占い師としての成長日記
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私は結婚するまで、自分に「誰か憎いと思う人はいる?」と問いかけられたら「いない」と即答できるような、そんな人間関係の中で暮らしていました。
気の合わない人はいたけれど、嫌いだと思うことはなかったですね。
でも、結婚して、私は「人を憎む」ということを、夫や、夫の両親に対して思ってしまうようになりました。
なぜそれほどまでに憎いのか、どういう経緯があって憎しみが生まれてしまったのかを、残念ながらここに書き記すことは出来ません。もし、それをつぶさに書き上げても、それを見た人は様々に感じるでしょうし、やはり、書く内容や、すべてを書き上げることには私自身も抵抗があるからです。ひとつだけいえることは、「私は怒っている」ということだけです。
でも、一緒に暮らせばその憎悪は消えることもなく、むしろ年々私の中でその面積を増やしていくのです。
憎悪が愛しさに変換してくれません。愛しさは憎悪に変わるのに。
なぜ憎悪は憎悪のまま、長く私の中に宿っているのでしょう。どうすれば、ともすれば「どこかに消えて欲しい」と願ってしまうようなそんな心は消えてくれるのでしょうか。
これが私の中で一番の大きな大きな問題であり、今だ解決ができません。
この解決の方法を知っているのは、時間だけかもしれません。あと10年後の私はいまと同じ温度で、その憎しみを保っているのでしょうか。それどころかもっと熱く、深く、憎しみが服を着て歩いているような人間になっているのでしょうか。
今、変えなければと思うのに、なぜ変われないのかがわかりません。
それをずっとずっと自分に問いかけているのに、変わりたくない!とシャットアウトしてしまう自分がいます。夫に優しくなんてできません。
優しくしたいと思っていない自分を変えられる、他の強いきっかけがないのですね。
どうすれば、これだけ近い距離で発生した溝を、憎しみではなく、愛情に変えていけるのでしょうか。
私は別れではなく、共に暮らす選択をしました。
それなのに、これでは別れたほうがよかったんじゃないかという言動しかとれず、自分の苦しみがわかってもらえない苦しさから相手がますます嫌いになります。
どうしてこんなふうになってしまったのか。
たった一つだけ、とても大事なことがあります。
夫婦として、これだけは欠かせてしまってはならなかったもの。
「相手の気持ちになって考えてあげること」
それはつまり、相手と話し合い、相手が何を望み、何を考えているのか、そして自分も何を考えているのか、話し合ったり、いったりきたりを繰り返しながらでも、相手を思いやることです。
わかっているのに、できないもどかしさは、自分への情けなさになります。
それだけ憎しみとかうらみつらみは、私の心から思いやりを根本的に奪っていくのですね。
夫とのことで、最近は泣くことはなくなりました。
あれだけ泣いて、心が壊れちゃうんじゃないかと真剣に思い悩んだ日が嘘のように遠ざかってしまったように、今の私の激しい憎しみは、時間という積み重ねしか、回答を持たないのかもしれません。私は、今はそれに委ねようと思っています。
それでもきっと必要があって、私の身に起きていることなのだから。
気の合わない人はいたけれど、嫌いだと思うことはなかったですね。
でも、結婚して、私は「人を憎む」ということを、夫や、夫の両親に対して思ってしまうようになりました。
なぜそれほどまでに憎いのか、どういう経緯があって憎しみが生まれてしまったのかを、残念ながらここに書き記すことは出来ません。もし、それをつぶさに書き上げても、それを見た人は様々に感じるでしょうし、やはり、書く内容や、すべてを書き上げることには私自身も抵抗があるからです。ひとつだけいえることは、「私は怒っている」ということだけです。
でも、一緒に暮らせばその憎悪は消えることもなく、むしろ年々私の中でその面積を増やしていくのです。
憎悪が愛しさに変換してくれません。愛しさは憎悪に変わるのに。
なぜ憎悪は憎悪のまま、長く私の中に宿っているのでしょう。どうすれば、ともすれば「どこかに消えて欲しい」と願ってしまうようなそんな心は消えてくれるのでしょうか。
これが私の中で一番の大きな大きな問題であり、今だ解決ができません。
この解決の方法を知っているのは、時間だけかもしれません。あと10年後の私はいまと同じ温度で、その憎しみを保っているのでしょうか。それどころかもっと熱く、深く、憎しみが服を着て歩いているような人間になっているのでしょうか。
今、変えなければと思うのに、なぜ変われないのかがわかりません。
それをずっとずっと自分に問いかけているのに、変わりたくない!とシャットアウトしてしまう自分がいます。夫に優しくなんてできません。
優しくしたいと思っていない自分を変えられる、他の強いきっかけがないのですね。
どうすれば、これだけ近い距離で発生した溝を、憎しみではなく、愛情に変えていけるのでしょうか。
私は別れではなく、共に暮らす選択をしました。
それなのに、これでは別れたほうがよかったんじゃないかという言動しかとれず、自分の苦しみがわかってもらえない苦しさから相手がますます嫌いになります。
どうしてこんなふうになってしまったのか。
たった一つだけ、とても大事なことがあります。
夫婦として、これだけは欠かせてしまってはならなかったもの。
「相手の気持ちになって考えてあげること」
それはつまり、相手と話し合い、相手が何を望み、何を考えているのか、そして自分も何を考えているのか、話し合ったり、いったりきたりを繰り返しながらでも、相手を思いやることです。
わかっているのに、できないもどかしさは、自分への情けなさになります。
それだけ憎しみとかうらみつらみは、私の心から思いやりを根本的に奪っていくのですね。
夫とのことで、最近は泣くことはなくなりました。
あれだけ泣いて、心が壊れちゃうんじゃないかと真剣に思い悩んだ日が嘘のように遠ざかってしまったように、今の私の激しい憎しみは、時間という積み重ねしか、回答を持たないのかもしれません。私は、今はそれに委ねようと思っています。
それでもきっと必要があって、私の身に起きていることなのだから。
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先週金曜日、私は午後が仕事を休みだったので、金融機関巡りをしました(笑)。記帳とか、今月分の預け入れとか、いろいろが溜まっていたからです。
まず真っ先に立ち寄ったのは、給食費を引き落としている信金の通帳記入です。しばらく行っていなかったので、残高が足りなくなったら・・・という不安があり、記入してみました・・・問題なし!OK!!
通帳の残高を確認して、駐車場に出ようとロビーを横切った私に、信金の内部で事務仕事をしている女子社員の声がしました。
「ありがとうございました。」
ちょうど昼時で店内は閑散としていました。お客様は私くらいでしたので、その挨拶は明らかに出て行こうとする私に向けられたものです。
その言葉を発端にして、もう一人の女子社員の声が「ありがとうございました。」と続きました。
私は、胸がいっぱいになりました。
私は10年前、信金と同じように、地方銀行の窓口で、自動ドアが開くたびに「いらっしゃいませ」と声を出し、お客様が窓口ではなく、キャッシュコーナーだけの用事であっても「ありがとうございました」とお礼をいう毎日でした。でも私が声を出せば、他の人たちもまるでウェーブのように「ありがとうございました」と発声してくれました。そんな当時の気持ちや状況がフラッシュバックしたからです。
思い出が懐かしかったから胸がいっぱいになったというよりも、その女子社員の気持ちのいい挨拶で、なんだか「ここに来て良かったなー」とさわやかな気持ちになれちゃったんです。
そして思いました。10年間、あの銀行の窓口で何千回も発声した私の挨拶はすべてが全力のものではなかったかもしれないけれど、でもきっと誰かに「あ、気持ちいいな」って何回かは思ってもらえたものかもしれないと。
私が投げた一生懸命さは、無関係な誰かの気持ちを少しだけさわやかな気持ちにさせたこともあったかもしれない。そんな確信が、フツフツと湧いてきました。
そして一番感じたのは、自分の投げた言葉が10年後、またこうして何の関係もない誰かからブーメランのように返って、そして励まされます。我が身から投げた言葉が、何年かしてちゃんと自分の手に帰ってきます。
因果応報は、自分のしたことは自分に帰ってくるという意味ですが、これも一つの因果応報かもしれません。一生懸命、不器用ながらに銀行の仕事をこなしていた自分が発した挨拶は、きっと通り過ぎていく、見知らぬ誰かの心を動かしていたに違いない・・・そんなことを信金のロビーで教えてもらえました。
ホント、あの当時は失敗ばかりでみんなの足を引っ張っていた私ですが、声だけは大きくて元気がよかったので(演劇部の賜物?!)銀行の内部事務にいるときから自動ドアが開くたびに大声で出迎えていました。
苦しくてたまらない中でも、一生懸命取り組むことに何の無駄もありません。10年たって、あの修行時代が生きていることを痛感するばかりです。同時に、最近の私は、あのころの一生懸命さがとても愛しく感じられてなりません。
まず真っ先に立ち寄ったのは、給食費を引き落としている信金の通帳記入です。しばらく行っていなかったので、残高が足りなくなったら・・・という不安があり、記入してみました・・・問題なし!OK!!
通帳の残高を確認して、駐車場に出ようとロビーを横切った私に、信金の内部で事務仕事をしている女子社員の声がしました。
「ありがとうございました。」
ちょうど昼時で店内は閑散としていました。お客様は私くらいでしたので、その挨拶は明らかに出て行こうとする私に向けられたものです。
その言葉を発端にして、もう一人の女子社員の声が「ありがとうございました。」と続きました。
私は、胸がいっぱいになりました。
私は10年前、信金と同じように、地方銀行の窓口で、自動ドアが開くたびに「いらっしゃいませ」と声を出し、お客様が窓口ではなく、キャッシュコーナーだけの用事であっても「ありがとうございました」とお礼をいう毎日でした。でも私が声を出せば、他の人たちもまるでウェーブのように「ありがとうございました」と発声してくれました。そんな当時の気持ちや状況がフラッシュバックしたからです。
思い出が懐かしかったから胸がいっぱいになったというよりも、その女子社員の気持ちのいい挨拶で、なんだか「ここに来て良かったなー」とさわやかな気持ちになれちゃったんです。
そして思いました。10年間、あの銀行の窓口で何千回も発声した私の挨拶はすべてが全力のものではなかったかもしれないけれど、でもきっと誰かに「あ、気持ちいいな」って何回かは思ってもらえたものかもしれないと。
私が投げた一生懸命さは、無関係な誰かの気持ちを少しだけさわやかな気持ちにさせたこともあったかもしれない。そんな確信が、フツフツと湧いてきました。
そして一番感じたのは、自分の投げた言葉が10年後、またこうして何の関係もない誰かからブーメランのように返って、そして励まされます。我が身から投げた言葉が、何年かしてちゃんと自分の手に帰ってきます。
因果応報は、自分のしたことは自分に帰ってくるという意味ですが、これも一つの因果応報かもしれません。一生懸命、不器用ながらに銀行の仕事をこなしていた自分が発した挨拶は、きっと通り過ぎていく、見知らぬ誰かの心を動かしていたに違いない・・・そんなことを信金のロビーで教えてもらえました。
ホント、あの当時は失敗ばかりでみんなの足を引っ張っていた私ですが、声だけは大きくて元気がよかったので(演劇部の賜物?!)銀行の内部事務にいるときから自動ドアが開くたびに大声で出迎えていました。
苦しくてたまらない中でも、一生懸命取り組むことに何の無駄もありません。10年たって、あの修行時代が生きていることを痛感するばかりです。同時に、最近の私は、あのころの一生懸命さがとても愛しく感じられてなりません。
土日ブログを更新できませんでした。土曜日に携帯から更新しようと携帯電話を取り出したのが23時。気がつけば朝の3時になっていました(^-^;
これはいけません注意報!気を入れ替えてまた書き綴っていこうと思います。
実は、先日「なじめないのかな?」という記事の中で長男の学童での友達とのかかわりあい方に問題があったようですが、その話し合いをしたのが木曜日の夜。金曜日は学童に送り出しました。
どうだったのかな・・・と案じていたのですが、金曜日の夜、寝る前に、息子が喜々とした顔でこういいました。
「今日さ、またブロックやろうとしたら入れてもらえなかったんだけどさ、俺さぁ、思い切ってさ『だから、何だよ』って言い返したんだよ。そしたら、Aくんがさ『あ、わかった』とか言って、入れてくれたんだ。ちゃんと言えたよ。」
一夜にしてこの展開。私もびっくりです。
自分から出来事などまったく話さない息子が打ち明けてくれた「その後」の事件は、息子にとっても「自分の想いや意思を伝える」ことの大事さ、それから「案ずるより産むが易し」ではありませんが、自分も言えるんだという確認ができたのではないのでしょうか。
もちろん言い方など、まだ細かい点はありますが、相手に「あ・・・」と思ってもらったのならば、息子はちょっと一歩を踏み出せたのでしょうね。
大人になればなるほど、いろんな遠慮やしがらみで言えなくなる自分の大事な気持ち。我慢するときも必要だけれど、自分の権利が、何をしてもいないのに邪魔されるときは、きちんと言えばいいのだと学んでもらえたらな・・・って思います。
もちろん、今後は簡単に引き下がる相手ばかりじゃないでしょうけど、自分の感性、どう感じるかを大事に進め!息子!
これはいけません注意報!気を入れ替えてまた書き綴っていこうと思います。
実は、先日「なじめないのかな?」という記事の中で長男の学童での友達とのかかわりあい方に問題があったようですが、その話し合いをしたのが木曜日の夜。金曜日は学童に送り出しました。
どうだったのかな・・・と案じていたのですが、金曜日の夜、寝る前に、息子が喜々とした顔でこういいました。
「今日さ、またブロックやろうとしたら入れてもらえなかったんだけどさ、俺さぁ、思い切ってさ『だから、何だよ』って言い返したんだよ。そしたら、Aくんがさ『あ、わかった』とか言って、入れてくれたんだ。ちゃんと言えたよ。」
一夜にしてこの展開。私もびっくりです。
自分から出来事などまったく話さない息子が打ち明けてくれた「その後」の事件は、息子にとっても「自分の想いや意思を伝える」ことの大事さ、それから「案ずるより産むが易し」ではありませんが、自分も言えるんだという確認ができたのではないのでしょうか。
もちろん言い方など、まだ細かい点はありますが、相手に「あ・・・」と思ってもらったのならば、息子はちょっと一歩を踏み出せたのでしょうね。
大人になればなるほど、いろんな遠慮やしがらみで言えなくなる自分の大事な気持ち。我慢するときも必要だけれど、自分の権利が、何をしてもいないのに邪魔されるときは、きちんと言えばいいのだと学んでもらえたらな・・・って思います。
もちろん、今後は簡単に引き下がる相手ばかりじゃないでしょうけど、自分の感性、どう感じるかを大事に進め!息子!
最近、息子は学童に行きたがらなくなりました。
月曜日から金曜日まで(たまに土曜日もお願いすることがあります)毎日通っていた一年生のときは、そんなことを言わなかったのですが。
二年になってから学研に通うため、週に二日は学童を休んでいます。
私に予定があり、仕事を入れていない日は「学童、どうする?」と聞くのですが(仕事が休みでも学童は行けます)、「行きたくない」というのでそういう日はまっすぐ帰ってきます。
でもここのところ、本当に行きたくないらしいので、理由を聞き出しました。
同じ学年の子に、入れてもらえないんだ、ということでした。
息子の学校は、都の団地から通う人と、大きな高級分譲地から通ってくる人と二つに分かれている感じです。学校内でいろいろあるのは、この一年半でなんとなくわかりました。一年からこちらに転入してきた息子は、そのどちらにも属さず、昔から知っている人もいないために、周囲をよく見てから、その輪に入る感じでした。それを見てしまうと、引っ越してきたことは、私にはよかったけれど、息子や娘にとっては、ひとつしかないかけがえのない友達のつながりを断ってしまったのかな・・・という思いに駆られます。
学童は個性の強い人が集まるのか、なんとなく押され気味なのか。
学校は人数が多いから気にならないものの、学童になるとまた違う世界があるようです。
私は言いました。もしかしたら、こんな考え、ある人にとっては違和感を感じられる方がいるかもしれませんが、でも、私の考えです。
「みんなと仲良くしなさいなんて言わないよ。お母さんだって、みんなと仲良くなれるはずないんだから。入れてくれないお友達と無理にかかわらなくたっていいじゃない。それより、入れてくれる心の優しい友達をつくったほうがいいじゃない。Hが、自分のことが大好きで、お友達も大好きなら、ぜったいに一人になることはないし、今は出来なくても、いつかちゃんとできると思うよ。入れてくれなかったら、図書室で本でも読めばいいんだよ。」
息子は黙ったままでしたが、学童も四年生になるときは辞めなければなりません。あと一年半です。そういったら「うん。頑張るよ。学童行く。」
と半泣きでうなづいてくれました。
私自身が、こちらにきて、人間関係に溶け込むことがどんなに難しいことなのかは十分体感しているので、子供だってすでにできている輪に入ることがどれほど嫌なことかはもう知っているでしょう。
でも・・・もう引き返すことは出来ません。
それから、もう一緒の学校に通うことが出来なくても、息子には大事な友達が遠くにいます。友達がいるんだ、できるんだ、という確信があれば、きっと乗り越えてくれると思います。
新しい場所で暮らす、ということは、楽しさもありますが、うまく入れないというジレンマもやっぱりつきまといます。生まれたときから同じ場所に住んで、顔見知りの多い中で学校やそれぞれの活動に入れる環境の子と違って、こうして新しい場所で暮らす限りは最初の何年かは模索の中にあるのかもしれません。
月曜日から金曜日まで(たまに土曜日もお願いすることがあります)毎日通っていた一年生のときは、そんなことを言わなかったのですが。
二年になってから学研に通うため、週に二日は学童を休んでいます。
私に予定があり、仕事を入れていない日は「学童、どうする?」と聞くのですが(仕事が休みでも学童は行けます)、「行きたくない」というのでそういう日はまっすぐ帰ってきます。
でもここのところ、本当に行きたくないらしいので、理由を聞き出しました。
同じ学年の子に、入れてもらえないんだ、ということでした。
息子の学校は、都の団地から通う人と、大きな高級分譲地から通ってくる人と二つに分かれている感じです。学校内でいろいろあるのは、この一年半でなんとなくわかりました。一年からこちらに転入してきた息子は、そのどちらにも属さず、昔から知っている人もいないために、周囲をよく見てから、その輪に入る感じでした。それを見てしまうと、引っ越してきたことは、私にはよかったけれど、息子や娘にとっては、ひとつしかないかけがえのない友達のつながりを断ってしまったのかな・・・という思いに駆られます。
学童は個性の強い人が集まるのか、なんとなく押され気味なのか。
学校は人数が多いから気にならないものの、学童になるとまた違う世界があるようです。
私は言いました。もしかしたら、こんな考え、ある人にとっては違和感を感じられる方がいるかもしれませんが、でも、私の考えです。
「みんなと仲良くしなさいなんて言わないよ。お母さんだって、みんなと仲良くなれるはずないんだから。入れてくれないお友達と無理にかかわらなくたっていいじゃない。それより、入れてくれる心の優しい友達をつくったほうがいいじゃない。Hが、自分のことが大好きで、お友達も大好きなら、ぜったいに一人になることはないし、今は出来なくても、いつかちゃんとできると思うよ。入れてくれなかったら、図書室で本でも読めばいいんだよ。」
息子は黙ったままでしたが、学童も四年生になるときは辞めなければなりません。あと一年半です。そういったら「うん。頑張るよ。学童行く。」
と半泣きでうなづいてくれました。
私自身が、こちらにきて、人間関係に溶け込むことがどんなに難しいことなのかは十分体感しているので、子供だってすでにできている輪に入ることがどれほど嫌なことかはもう知っているでしょう。
でも・・・もう引き返すことは出来ません。
それから、もう一緒の学校に通うことが出来なくても、息子には大事な友達が遠くにいます。友達がいるんだ、できるんだ、という確信があれば、きっと乗り越えてくれると思います。
新しい場所で暮らす、ということは、楽しさもありますが、うまく入れないというジレンマもやっぱりつきまといます。生まれたときから同じ場所に住んで、顔見知りの多い中で学校やそれぞれの活動に入れる環境の子と違って、こうして新しい場所で暮らす限りは最初の何年かは模索の中にあるのかもしれません。
我が家は私のリクエストで神棚を作りました。
そこには天照大神様、氏神様、出雲大社様のお札を飾らせてもらいました。榊を買ってきて飾っていると「神棚!!」の存在感があります。グリーンのパワーってすごいですね。
榊を枯らしてしまって、何も飾っていないと、すごく間が抜けた感じなんですよ。
毎日お米、塩、水を取替えて手を合わせるようにしています。
と、書くのは簡単。やるのは大変。
「え?神棚にお供えするだけでしょ?」と思われるかもしれませんが、「それだけ」でも毎日やるって意外と大変なんですね。
忘れてしまったり、朝バタバタしていて「あとでやろう」と思っていたら、すっかり夜になっていたり、出かけてしまったりすると、タイミングを失ったり・・・毎日お勤めすることの大変さを知ります。
神棚に供えるのですら、こんなにとちったり忘れたりするのに、毎日腹筋10回なんて、もっと大変かもしれません・・・。
でも、できるかぎり「忘れないように」自分を正します。神棚に向かうわずかな時間すら確保できないような生活も悲しいものです。
毎日のささいなことでも、その時間を作り出すのは大変なんですね。
だからこそ、小さなことでも毎日やることにはものすごく意義があります。庭をお掃除したり、トイレをちょっと拭いたり・・・。毎日食事を作るのも大変ですよ。たまに楽をしたくなるときもありますしね。
神棚が来てから「毎日のささいな時間」すら、かけがえのない大切なものだということを感じています・・・。
そこには天照大神様、氏神様、出雲大社様のお札を飾らせてもらいました。榊を買ってきて飾っていると「神棚!!」の存在感があります。グリーンのパワーってすごいですね。
榊を枯らしてしまって、何も飾っていないと、すごく間が抜けた感じなんですよ。
毎日お米、塩、水を取替えて手を合わせるようにしています。
と、書くのは簡単。やるのは大変。
「え?神棚にお供えするだけでしょ?」と思われるかもしれませんが、「それだけ」でも毎日やるって意外と大変なんですね。
忘れてしまったり、朝バタバタしていて「あとでやろう」と思っていたら、すっかり夜になっていたり、出かけてしまったりすると、タイミングを失ったり・・・毎日お勤めすることの大変さを知ります。
神棚に供えるのですら、こんなにとちったり忘れたりするのに、毎日腹筋10回なんて、もっと大変かもしれません・・・。
でも、できるかぎり「忘れないように」自分を正します。神棚に向かうわずかな時間すら確保できないような生活も悲しいものです。
毎日のささいなことでも、その時間を作り出すのは大変なんですね。
だからこそ、小さなことでも毎日やることにはものすごく意義があります。庭をお掃除したり、トイレをちょっと拭いたり・・・。毎日食事を作るのも大変ですよ。たまに楽をしたくなるときもありますしね。
神棚が来てから「毎日のささいな時間」すら、かけがえのない大切なものだということを感じています・・・。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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