忍者ブログ
占い師としての成長日記
[1] [2] [3] [4] [5]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

土曜日の鑑定での食い違い以来、ちょっと悪いことを考えすぎてしまって、本来の「悩む」とは別の方角へ流れてしまっていました。


そう、一番いけない流れに流れ着いたわけです・・・「やっぱり私なんかダメなんだわ」「必要とされていないんだわ」「能力がないんだわ」
こうなったら、本来の問題がかき消されてしまいますよね。


こうなってはいけなかったのです。
よく覚えていてください。私がいい見本です。他の鑑定士さんのまぶしい姿を見て、打ちのめされていました。やっぱりダメなんだの文字がぐるぐる回り始めて・・・私は悩んでいたのではなく、比較をしてしまったのです。他の鑑定士さんだったらこんなこと言わないだろうな、とか。人気がある鑑定士さんならこのお客さんを上手にこなしたんだろうな・・・って。


それでなにをしても明るくなれなくなってしまった。立ち上がるつもりが、立ち直れなくなってしまった。


劣等感も、向上心のきっかけにはなります。
でも・・・誰かの存在と自分を比べて、優越感が生まれても、劣等感が生まれても、それが一体何の助けになるというのでしょう?
私の悪い癖は「比較して落ち込む」です。その技術や流れは天才的なくらいです。素晴らしいくらいに比較するのが上手です(爆)。
なのに、勝手に落ち込んでどこまでも深い闇にはまってしまうのだから、劣等感は一歩間違えば、さまよえる子羊の根源になってしまいます。


とりあえず・・・の対策を立てました。
落ち込む素材には触れないこと。
それに限ります。見るから落ち込むのです。だったら見なければいい話。
対策は、案外シンプルなもの。


それよりも、落ち込んでしまった自分を、自分で握りつぶすのではなく、「これが私の原寸大サイズ」と知ることが大事なんだということ。
スランプは、なぜあるのでしょうか?それは・・・スランプに伴うさまざまな自分の内面を知ることで、自分の考えていることがよ~~くわかるからです。自分のことを知っているようで知りません。持て余したりします。しかし、スランプなど、沼にはまっているときは、何が何でも沼からの脱出を試みるため、余裕がなくなりますから、自分の抱えている本質があますところなく露呈されます。


そんな自分をみて「みっともないけれど、これが自分なのかー」とキャッチできたら、だんだんみっともない自分から卒業しようと人間は気づくかもしれません。一回でうまくいかなくてもいいから、努力できることが大事ですよね。私は、できないことだらけですが、少なくとも直したいと思ってもがいている自分が、嫌いではないです。


失敗は成功の母、雨降って地固まる・・・仕事を通じて苦しんでも、私はその中で逃げずに向き合う自分を作りたいだけです。
悩むのは悪くありません。比較して落ち込むことがいけないのですね。
全然楽しくもなんともないです。私は散々それを人生でしてきているのに、また今回もやっちゃいました。
でも、また今回も、抱えきれないほどの気づきというギフトをいただきました。感謝です。
PR
先日ある相談者に言われました。
「さっきから聞いてるけど、全然当たってないんですけどっ!」


自分のやり方がまったく通用しない相手というものは存在します。
タロットを展開してこの調子で言われてしまうと、内心思いっきり挫けます。悲しいですよ。でも一番やってはいけないことは、相談者に謝ったり、自分の占いを自分で否定すること。


当たっていないかもしれません。うまく読み取れなかったのかもしれません。でも、そのとき出来る精一杯の鑑定をさせていただいたんですね。
「私は精一杯鑑定させていただきました。私の鑑定が気にいらなければこれでやめておきますが、どうされますか?」
「なんなの?開き直り?」


開き直るというのは正しい言い方ではないかもしれませんが、自分のやっていることにもっと自信を持って、歯をくいしばってここから逃げずに立ち向うってこういうことなんだな・・・って思います。


でもね、実はものすごくものすごく小心者で、敏感になりすぎる私。
やっぱり納得させられなかった自分がくやしい。
相談者に、信用されなかったのはくやしい。
それを相談者のせいにしてしまうのも、なんだか筋が違う気がしてしまう。


その鑑定が一日の最後の仕事だったんだけれど、気になって気になって仕方ない。会社に電話をして、事情を説明してお話を聞いていただきましたが、やっぱり気にしないでいいのよって言ってもらいました。いちいち気にしていたら持たないわよって。


そうでしょうね。
そしてそれはもっともまっとうな回答かもしれません。


昔から「あなたは真面目すぎるから、もう少し気楽に行きなさい」と言われるんですよね。
自分が悶々と悩んで、その壁がどうして乗り越えられなかったのか考えていると「もうちょっと気楽になってもいいんじゃない?普通のひとはそんなに悩まないよ」って言われることがありました。きっと「どうしてできなかったんだろう。私の何が悪かったんだろう」って思いつめてしまうから、そういう風に言われてきたんだと思うんです。だから「気にしていたら次に進まない」ということも私の課題かもしれません。


ただ・・・その「真面目なんだから」という性質は、弱点かもしれないけど、私のよさでもあるのだし、真面目だから出来ることだってあるはずだと思ってしまうのです。嫌悪感を感じる鑑定、こんなことは忘れればいいのかもしれません。
でも、忘れるために起きているわけではないですよね?


なぜこんなことを言われたのか。なぜこの人はこういう性質なのか。突き詰めていけば、そこにヒントがあるはずです。
突き詰めるのは悩むということではなく、追究するということ。それは必ず自分が何かを追う側であり、追われる側ではありません。
自分が追い詰められるのとは違うんですよ。


真面目すぎると笑われることもあるけれど、真面目になれる部分は思い切り真面目で行こうと思います。


少なくとも、占いのデータ上、大変参考になったことは確かです。
転んでもただでは起きないぞ!
「ファースト・ワイフ・クラブ」という一本の映画によって、自分の中で占い師と言う言葉がどんどん膨らんできました。すぐに転職しようとか、そういったものではなかったのですが、いずれにせよ、今までの手相だけの占いでプロになるとするのなら通用しないし、手相で「彼は私のことをどう思っているの?」「転職したいんだけどいつがいいの?」と言う質問に回答ができないことを、だんだん学んできたところでした。


「手相だけじゃ本当の意味でアドバイザーにはなれないな。」
当時の私は時間とお金はありましたので、学校を探し、易と人相学を学びました。そこの学校は本当に面白い講義をしてくれるんですね。ただ、どちらかといえば、退職され第二の人生を歩まれている方が、人生を豊かにするための講座として受ける方がほとんどで、「占い師になりたい」という希望で学んでいる人はいなかったんじゃないでしょうか。講義こそ面白かったのですが、占い師としての心構えなんてものはまったく教えてもらえなかったのです。プロを育てると言う授業ではなかったので、また別の学校を探すことになりました。今度はもっとプロにしてもらえるような学校を。


新聞の広告で「プロを養成」という言葉に惹かれて新しい学校を見つけました。気学九星術を教えてくれる学校だったのです。実は「この講義を受ければ三ヶ月でプロになる」という甘い言葉に誘われて出向いてしまったんですね。いやいや、そんなに甘いものではないと言うことは今ならよくわかりますが(苦笑)、当時はすぐにとびつきました。
その学校長が「占い師になりたいのなら、絶対にタロットはやっておいたほうがいい。タロットの講座を開くから、興味のある人はぜひ受けなさい。」と新たにタロットの講座を開くことを提案してくれました。
もちろん、私にとっては「渡りに船」です。すぐにとびつきました。


その学校のタロット講師として私の前に立ってくれたのが、輝夜師匠でした。ちょうど10年前のお話になります。


人と人との出会いは面白いものです。
手相から始まった占いは、出会ってから10年間はずっと私にとっての特技だけでしかありませんでした。それから友達を作るための社交術でした。
人の輪には入れなかった自分が、手相によっていろんな人からお呼びがかかるようになって、戸惑いと同時に、通常以上の出会いがもたらされました。この道で極めるつもりもなく、宴会芸のようなものだったのです。


同時に自分は占いによって助けられたり、占いを頼るただの不安定なOLでした。新宿西口には夕方6時になると占い師が通りにずら~~~っと並びます。そこで出会った占い師の先生に「銀行員は天職ね」「結婚はできるわよ。大丈夫。」と励まされたり・・・。沢山の占い師さんに出会い、いつか私もこうして誰かのことを励ませるのかな、誰かの心の曇り空を少しは楽にできるのかなと思いながら占いをしてもらっていました。


当たるからといわれていろんな人が私のところに来てくれたりするうちに、いつのまにか私もいい気になってしまって、「占い師になったらいい稼ぎができるのかな( ̄ー ̄)ニヤ...」と考えていたことも確かです。占いができるってことはひとつの自慢だから、そういう俗的な気持ちも確かにしっかりありました。他の誰にもできないことをしたい、それで注目を浴びたい気持ちが私を突き動かしたのかもしれません。


タロット講師として私たちの前に立った輝夜師匠はすでにプロとして電話鑑定のお仕事を毎日精力的にこなされていました。その輝夜師匠が第一声にこうおっしゃったのですね。


「みなさんをプロにするように言われました。私はみなさんに私の知っていることを全部お伝えしようと思います。なので、皆さんは私からどんどん吸収してください。持っていけるものは持っていってください。」
それは知識だけではなく、占い師としての心構えを教えるということでした。


今まで私の受けた授業でこんなことをいきなりおっしゃった先生はいません。逆に「これは特別なことなので、授業では教えられないな。」と言って、出し惜しみをする先生もいらっしゃったくらいです。
目の前に立っている、若く、髪の毛の長い、目のきれいな先生は私と大して年齢差はないはずなのに、その話し方、授業の進め方、タロットだけではなく、気学や姓名判断まで、本当に、自分が知っていることを全部、あますことなく教えてくれるんですね。その知識量に圧倒されました。授業は一時間半だったでしょうか・・・もう詳細は覚えていないのですが、あっという間に終わってしまうし、授業だけではなくアフターも輝夜師匠を囲んでお茶をしながらいろんな話を聞かせていただきました。


「占いは人生学」ということを輝夜師匠の授業を通して初めて気がついていくのですね。それから、何よりも感動したのは、輝夜師匠は授業のとき、たとえ話に自分の話しをします。自分の生活のこと、現実の占いの仕事のこと、ご両親のこと・・・これが「え?そんなことまで告白しちゃっていいの?」というラインをかなり越えているんです。自分にとって恥ずかしかったと言う経験も包み隠さない。自分の人生を切って、私たちに真剣に伝えようとしている証でもありました。こんな情熱的な先生についていかないわけないです!


輝夜師匠の所属している電話占いの会社にいつか、同じ占い師として所属できるのかな・・・そんなことをぼんやり考えながら。でもその当時は夫と出会い、念願の結婚を果たせることになりつつあったので、占い師になるという現実的な動きはまったくなかったのですが。


それでも、私の人生のターニングポイントは輝夜師匠との出会いでした。
あの新聞広告の「三ヶ月でプロに」という甘い言葉に誘われて出かけてみましたが、人生を変える大きなきっかけになるとは夢にも思わず・・・。


現実に占いで食べているという人に指導をいただけると言うのは、すごく話しに説得力がありました。輝夜師匠のほかにもう一人、同じ電話鑑定の仕事をしている占い師の女性がタロット講座をしてくれたことがありましたが、う~~~~~~ん・・・・正直言って全然心が躍らなかった。なぜか?タロットの知識は話すものの、心の部分に話を進めないからですね。
人が生きる上で何が大切なのか、タロットを教えると言うことは、そういった部分を語ることでもあるのに、そういったことは一切言いません。自分の話も一切なし。自慢話はありましたが(^-^;。


魅力ある占い師というのは、情熱的で、精力的で、とにかく一生懸命な人であること。出会った当初から、輝夜師匠の変わらない部分です。私の中でこの部分に共鳴し、いろんなことがそのあとありましたが、師匠として温かく見守っていただきました。


私の中で「占い師には誰でもなれる」という認識がありましたが、「占い師であり続けることは本当に難しい。」という結論も出ました。あり続けるために自らを律し、自分を知ることで成長し、自分の恥ずかしい部分を敢えて掘り下げ、目に見えない部分でしっかりと根を下ろしていくことが「占いをしていないときも、占い師であり続けなさい」という輝夜師匠の教えとつながります。自己矛盾、内面の葛藤、自分の人生にある様々な問題と真剣に向き合い、一生懸命逃げずに回答を探すことが、信頼される占い師としての大事な鍛錬なのです。手相を始めたころの自分はそこまでの意識がまったくなかった。でも、「一生懸命向き合う。あきらめずにやってみる」という輝夜師匠の背中の教えは、私のそれまでの価値観を変えていくものでした。


自分が生きる道を決めたとき、誰を師とするのかは本当に重要です。
それがすべてを左右すると言っても過言ではありません。
師の志が高ければ高いほど、もちろん大変なことは山積みですが、その道にある喜びもまた、通常では味わえないものであることも確かです。


私は今、輝夜師匠の後を追うように、同じ電話鑑定の会社に所属できました。もうひとつの私の目標は、いつか誰かに、自分が輝夜師匠にしていただいたように「占い師としての魂」をあますところなく教えられるようになりたいと考えています。今の自分では力不足な部分もありますが、もしチャンスが来たときは「できません。自信がありません」と言うのではなく「頑張ります」といってそのバトンをしっかりつなげられるように。
私たちの前でまさに体を張って、占いを教えてくれた輝夜師匠の授業のことは10年たった今でも鮮やかに思い出せます。私たちを占い師にするために、この先生はこれだけ一生懸命になってくれているんだ・・・あの一生懸命な姿勢が、今でも私が苦しいときに生きるヒントになっています。占いに生きるということは、自分の人生と真剣に向き合い、苦しくても逃げないことだ・・・それが私の中で出した答えです。


いろんなきっかけが縦糸と横糸のように絡み合い、ひとつの作品に仕上がるかのように、20年近くかかってようやくプロとしてデビューできました。そこにはもちろん金銭欲や名誉欲といったものもあったのは確かです。でも・・・それだけではこの世界を戦い抜けません。自分の生きる道をここだと決めたときから、ついてまわるいろんな葛藤。それはどうしても目に見える報酬では解決できないのです。


銀行員が天職で、占い師に向いているとは一回も言われたことがありません。新宿の母には「占い師になると真剣に思うのなら、家庭は持たないほうがいい。」と言われたことも思い出します。新宿の母は知っているのですね。この道がどんなに辛く、覚悟が伴い、茨の道そのものであるのかを。本当に家庭を持たないほうがいいということではなく、本当に言いたかったのは、それだけ占い師と言うのは厳しさが伴うもので、中途半端な気持ちでやれるものではないということを、伝えたかったのではないのでしょうか。


確かに子供を抱え、家庭を持ちながらは大変ですが、私にとって子育てや家庭は鍛錬の場ですね。


その道のプロになると言うことに憧れていました。占いという場でプロになることができました。憧れを現実にしたとき、開かれるのはバラ色の扉ではないことも知りました。それでも、「ああ一生懸命やってよかったな」と思える瞬間に立ち会えたとき、占いという技術はただの技術ではなく、心をつなぐ絆になります。これからも、輝夜師匠に教えていただいたとおり、一生懸命やっていくだけです。それこそが、もっとも大切であり、もっとも難しいことなのです。
銀行には研修というものがあります。日帰りの場合もありますが、研修所で二三泊したりするものもあり、よく研修に出してもらえました。全国の地方銀行の中堅女子行員研修もありました。そこで私は何をしていたのかと言えば・・・ずっと手相占いです(^-^;。自己紹介などで「特技は手相を観る事です」と言ってしまうと、その後はだいたいその話です。同期で集まる飲み会も、支店での飲み会も、私は部屋の隅っこで占いブースを作られ「おいで~~」と呼ばれ、手相を観てあげました。研修で手相を観て仲良くなった友達が、支店に帰ってからまた私の話を広めてくれて・・・。


銀行には行内メールと言うものがあり、これは支店間での書類のやり取りを行う郵便なのですが、「手型をメールで送るからよろしく!」という電話が入り、翌日、手のコピーが行内メールで私の元に届きます。それを鑑定してまた行内メールで返してあげたりしました(本当は仕事以外の書類のやり取りに行内メールを使っちゃいけないっていうことなんですが・・・ごめんなさい!)。約束手形ではなく手型っていうのが、暗号みたいなやり取りですね。


研修で仲良くなった同期が、支店の仲間の手のコピーをとって私の元に送ってくれたり、確かに手相をみる機会だけは増えたわけです。


逆にそれで、嫌な思いも味わいました。
手型を何枚も(他の同僚も含めて五枚くらい)送りつけておきながら、こちらが返しても何のお礼もない人。こんなことはよくありました。
アマチュアだったし、お金もいただいたこともなかったけれど、それでもお礼の一言がないので、利用できるときだけされているんだな、と思うと、なんだかバカバカしくなってしまったり、占いだけで私自身を見てくれないのかなと思ったり、でも自分から占いをするって言っているんだから、占いだけでしか見てもらえないと思うのも自分勝手なのかな?とか・・・無礼な人は確かにいるものだと、占いをしてから知ることもできました。


銀行と言う大人数の出会いがある中で、とにかく回数だけは重ねてくることができました。そのうち、手を観た瞬間に、「何か」を感じ取ることができるようになって来ました。「この手のひらの言いたいこと」を感じるというか・・・。これは回数をこなしたからかもしれませんね。


私は25歳の夏、人生が大きく変わりました。
それは田舎から、東京の支店への転勤希望が通ったからです。総合職でもない限り、しがない事務職の女性が、生活の本拠地を変える異動はほとんどありえません。東京都内の支店は都内在住者の女性ばかりでしたので、ラッキーとしか言いようのない人事でした。


なぜ東京へ転勤希望を出したかと言うと、昔から書くことが好きだった私はもう一度書く勉強をしたいと思っていて、当時シナリオライターの内館牧子さんのエッセイを読んで、「よし!私もシナリオライターになって、絶対に売れてやる!」という目覚めがあったんですね。
でも仕事の拠点もないまま東京に出るなんてとてもできません。でも東京の支店に転勤できれば、私の生活は保障されるし、好きな勉強もできます。そのために異動願いを出したのです。
なので、東京に出るとき私の夢は「シナリオライターになるぞ!」だったんですね。


シナリオライターの学校は楽しく、いい仲間にも恵まれて、幸せな時間でしたが、私なんかよりもシナリオを上手に書ける人が沢山いて、それでもプロになれない人を見ていると、シナリオで食べていこうと思う気持ちは徐々に弱気になってきました・・・。それほど強い覚悟がないことを知ってしまったんです。
その上、シナリオの仲間や先生とはよく授業のあと飲みに行ったりしたのですが、そこでも手相を観てあげてたりして・・・ついには先生に「あなたはシナリオライターよりも絶対に占い師になったほうがいい!!」と言われ、そのときはかなり複雑でしたね(苦笑)。もしも今シナリオの恩師に会えて、プロの占い師になったと言ったら、先生は「やっぱりね!私は絶対そう思っていたのよ!」って笑って送り出して下さるに違いありません。当時は「え~~~私はシナリオライターになってフジテレビの玄関を通りたいんです!」って逆らっていましたけどね。


シナリオ学校は続けていましたが、私の中で占いを仕事にしようと思える転機がありました。


新宿の支店に勤めていたので、よく仕事帰りに映画を片っ端から見ました。その作品も同僚と一緒に見に行ったのです。
「ファースト・ワイフ・クラブ」


40歳を過ぎた女性三人。学生時代の親友が自殺をしたため、久しぶりに再会します。そこで身の上話をする三人は、環境こそ違うものの、夫が若い愛人を作って、自分は40を過ぎてしまい、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれていることを告白しあいます。
三人は「ファースト・ワイフ・クラブ(最初の妻の会)」を結成し、夫や愛人にあの手この手で復習を果たすという痛快コメディーなんですね。


最後、夫と愛人をぎゃふんと言わせ、女三人がそろって歌い踊るシーンは、胸が熱くなりました。当時の私は26歳。40代なんてまだまだ先の話で想像もつかない年代ですが、この女性たちのように、私が実際40代になってこんなピンチに陥って、人生行き詰ったとき、誰かが私のために駆けつけてくれるんだろうか。そして自分は、友達のピンチに駆けつけられる人間になっているんだろうか・・・って考えました。


もし、私が占いと言う技術を持っていたら・・・。
もし私が占いと言う技術を持っていたら、40歳になっても、私は占いを通して友達と関わり、力になってあげることができる。友達も、きっと私を思い出してくれるはず・・・。


映画を見終わった新宿の夜空と、歌舞伎町の人の波を見つめながら、私は初めて「占いを自分の一生かけて行う技術にする」と言うことを考えました。
「占い師になろう」・・・そう思い始めた夜だったのです。
私は占いという仕事があることを知りませんでした。自分の意思で仕事を決めることもせず、言われるままに地元の銀行に就職しました。親の想いは、娘を家から通わせること。それから大手であることだったでしょうね。田舎の就職先は、中部電力、公務員、農協、信金、銀行が「入れたら安泰」の代名詞でした。親にとって銀行はいい就職先でした。本当に笑ってしまいますが、私にとって就職なんてそんなに大きなイベントではなかったんです。いつか嫁に行くという感覚でいたので、さほど真剣ではなかった。嫁入り前の結婚資金を稼ぐ場所という認識で、親に勧められるままに試験を受けてしまったのですから。
銀行=ボーナスがっぽり。
この公式につられて入ったようなものです(爆)。
そりゃ入ったあとで、とんでもなく苦労するのは当たり前ですよね。


ここでひとつ学びが。
仕事は、時代の背景もあるかもしれないけれど、できるなら他人のお勧めを鵜呑みにするのではなく、もっと真剣に調べたりして就職すべきだった。小学生じゃないのだから。そういう意味で、私の親も過保護で、私もそれに甘えていました。
売り手市場だったのだから、真剣な目標さえあれば、きっとたいていのことは叶ったかもしれないのに。


バブル絶頂期。私の同期は200人くらいはいたんじゃないでしょうか。
数学の平均点がいつも10点で、担任に呼ばれて追試の常連だった私が、銀行員になると言ったとき、みんなから「適職だね」と言われました。
たぶん、田舎者で、まじめで垢抜けていないので、地方銀行にはぴったりのキャラクターだったのかもしれません。でも私は心の中で「でも数学は追試組ですから」とつぶやいて返していました。銀行員は数字に強くなければならないと思っていたからです。でも、計算は計算機がします。銀行員は細かく、正確な仕事をする人にはぴったりです。完璧な仕事や、ファイル仕事をするのが好きな人にもいいです。


私の銀行での10年間を語り始めると、いくら日記を書いても足りません。
でも、「適職だね」と言われた割には、私は本当に銀行でミスばっかり。「検査」というのが年に一度いきなり入るのですが、検査でひっかかるのはみんな私の担当した仕事。もう何度頭を下げてきたかわかりません。
おっちょこちょいで、よく机にぶつかる勢いで仕事をしていました。
一生懸命なんだけれど、あわてすぎてミス連発。本当に恥ずかしいのですが、そういう人間です。でも銀行はミスを最も嫌う職場です。多少遅くてもいいからミスはないほうがいい。でもできれば手も早いほうがいい。


合わないという言葉に尽きます。楽しくないのですね。
ミスをしないのが最善。お客様を怒らせないようにするのが仕事。
間違い探しをするのが仕事。


入ってから3年はついていくのがやっとで、「辞めたい」と言う想いよりも「どうしたら先輩に怒られないようになるのかな」と言うことばかり考えて動いていました。そのうち出来る仕事が増え、任されることが多くなると、責任感も出てきます。銀行の仕事は苦手だったけれど、新入生を育てる役割を任されたりするのは凄く嬉しかったですね。いわゆる、後輩に仕事を教えるのと同時に、ポテンシャルを高めてあげる、早くなじむように面倒を見てあげるヘルパーと言う役割がありますが、それをしているときはとてもやりがいを感じました。後輩の性格を早くつかみ、できるだけ私には困ったことを相談できるように気を配る・・・そういった仕事には抵抗がありませんでした。


きっと後輩からすれば、私はバタバタしている割によく怒られている先輩だったと思いますよ。親しみやすさは限りなく100%でしたね・・・。


銀行は私にとって、本当に『修行」の一文字でした。
その中で「職業観」と呼べるものが出来たとするのなら、これを挙げたいと思います。


・職場の人たちと仲良くなること。全力で職場になじむこと。
・どんなに辛い仕事でも、「これだけは支店の中で一番」と胸を張っていえるエキスパートの分野を持つこと。ひとつでもいいから精通すること。
・職場の人の悪口を言わない。


銀行じゃなくても、同じ職業観を持つかもしれませんが・・・集団生活で得たこの哲学は今も私の鑑定に大きな役割を果たしてくれます。今は在宅で同僚と呼べる人間がいません。帰りにお茶をするような付き合いもありません。それはそれで楽なんですが、私はお茶や食事やレジャーを通して、自分を応援してくれる大事な人を得ることが出来ました。その人がいつもくじけそうな私を励ましたりしてくれました。仕事だけで判断すれば、とっくの昔に辞めていたかもしれないのに、その人が私をよく支えてくれたから、私も頑張ろうと思えたし、いつか自分の存在が、誰かの支えになれたらいいなと思えました。


占いの話とは遠ざかってしまいましたね(^-^;


今の自分と当時の自分と、何が違って何が同じなのか。
違いは、人の顔色ばかり気にして、自分のしていることに自信が持てずに早く辞めたくてたまらなかったこと。逃げ腰の人生だったこと。
同じことは、「ああ、私の努力が足らない」とすぐに思うこと、かな?


私は人生の予定は23歳で結婚して、25で第一子出産、27で第二子出産・・・だったんですね。しかし、27を越えても彼氏すらおらず、思いのほか銀行に長居することになりました。銀行は寿退社が当たり前だったので、いつも月末に「今月の退職者」が通報で回るのですが、25歳くらいから同期の退職者が相次ぎ、「あ、今月もあの子が辞めた・・・」ということを繰り返し、自分がいつも取り残されて、未来が真っ暗な気持ちでいました。そんな気持ちで働いているから仕事が面白くないのか、仕事が面白いと思えないから、未来に希望を見出せないのか。


少なくとも20代の私は、本当に何時もうつむいていた記憶しかないです。


同時に、私はよく占いに足を運ぶ一人の熱心なお客でした。
私はよく名古屋に遊びに行き、名古屋駅前のビル地下にある対面占いの部屋の常連でしたね。千夜物語っていうところです。真っ暗な地下で、個別のブースがあって20分3,000円。若い先生よりも、お母さんくらいの年齢の先生によく占ってもらいました。
自分が占いに何を求めていったのか・・・
「いつ私は出会えるんですか?」
そればかりを聞いていたように思います。今思えばかなりお金をかけていたかもしれません。自分で占いをするなんて、夢にも思わず。
転勤で東京に出てきても、有名な占い師さんのところに行くのが趣味でしたね。


今にして思えば、実は何を言われたのか、全然覚えていません。
たったひとつだけくっきり刻まれている占い師のおばさんの言葉があります。


「覚えておくといいわ。恋愛関係において、男は出すもの、女は受け止めるものなの。肉体関係なんてまさにそうでしょ?女はね、男の出すものを受け止めるけど、たとえばAさんと付き合っているときはAさんからもらう。Aさんの色に染まるよね。
でもAさんと別れて次にBさんと付き合う。で、女はBさんと付き合ったとき、Bさんの色に染まるのではないの。AさんとBさんの両方の色が混じるのよ。
男は出すだけだからいいかもしれないけど、女はそうなの。だからいろんな人と付き合えば付き合うほど、その色が混じってしまって、色がぐちゃちゃになってしまうのね。結局それは子供がその色を背負うことになるの。」


当時私は二股をかけるようなこともしてないのに(二股どころか、一股だって困難だったのに)、こんな話をしてもらいました。これだけは強く心に残っています。


10年後、輝夜師匠から占いの指導を受けている最中に、これと同じ内容の理を教えていただいたとき、「あ、名古屋の占い師のおばさんが、そんなことを教えてくれたな。」って思い出しました。結びついたんですね。


長くなってしまった・・・(苦笑)。ごめんなさいね。
まだ続きます。
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
最新コメント
[01/09 雨音]
[01/08 papa]
[10/28 雨音]
[09/16 sepi]
[02/07 雨音]
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
Powered by 忍者ブログ * [PR]
* blogdesigned by Mei Fukui.