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占い師としての成長日記
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私は占いという仕事があることを知りませんでした。自分の意思で仕事を決めることもせず、言われるままに地元の銀行に就職しました。親の想いは、娘を家から通わせること。それから大手であることだったでしょうね。田舎の就職先は、中部電力、公務員、農協、信金、銀行が「入れたら安泰」の代名詞でした。親にとって銀行はいい就職先でした。本当に笑ってしまいますが、私にとって就職なんてそんなに大きなイベントではなかったんです。いつか嫁に行くという感覚でいたので、さほど真剣ではなかった。嫁入り前の結婚資金を稼ぐ場所という認識で、親に勧められるままに試験を受けてしまったのですから。
銀行=ボーナスがっぽり。
この公式につられて入ったようなものです(爆)。
そりゃ入ったあとで、とんでもなく苦労するのは当たり前ですよね。


ここでひとつ学びが。
仕事は、時代の背景もあるかもしれないけれど、できるなら他人のお勧めを鵜呑みにするのではなく、もっと真剣に調べたりして就職すべきだった。小学生じゃないのだから。そういう意味で、私の親も過保護で、私もそれに甘えていました。
売り手市場だったのだから、真剣な目標さえあれば、きっとたいていのことは叶ったかもしれないのに。


バブル絶頂期。私の同期は200人くらいはいたんじゃないでしょうか。
数学の平均点がいつも10点で、担任に呼ばれて追試の常連だった私が、銀行員になると言ったとき、みんなから「適職だね」と言われました。
たぶん、田舎者で、まじめで垢抜けていないので、地方銀行にはぴったりのキャラクターだったのかもしれません。でも私は心の中で「でも数学は追試組ですから」とつぶやいて返していました。銀行員は数字に強くなければならないと思っていたからです。でも、計算は計算機がします。銀行員は細かく、正確な仕事をする人にはぴったりです。完璧な仕事や、ファイル仕事をするのが好きな人にもいいです。


私の銀行での10年間を語り始めると、いくら日記を書いても足りません。
でも、「適職だね」と言われた割には、私は本当に銀行でミスばっかり。「検査」というのが年に一度いきなり入るのですが、検査でひっかかるのはみんな私の担当した仕事。もう何度頭を下げてきたかわかりません。
おっちょこちょいで、よく机にぶつかる勢いで仕事をしていました。
一生懸命なんだけれど、あわてすぎてミス連発。本当に恥ずかしいのですが、そういう人間です。でも銀行はミスを最も嫌う職場です。多少遅くてもいいからミスはないほうがいい。でもできれば手も早いほうがいい。


合わないという言葉に尽きます。楽しくないのですね。
ミスをしないのが最善。お客様を怒らせないようにするのが仕事。
間違い探しをするのが仕事。


入ってから3年はついていくのがやっとで、「辞めたい」と言う想いよりも「どうしたら先輩に怒られないようになるのかな」と言うことばかり考えて動いていました。そのうち出来る仕事が増え、任されることが多くなると、責任感も出てきます。銀行の仕事は苦手だったけれど、新入生を育てる役割を任されたりするのは凄く嬉しかったですね。いわゆる、後輩に仕事を教えるのと同時に、ポテンシャルを高めてあげる、早くなじむように面倒を見てあげるヘルパーと言う役割がありますが、それをしているときはとてもやりがいを感じました。後輩の性格を早くつかみ、できるだけ私には困ったことを相談できるように気を配る・・・そういった仕事には抵抗がありませんでした。


きっと後輩からすれば、私はバタバタしている割によく怒られている先輩だったと思いますよ。親しみやすさは限りなく100%でしたね・・・。


銀行は私にとって、本当に『修行」の一文字でした。
その中で「職業観」と呼べるものが出来たとするのなら、これを挙げたいと思います。


・職場の人たちと仲良くなること。全力で職場になじむこと。
・どんなに辛い仕事でも、「これだけは支店の中で一番」と胸を張っていえるエキスパートの分野を持つこと。ひとつでもいいから精通すること。
・職場の人の悪口を言わない。


銀行じゃなくても、同じ職業観を持つかもしれませんが・・・集団生活で得たこの哲学は今も私の鑑定に大きな役割を果たしてくれます。今は在宅で同僚と呼べる人間がいません。帰りにお茶をするような付き合いもありません。それはそれで楽なんですが、私はお茶や食事やレジャーを通して、自分を応援してくれる大事な人を得ることが出来ました。その人がいつもくじけそうな私を励ましたりしてくれました。仕事だけで判断すれば、とっくの昔に辞めていたかもしれないのに、その人が私をよく支えてくれたから、私も頑張ろうと思えたし、いつか自分の存在が、誰かの支えになれたらいいなと思えました。


占いの話とは遠ざかってしまいましたね(^-^;


今の自分と当時の自分と、何が違って何が同じなのか。
違いは、人の顔色ばかり気にして、自分のしていることに自信が持てずに早く辞めたくてたまらなかったこと。逃げ腰の人生だったこと。
同じことは、「ああ、私の努力が足らない」とすぐに思うこと、かな?


私は人生の予定は23歳で結婚して、25で第一子出産、27で第二子出産・・・だったんですね。しかし、27を越えても彼氏すらおらず、思いのほか銀行に長居することになりました。銀行は寿退社が当たり前だったので、いつも月末に「今月の退職者」が通報で回るのですが、25歳くらいから同期の退職者が相次ぎ、「あ、今月もあの子が辞めた・・・」ということを繰り返し、自分がいつも取り残されて、未来が真っ暗な気持ちでいました。そんな気持ちで働いているから仕事が面白くないのか、仕事が面白いと思えないから、未来に希望を見出せないのか。


少なくとも20代の私は、本当に何時もうつむいていた記憶しかないです。


同時に、私はよく占いに足を運ぶ一人の熱心なお客でした。
私はよく名古屋に遊びに行き、名古屋駅前のビル地下にある対面占いの部屋の常連でしたね。千夜物語っていうところです。真っ暗な地下で、個別のブースがあって20分3,000円。若い先生よりも、お母さんくらいの年齢の先生によく占ってもらいました。
自分が占いに何を求めていったのか・・・
「いつ私は出会えるんですか?」
そればかりを聞いていたように思います。今思えばかなりお金をかけていたかもしれません。自分で占いをするなんて、夢にも思わず。
転勤で東京に出てきても、有名な占い師さんのところに行くのが趣味でしたね。


今にして思えば、実は何を言われたのか、全然覚えていません。
たったひとつだけくっきり刻まれている占い師のおばさんの言葉があります。


「覚えておくといいわ。恋愛関係において、男は出すもの、女は受け止めるものなの。肉体関係なんてまさにそうでしょ?女はね、男の出すものを受け止めるけど、たとえばAさんと付き合っているときはAさんからもらう。Aさんの色に染まるよね。
でもAさんと別れて次にBさんと付き合う。で、女はBさんと付き合ったとき、Bさんの色に染まるのではないの。AさんとBさんの両方の色が混じるのよ。
男は出すだけだからいいかもしれないけど、女はそうなの。だからいろんな人と付き合えば付き合うほど、その色が混じってしまって、色がぐちゃちゃになってしまうのね。結局それは子供がその色を背負うことになるの。」


当時私は二股をかけるようなこともしてないのに(二股どころか、一股だって困難だったのに)、こんな話をしてもらいました。これだけは強く心に残っています。


10年後、輝夜師匠から占いの指導を受けている最中に、これと同じ内容の理を教えていただいたとき、「あ、名古屋の占い師のおばさんが、そんなことを教えてくれたな。」って思い出しました。結びついたんですね。


長くなってしまった・・・(苦笑)。ごめんなさいね。
まだ続きます。
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HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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