:10」で、日付もデジタルで表示されているので「10/10」って、時計の表示に10がズラリと並んでいました。なんだか得した気分です♪ラッキー!!たまたま見た時間がそろっていると、いいことがあるんじゃないかと舞い上がってしまいそうです。


さて、私という人間を掘り下げていこうと思います。まずは自分のことを知っているようでいて、把握できていない部分もあるし、「たぶんこうだよね」と認識できているものもあるけれど、どうしてこういう自分ができあがったのかも含め、何回かに分けて、自分を解剖してみようかなって思います。


どうしてこんなことをしようと思ったのかと言えば、私は自分の性格を
「いじけやすく、落ち込みやすく、すぐ愚痴る。自分で何とかしようとしない。なのにあきらめが悪い。」と思うことがありました。
それは占いの道に入ってから、ますます顕著に感じることでもありました。私はなぜこんなに、できないのだろう。書けないのだろう。言えないのだろう。苦しみが目の前に立ったとき、逃げることばかり考えてしまうのだろう。ひとつのジャッジをするときも、なぜ偏ったものの見方をしてしまうのだろう。自分の考え方が間違っているような気がして、どうしても誰かの賛同を得たいと思ってしまう。自分の考えを引っ込めてしまう。自立できていないと何度も指摘されたけれど、自分がなっていないから、とてもひとりでなんて怖くて立てない。そもそも、自分の足で立つってどういうことなんだろう。


全然わからない。ピンとこない。じゃあなぜ理解できないのか。その理由は私自身がいろんな人に甘えて、自分の手でやってこなかったことが原因ですね。


一番の依存は、私は親に何もかもをやってもらってきたこと。
受験とかはもちろん自分で受けたけれど、それ以外のことはぜ~~んぶ親任せ。家事も、お金もいっぱい出してもらってきたし、困ったことがあったら、親が魔法使いのように解決してくれると思って、今まで幾度となく困ってもすぐにすがっていたんです。お恥ずかしい話の連発ですが、就職先の銀行だって親が話を持ってきて、ただ私は試験を受けに行っただけですよ。その受験の際のスーツだって自分じゃ買いません。その上、時代まで私を甘やかしてくれて(苦笑)、超売り手市場のバブル絶頂期。就職先に困る人は誰もいませんでした。たいした考えなんてなくても、哲学的なものを持っていなくても、フラフラしていても銀行に採用されてしまうんです。この時点でかなり楽をしてます。だって、「自分がどう生きたいのか。どうありたいのか。どうすれば受かるのか。」っていう苦労なんて何一つしてませんもの。20歳そこそこで誰もが越えなければならない壁を、私は親の持ってきた就職先にちらっと顔を出すだけで、クリアしてしまったんです。クリアどころか、ハードルも試練も何もないわけです。自分のあり方も、自分の未来も何にもなかった。ただ「23で寿退社して、25歳で第一子を産んで、27歳で第二子を産む」程度の未来のビジョンしかなかった。冗談抜きで、それしか考えていませんでしたよ。しかも・・・今日初めて気がついたんですけれど(苦笑)、この夢もなんというか・・・依存的じゃないでしょうか?相手の人生に乗っかることしか描いていなかったわけです。自分で何とかしよう!という意気込みのかけらもありません。産むことくらいしか、能動的なことは持っていませんよね。


親に就職先を斡旋してもらった私は、そのままヘラヘラ~~っと銀行に入ったので、そのあと、叩き直されるわけですが、そうなると次に私は「辞めたい。とにかく辞めたい。」を何度も何度もつぶやいたし、どうすれば辞められるのかを考えました。しかし、田舎で銀行を辞めたら次に就職する先なんてありません。「あら~いいところにお勤めね」という言葉に天狗になってきた私は、それも捨てがたくて辞められません。年に二回のお楽しみ、ボーナスをもらうと辞められません。親は私に「給料は自分で貯めておきなさい。家には入れなくていいから、自分で使いなさい。」と言って、お金も強制しませんでした。その上、車の保険とか、車検は父の知り合いの関係の会社で安くしてもらっていたのですが、それも面倒見てもらっていたんです。もう書いているだけで汗が出てきそう。私ってお金だけでもわがまま放題ですよね。親の言葉に甘えて、やりたい放題で、でも頭の中ではそんな自分を受け容れてくれる永久就職先を漠然と夢見ていました。申し訳ないのですが、その程度の考えしかなかったんです。だから恋愛に敗れることが、自分の人生の根本が狂うことと等しくなり、自分自身の足で立つことよりも、自分の好きな人にずっと私のことを好きでいてもらわないと困る!という構図になり、私は自分に問題を抱えながらも、それが依存から来るものだとは、まったく考えも及びませんでした。


そう、今でもそうですが、客観的に自分を見るって案外できないものなのです。ましてや渦中にいると・・・。依存していた自分を書き上げる毎に、親に申し訳ないし、なんて、努力の仕方を間違っていたんだろうと思います。それでもあの時は、それが精一杯だったんですね・・・。目覚めが遅かったんです。自分がどういう姿をしているのか。自分が自分を知り、どう生きるべきなのかを、この人生を生きながら模索し始めることを、ひとつの目覚めというのなら、明らかに、親の庇護の元、就職して社会人になっていても、私はずっと眠りこけて、誰かがさらって、眠り姫のように王子が目覚めさせてくれると思っていました。自分で目覚めずにね。


あのまま本当に23歳そこそこで結婚相手が私をさらってくれていたら、私は今、どんな妻になっているんでしょうか・・・。少なくとも占いは、していなかったでしょうね。


今もその幼い私が顔を出してしまうときがあります。
それは「弱ったとき」です。


夫のことで本当に参ってしまったときは、母親に、それから輝夜師匠に。
何度も泣きついたし、とにかく聞いてもらってすっきりしたかった。
ずっと今までもそう。つらいやめたい、そんなときは友達に愚痴ってきました。助けられました。それは確かです。


でも・・・いつもその繰り返しでは、やっぱり駄目なんですよ。
いつまでも親の庇護がある頃のように、事態が悪化したら甘えるということの繰り返しでは、本質的なものが変わらない限り、事態も変わっていかないし、付き合わされる相手も、疲れるものなのです。それに気づいたのがようやく今・・・。


ちょっと、長くなってしまいそうですので、また連続して、記事を書いていこうと思います。明日は保育園の運動会です。晴れますように♪






実家に帰っていると、現在の我が家にいるときと、またまったく違った想いが湧き上がってきます。


なぜなら、そこには私の「育ち」の基本があり、私を育んでくれたものがそこかしこに存在しているからです。本棚には私が短大生のときに集めた山田詠美の本が、詩集が、懐かしいカセットテープがまだ置いてあり、一歩外に出れば、幼いころから遊んだ庭が、手伝いをした田んぼが、いつも見つめていた山々が広がります。今日は要らない本を集めて、古本屋に売ってきました。それから押入れの奥から山ほどの手紙、日記帳、それから私の書いたシナリオが出てきました。恥ずかしくて開けられません(笑)。
それから銀行員時代の窓口の営業成績表も・・・名古屋時代の演劇のチラシも・・・。


あのころ大好きだった人、毎日交流していた同期、映画に付き合ってくれた同僚。一生懸命仕事をして銀行になじもうとしていた日々や、出会った多くの人・・・。今、現実に連絡を取り合い、同じようにそばにいてくれる人はほとんどいません。年賀状のやり取りだけです。たくさん語り合い、飲みあった銀行の同期も、現在は大半が退職をして、名前も変わって、もう二度と会うこともできないでしょう。男性の同期はもう課長以上のクラスになっていることでしょう。私をおおらかに見守ってくれた上司はもう退職し第二の人生を歩んでいることでしょう。


あのころ必死になって働いていたころには、こんな未来が来るとは夢にも思わなかった。一緒に働いている人は永遠で、変わるものなどないと思っていた・・・でも、私という登場人物以外はみんなそれぞれのステージに消えていきました。


「自分を好きになる方法」「結婚なんてやめなさい」(すごいタイトル!)中谷彰宏氏の本を買いあさっていた時期もありました。自己啓発系の本を買い、ペンで大事なところに線を引いて、何度も何度もその本を読み返していた自分。本棚にはそのときの私がよく現れています。


その手の本ばかり集めていた頃から15年以上過ぎたわけです。
25歳で東京に出ることになって、私の人生は大きく変わりました。誰も、私自身も東京で過ごすことになるなんて夢にも思って見なかったのです。でも、田舎で銀行員をするという流れが突然断ち切られ、親元を離れてから、私は本当の意味で、自立や、自分の目標と言うものを探し出したと思います。それは今でも続いていますが、東京に出るときはまさか、占いを仕事にする未来があるなんて思っても見なかったですしね。シナリオライターになって銀行を辞めるという野望はありましたが。


田舎にいるときはわからなかった。
山がどんなに美しく、この空がどんなにきれいなのか。
私自身がどんなに恵まれた環境で育ち、幸せな子供だったのか。
数々の想いが私を育み、いつも見守ってくれていたことも。


今、あと二年足らずで40歳になる自分がここにいて思い出を手にしてみると、大事にしていたものが歳月の流れで黄ばみ、独特のにおいを放っていることがすごく不思議でした。月日は流れたんだという実感が、そのにおいを通じてよくわかるのです。私は兄がひとりいますが、実は兄といつ会ったのか、思い出せないくらい会っていないんですね(笑)。記憶の中の兄は、いつも一緒に遊んでいたり、高校生の兄で、元気で活きがいい男の子なのに、家に飾ってある現在の兄の写真は、メタボなおなかを持っているいいおっさんで、兄の周囲にはもう中学生の姪っ子が兄に良く似ていて・・・。自分以外のみんなも、老い始めている・・・。それが幼い頃から知っている人だと、余計に時の流れを感じてしまったりします。


お盆なので、伯父さん叔母さんが家にお棚参りに来ます。そのときも、伯父さんがふらつきながら靴を履いている場面や、叔母さんがおばあちゃんにそっくりになってきたことに驚いたり(そりゃ親子ですから当然でしょうか)伯母さんが、すごく気落ちしているのか(軽い鬱状態?)元気がなくて、びっくりしたり・・・。私にとって「元気の象徴」だった伯父さんたちが、「老いて」いることが、ちょっとショックでした。お盆はなくなった人たちの魂が家に帰ってくるとき。だからこんな風に、「生きて老いる」ということについて考えてしまうのでしょうか。


私は後片付けをしながら母に言いました。
「伯母さん、すっかり暗くなっちゃって・・・年をとったら悩みがなくなるのかと思ったら、そうじゃないんだね。」
「年をとればとったで、それなりに悩みはあるし、楽になることはないよ。」
「えーーーー!!そうなの?!!」
「当たり前でしょう。」
と一笑されました。
「今が一番大変かと思っていたけれど、そうじゃないのか・・・(涙)」


あと20年たてば私だって立派な初老です。
その時私はどんな気持ちで自分を見つめるのでしょう。
その時私は、どんな人とどんなかかわりを持っているのでしょう。
今大事にしているものでも、あと20年たてば「恥ずかしくて見れないわ」というものに変わるのでしょうか。そして、多分親との関わりも変わってくるでしょう。今は「してもらう」ことばかりだけれど・・・。


どんな未来が来るのか、誰も予測はできません。
天災が生じて、無事に未来を迎えられている保障だってありません。無事に老いることができたら、それは幸せなことかもしれませんね。
少なくとも、私はもう「育つ」立場から「育てる」立場にシフトチェンジしなければなりません。ふるさとに来ると、つい甘えてしまいますが、それでも親の代も本格的な老いに入るわけです。数々の想い出は親が私に与えてくれた最高のプレゼント。私はそれを受け取り、東京でまた、力を発揮したいと思います。


思い出にひたる時間が多いので、いろいろ考えちゃいますね。帰省は。

もし何も変わらないものがあるとするなら、南アルプスの美しい稜線、かな?きっとこれだけはずっとずっと変わらないんでしょうね。
私は占いに興味がありましたが、占い師に本気でなろうと思っていたわけではなかったのですね。趣味に毛が生えた程度で満足していた部分がありました。でも、ちょうど9年前に、タロット教室の開講に参加したときに講師として派遣された輝夜師匠と出会ってから、その意識が少しづつ変わりました。


これだけはハッキリいえます。私は輝夜師匠に会わなかったら占いの道をこれほど究めていなかったでしょうし、まだどこかで道の固まらない主婦でいろいろさまよっていたでしょう。何が大事なのか、何をしたいのかがわからないまま・・・。
その道のプロになるために必要なのは、もちろん技術ですが、技術ならばいろんな占い学校に行けば習得できます。
私がこの占い師という学びで、先生に恵まれたことが一番幸せなことでした。
輝夜師匠が教えてくださるのは、占いの技術だけではありません。
根底に流れているのは、占い師としての根性、努力、思いやり、厳しさ、人間としてのマナー、言葉の重み・・・書き出したらキリがありません。占い師としての魂を全身全霊で教えてくれるのですね。実はその部分こそが一番大事で、自分も輝夜師匠が教えてくれることを聞き漏らさないように全力でぶつからないとだめなんです。


輝夜師匠は、極端な例えですが、親が子供を死ぬ気で育てるように、私たち弟子と向かい合ってきました。しかし、私は最初、占いを勉強し始めたころはその気持ちに応えられるような言動をとっていませんでした。その当時はわが子が赤ちゃんの時代で、手がかかる上に、夫も無理解で、とても占い師として生きていく決意がなかったし、厳しい勉強を続けるには、私は甘ちゃんで、冗談抜きで雨音じゃなくて甘音でした。何か言われると「もう辞めよう」と思っていたし、本当によく注意を受けました。それも占いのことだけじゃなくて、本当に一般常識的なこと。掲示板でのエチケットや、お客さんとのやり取りで、私はミスの連続。苦しい日々でした。何で占い師になるためにこんなに怒られたり、厳しい修行をしなければならないんだろうかって・・・。


子供が成長し、親になって初めて知る親の恩、とは言いますが、私は最初、輝夜師匠に歯向かってばかりの子供でした。
いつ辞めてもいいと思っていたし、それは輝夜師匠に痛いほど見抜かれていた事実です。
でも、なぜか私は輝夜師匠の元を離れることができませんでした。
それは・・・輝夜師匠の厳しさの衣の下にある、人間としての包容力とか、思いやる気持ち、裏のない、まっすぐなお人柄であることを、時間をかけて知ったからです。だから、輝夜師匠がどれほどの思いを持って私たちに向き合っているのかをあらゆる場面で知ることになり、私はそれに答えたいと思いはじめました。憧れの人です。占い師としても人間としても、とてもかなわないものを持っている。だから、ここで辞めちゃうのではなくて、絶対に認めてもらいたい、って思うようになりました。


しかし、「誰かに認めてもらいたいから」という気持ちだけで走るには、この道は厳しすぎるものです。浅はかな中途半端さだけを生む危険性もありましたが、最初は「輝夜師匠に認めてもらいたい」というスタートが、何度も転んで指導を受ける中で「自分がこの道を選んでいくんだ」という柱が出来上がってきました。昔は「輝夜師匠、がんばっているねって褒めてください。でないとがんばれません」と、とんでもないおばか発言をしていた私です(爆)。さすがに今はそんなこと恥ずかしくて言えませんが、それをサラリと要求できてしまうくらい私は未熟でした。輝夜師匠も心の中で「なんなんだ?!!」と参っていたに違いありません。


もし、私の師匠がお金と占いを一緒に考えるような人でしたら、私はそのような鑑定士になっていたか、呆れて占いの道を放棄していたでしょう。しかし、神様は私に輝夜師匠とのご縁を与えてくださいました。


ご縁があるということは、そこにとても深い意味があるということ。
向き合う中で感じてきたことに目をそむけず、受け入れていくことで、私は自分が変わってきたことを感じました。
いつの間にか、逃げたい自分は影をひそめ、占いの会社に面接を申し込むような積極性が芽生えていました。どこに行っても、どの会社で所属して鑑定士名が違うものであっても、輝夜師匠から受け継いだ魂や、占いに対する姿勢は絶対に崩さないようにしようと思ってきました。そして、今在宅で仕事をする孤独な作業のなかで、輝夜師匠が教えてくれた数々の言葉や心構えは、私にしっかりと根付き、不安になりそうな私を強く励まして支えてくれます。時に、「もうこんな仕事したくない!」と否定的になる自分に「でも・・・やるしかないよね」と立ち上げてくれます。


ありがたいですよね。一人でこの世界を生き抜くことはできません。


私たちは毎月一回メルマガを発行しています。
毎月お題を考え、そのお題についてそれぞれがエッセイを掲載しているものですが、来月1日に発行するメルマガの記事は、輝夜師匠と私の記事がまったく正反対で(もちろん、私たちは相手の記事に影響を受けないように、相手の記事を読んでから書くということは一切していません)、これは自分にとっても驚きでしたし、実はとてもショックでした・・・。
というのも、輝夜師匠に教えを受けていながら、輝夜師匠とはまったく反対の考え方を持っている弟子ってどうなのよ?って思ってしまったんです。すごく落ち込みました。悪いことをしている気にもなりました。


でも、輝夜師匠の回答は「いいんじゃない。スタイルは違っていいんだよ。占い師としての志や、魂のレベルが同じなら、表現が違ってもそれでいいんだよ。」ということでした。


すごいなあと思います。


私は弟子を持っていませんが、自分の子供はいます。でも子育てでいつもぶつかるのは子供が自分の思うようにならないからです。子供が自分の育てたようにならなかったり、理想どおりでないと「いい加減にしなさい!」と怒鳴る母です。要は、懐が狭いんです・・・。


そこで決定的な違いに気づけました。
私と師匠の決定的な違い。それは、面倒見のよさ。包容力。とことん、面倒を見るタイプの輝夜師匠と、できるだけなら最低限のことしかしたくない面倒くさがりな私。
自分とはまったくタイプの違う弟子でも、その考え方を快く受け入れてくれる輝夜師匠と、できるだけすべてを理想的にしなくてはいけないと考える私。


これは占いの現場で、この差が占い師としてのレベルの差になるんです。



占い師はそれこそ星の数ほどいるでしょうけど、占いの技術にとどまらず、ここまで人生を賭けて指導に当たれる師匠が一体何人いるでしょう?
そして私がいつか弟子を持ったとき、私は輝夜師匠にしていただいたことを弟子に受け継いでいけるでしょうか???
今の自分が誰かの面倒を見るということには躊躇が伴いますが、輝夜師匠に出会ったということは、私にも必ず、師匠としての人生があるということだと思っています。だから、私は輝夜師匠の下で学んできたのでしょうし、弟子として学べることと、師匠の立場から学べることはまったく異なっていますが、その二つを知って始めて、私は一人前の人間になれるのかもしれません。子供が成長し、親になって初めて世の中の苦労を自分の体で体感することができるのと同じように。


輝夜師匠が授業の最初にこういってくれました。
「私は自分の持っているものすべてを皆さんにお伝えするつもりです。」
本当にそうでした。タロットの授業にとどまらず、姓名判断、気学、四柱推命・・・輝夜師匠は自分が学んだことを出し惜しみする人ではなく、弟子に真っ先に教えてくれました。占いをしていない時間も占い師として生きることも。


何かのエキスパートになりたいのなら、大事なのは、誰の下でそれを学ぶのかということです。いい先生に出会うことができたなら、その道でしっかりとした基盤を作ることができます。私はそういう面で、誰よりも恵まれていますよね。たぶん、ある意味、こんなに私のことをよく知った上で指導をしてくれる方はもう地球上にはいないと思います。


私はまだ輝夜師匠にいただくばかりですが、できれば、自分が得たもので輝夜師匠に影響を与えられるようになれたらと思います。それには今の自分に、自分が合格点をなかなか出せないので・・・(苦笑)。


厳しさの裏に深い深い愛情がある輝夜師匠と、鑑定中は相談者に優しい言葉を並べるけど、実はまだ人の面倒をとことん見るのに抵抗がある弟子の私。
まだ至らない点ばかりで恥ずかしいのですが、輝夜師匠に失望させてきましたし、怒らせたりもしましたが、いつかこの道で、ちゃんと自立を果たすのが私の目標であり、超えるべき大事なポイントなのです。


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今回は輝夜師匠と私のキャラクターの違いがはっきりと分かれています。毎月、かなり力を入れて記事を書いていますので、よかったら、ご購読くださいね♪最後は宣伝です(爆)。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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