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占い師としての成長日記
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頑張って氏神様である地元の神社に通うようになって一ヶ月たちます。
時間を捻出するのが大変ですが、それでもやっぱり「行ってよかったなあ」って思うことが多いので、できる限り行くように務めています。毎日、あるいは一日おきくらいなんですけど、神社の横にある霊園管理所のおじさんにすっかり顔を覚えられて「また来てる。何者だ?」って見られていますけどね(苦笑)。あの空間に立って、お社と青い朝の空を見上げる幸せは、正直言って何物にも変えがたい、私しか知らない宝物になりつつあります。それが私の原動力になっているというか・・・ここではちっぽけな私のまま行きます。かっこつけても、きっと神様はお見通しですからね。


メッセージをいただくということはまだ実感としてないのですが、ちょっと面白い言葉がやってきました。


私はずっとずっと「お金」「地位」「肩書き」「年収」「いい生活・苦労のない生活」に価値基準を置いてきたんですね。


大学教授だとか、上場企業に務めているご主人とか、親の財産を受け継いでいる人とか・・・そういった情報にものすごく敏感だったし、そんな肩書きを一切持っていない自分たちのことを、慰めながらも卑屈に傾いていました。働かなくちゃやっていけないのがくやしいし、世の中みんなが大企業に勤めて恩恵にあずかれているわけじゃないんだって、声を大にして叫びたいくらいに、私は叫ぶことで惨めな自分を発散したかったのかもしれません。世の中が不公平な気がしていたんですね。
そんな不公平の貧の部分に足を突っ込んでしまったことで、自分はものすごくもがいて占いという道を選んだわけですが、でも行き詰る、行き詰る。


「世の中の人みんながみんな恵まれているわけじゃないんだ。」って最近呪いのように(苦笑)、自分に言い聞かせていたところがありました。
でもある日、ふと言われました。自分の中のもう一つの声に。
「そんなことまだ言ってるの?まだわからないの?」って。


これにはびっくりしました。



「そもそも、その叫びは幸せの価値基準を金銭に置き換えている考えなんだよ。世の中の人がみんな恵まれているわけじゃないんだっていうことは、あなたがお金をベースに物事を考えているからそんな基準を作っているだけじゃないの?」


そうか!と思いました。
「世の中みんながみんな善い条件で生きているわけじゃない」って大声で叫んでいたことは、実はものすごい「金銭第一主義」というか「物質至上主義」の塊の答えだったってことです。


ここまで金銭に執着しているとは・・・我ながら無意識のうちにそこから離れられなかったことが可笑しいというか、今までの自分の蓄積が浅はかにも思えてきました。
お金を否定するわけではありませんが、そんなことを基準にしていたら永久に満足を覚えることはできませんし、世の中が金持ちでなければ全員不幸という事態になってしまいます。
お金がなくても幸せを感じられるから、世の中は素敵なものなんだんだよって、そこに目を向けてご覧と言われました。


要は今まで私が幸せの基準としてきたものや目指してきたものを、見直せって言われたんですね。
でもそれは不思議と抵抗なく受け取れました。名誉第一主義というわかりやすい尺度をいつのまにか幸せの単位にしていた私から脱却を図らないとダメなんです。それが、私の課題です。


神社に参拝するようになって、こんな感じで「フッ」と言葉が来るんです。その瞬間、自分の足が止まります。「これは私の言葉じゃない」という確かな実感があります。
また一つ一つ、私を覆っていた無駄なよろいがはがれて、誰かを抱きしめても痛くないように、私の体から武装解除が始まるんですね。


そんなわけで、きっと今後も私の中の古くなった意識が剥がれ落ちていくのでしょう。その雷に打たれたような瞬間が、結構好きです(爆)。
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今日はとってもいい天気でしたね!


我が家は今、兄の子供たち三人が泊まりに来ています。三人とも小学生ですので、もう手がかかりませんね。手がかかるのは我が家の二人の子供たち・・・(苦笑)。


せっかくの快晴ですし、家にいてももったいないので、近くにある高尾山に登ることにしました。高尾山は東京の西の端に位置する山ですが、天狗伝説の残るちょっとしたパワースポットです。スピリチュアルカウンセラーの江原さんも霊能力をコントロールするため若い頃高尾山で修行したそうです。今も高尾山には修行をするコースがあって、年に何回か滝修行の企画もあるんですよ。私もいつか行って見たいと思うのですが、さすがに滝に打たれて何に気づきをするのか、何を破って行きたいのかまだ明確ではないのと、滝の寒さに耐え切れない気がして躊躇してしまいます。


こんなにいいお天気だと、予想通り、高尾山は人、人、人、の行列。
八王子に来てこんなに大勢の人を見たのは高尾山が初めてですよ(笑)。


今でこそ高尾山には京王線が走り、マイカーがどんどん入ってこれるようになったし、もうすぐ、圏央道のトンネルまで開通してしまいます。これには多くの反対の署名運動が駅でされていました。「高尾山の自然を守ろう」と書かれた署名の紙が何枚も置いてあります。
これだけの自然の宝庫を、トンネル開通によって破壊することはやはり、行き過ぎなんじゃないかと思います。高尾山はずっとずっと昔からそこに存在し、多くの人間が神の宿る山として信仰を寄せてきたわけです。
登山道も整備されていない昔は、この山で命を落とす人だっていたでしょう。でもそれでも「高尾山」という聖地に足を踏み入れ、その豊かな自然と山の持つ険しい厳しさの奥にある深い愛情のようなものを感じて、人は高尾山を信仰して来たのです。



高尾山薬王院の参道に入る前に、木の大きな門があるんですがそこに「霊気満山」って書いてあるんですよ。



ヒーラーとしては胸が震えるような言葉ですし、この文字を書いた人は、それこそ「霊気が満ちている山である」という誇らしさを持ってこの字を書いたはずです。



その山に、「時間短縮」「利便性」だけを追求したトンネルを掘って風穴を開けるのは、この山の持つ地のパワーを落としてしまうことのような気がしてなりません。もう今更計画など変わりようもないのかもしれませんが、何百年も高尾山に寄せてきた人々の思いを、この便利な世の中に生きている人のほんの10年くらいの思いつきの計画で壊していいものかどうか、私には疑問が残りました。



高尾山にはケーブルカーでのぼりました。この傾斜が31度あるんです。日本一の傾斜だそうですが、その勾配のすごさ!ケーブルカーに乗るときはぜひ座ったほうがいいかもしれません。ケーブルカーがすごい角度で傾きますので、踏ん張らないと転がり落ちます。何かにつかまらないと耐え切れませんよ!



途中で見た杉並木の素晴らしい太さ!特に「天狗杉」という天狗が座って登山客の安全を見守っているという杉は、本当にまっすぐ上を向いていて、根っこの太さ、ねじれかた、どれをとっても伝説もあながちウソではないような気がします。この杉を見ただけで、一気に充電された感じです。


頂上もすごい人でしたが、なんとかお弁当を食べることができました。
たくさん用意したはずなのに、登山をしたあとのおにぎりは格別なのか、何も残りませんでしたよ。ちょっと寒かったので、Tシャツしか着てこなかった子供たちが寒い寒いと言い出したので下山になりました。


土を踏みしめ、青い空を見上げていると「自然に任せる」って、本当はこういうことなんじゃないかなって、思えてきました。
何か困ったことや行き詰ったことがあったら、大きな自然の中に身をおいて見ることが「自然に任せる」ってことなんだと思ったんですね。


私の心はこんなに小さくて、小さくて、些細なことで苦しいと思っていたけど、でも山はいつも静かで、大きくて、いろんな顔を持って私を出迎えてくれて、訪れた人の数だけの高尾山があるんだなあと思うと、一歩一歩歩いて山頂にたどり着くことが、当たり前なんだけど、それが一番確実な真実なんだよって教えてもらった気持ちです。焦らなくても、頑張って向かっていれば必ず頂上にたどり着くし、登山って、たとえ登りの道でも、たまに下る道に入ることがありますよね?逆に下りの道でも、上り坂があったりして・・・頂上に向かう道だって常に上り坂じゃないんですよ。
そう思うと、なんだか救われた気持ちになれました。


私の性格は全然アウトドアじゃないんですが、縁あって高尾山のすぐ近くに居を構えましたので、せめて高尾山フリークにはなりたいですね。
そしていつか滝修行に・・・・・・・・・!!!!!Σ(→o←;;;


今日はあまりにも人が多くてご神気を感じる暇も時間もなかったのですが、ゆっくり時間をかけてこの山を知りたいと思います。


そして、家を出てからデジカメを置いてきたことにまた気がつき、夫婦でもめあったのでした。なので写真がなくてすみません・・・。


このずぼらで飽きっぽい私ですが、ここのところほぼ毎日、氏神様に足を運ぶようになりました。どうしてかというと、やはり仕事でいただく「重い・黒い気」というものを、未熟な私一人が抱えられるほどささいなものではないということを、実感するような鑑定が続いたからです。決定的だったのは、ある相談者様と4時間お話したときでしたが、その後もその方と2時間も再度鑑定することになりました。


私自身はもうフラフラになって、のども痛いし、頭もがんがんするし、耳が痛いので、仕事を続行するのが苦痛になってきました。本来なら、最初に提出したスケジュールどおりに鑑定に入らねばならないのでしょうけど、私は自分が壊れたくないと思う気持ちが強くて、今日の午後、自分のために、自分の休みを作りました。子供の用事でもなく、家の用事でもない、自分だけの特別な流れを作りたくて。


午前中だけ頑張って仕事をしましたが、そんな日は、なぜか仕事は活性化しておらず、待機時間を越えることなく、予定通りに仕事を終えることができました。


そしたら、息子には午後休むなどと何も告げていないのに、息子は学童に行かずに家に帰ってきてしまいました。私は温泉にでも行こう♪なんて準備をしていたものですから、息子がドアを開けて「今日は学童行きたくない」と言って帰ってきたことにびっくり。普段の日だったら、家に入れてあげることができないのですが(鑑定の邪魔になってしまうため、一切の生活音を遮断して仕事に臨んでいるからです)、そんな午後仕事休みの日で、息子を受け入れました。ドッジボール大会が控えていて、学童で毎日練習をしているようですが、チビの息子は狙われることが多かったり、顔に当てられたりして、ドッジボールに参加したくなかったようです。まあ、今日は大目に見てあげるしかないですよね(^-^;


息子は隣のお兄ちゃんと遊ぶというので、私はひとりで氏神様に参拝に向かいました。氏神様と言っても、自転車ではちょっと無理なんですね。


今日はとても暑い日でした。
真夏日だったかもしれません。日差しがとてもきつかったのですが、見上げた青空はとても色が濃くて、気持ちのよい空でした。


普段私は子供を連れて行ったり、仕事前に顔を出すので、ゆっくりと参拝ができません。なんとなく気ぜわしいんですね。でも今日はゆっくりと歩き、ゆっくりと空気を吸い、吐いて、参拝を行いました。


祀られている神様は「伊邪奈美命(いざなみのみこと)」という女の神様です。日本のさまざまな神様を産んだ国の母です。だから、なんとなく、たくましい女性とか母性愛なんていう感じが全体的にするんです。


輝夜師匠のブログでご紹介されている「諏訪神社」のご祭神は建御名方神様です。神社はご祭神によってまったく違う雰囲気をかもし出すんですね。少なくとも、この二つの神社が私の足繁く通う神社ですが、諏訪神社の建御名方神様は男っぽさを感じるんですね。やっぱり天下の奇祭「御柱」が行われるだけのたくましさを感じるというか・・・。
でも今私が通っている神社はやっぱり、雄雄しいとかそういう雰囲気ではなくて、女性っぽいです。やわらかくて、凛とした感じの空気が漂っています。
だから女であることを急に意識しますね。


今日は時間があったので、普段は行かない元宮のほうに足を伸ばしました・・・といっても元宮は、山をかなり登らないといけなくて、それが急で大変な道のりなんです。家族全員でお祓いを受けた際、登ってみたのですが、かなり大変でした。聞くところによると、あまりにも急な山道を登らないと参拝できないため、お年を召した方は参拝がかなわないことから、現在の社殿を作って移動させたそうです。


いやいや、お年を召していなくても、大変な道ですよ(笑)。


入り口にすごい大きな木があります。その根っこが素晴しいんですね。
この木に手を当てて、なんだかいろんなことを考えてみたけど、考えていること自体、ものすごくちっぽけなことのような気がしてきて、その考えに身を任せることにしました。


それがこの木です。いつもデジカメ!と思いながら忘れてしまって、今日も携帯での撮影ですので、見づらいかと思います。すみません。
根っこから上を見上げてみました。





私の毒?がどれほど減ったのかはわかりませんが、でも、私は助けを持っている自分がとても幸せですね。「どこに行けばいいのかわからない」という疑問を持っていないので、素直にここに来ることができます。


私は、ネガティブなものを受け取っても、感じても、それに負けないだけの強さ(浄化する力といえばいいんでしょうか)を持って、立ち向かいたいだけです。もちろん、的中する鑑定をしたいという気持ちもあります。
さまざまな私の欲求も、ここにくるとシンプルになります。


「ここにいる間は甘えていきなさい。この自然の前では人間の負の感情なんて何の意味もないし、何の影響も受けないのよ。」


だから風が吹いて、葉が揺れるのをみているだけで、自分が落ち着くんですね。私も、そうなったらいいのに・・・っていつも思いますよ。
誰かの力になるためには、自分が受け取らなくてはいけない、大きな荷物。その重みを毎日感じながらも、でもここに来る時間は、私の中で特別な静けさを放っています。
相談者様を通じて「恋愛相談」をする仕事ですが、私の思う「恋愛」と相談者様の「恋愛」、その背景はまったく違うし、相手も全然違うわけですから、状況が一緒ということはないですよね。


でもひとつだけ共通のものがあるとするなら「彼が一番大好き!」という一途なものであると思います。


それこそ、恋をしたら何もかもが美しく輝いて見えるし、生きる気力も湧いてきます。相手の言動に一喜一憂し、今日はこんなことを話してくれた、目が合った、誘ってもらった、二人きりになれた・・・。これほど好きになる人なんてもう二度とないんじゃないのか。彼を失いたくない、もっと一緒にいたい・・・!
言葉には恥ずかしくて出せませんが、そういうものじゃないのでしょうか?
少なくとも私はそうです。そして、そうであってほしいと思います。


恋愛が何物にも変えがたい喜びや悲しみを教えてくれるのは、「その人と一緒にいたい!」という、純粋で一途な気持ちがあるから、恋愛っていいんですよ。だから、恋の喜びや悲しみを感じられるんです。ほかの人の入り込む余地がないこと、一途に未来を夢見ること。これは若いからとか関係ないと思うんですね。若いから一途なんだってことも一概には言えないからです。


誰のために恋をするわけではない、自分のために、自分が恋をするんです。


だから、好きになった気持ちを大事にするってことは、自分を好きになることでもあるし、好きという気持ちに殉職するくらい、相手のことを愛すことができるのなら、一生のうち一回でもそんな経験ができるなら、生まれてきて、女としてこの世に生きることができて、よかったと思えるでしょう。
たとえ結果が別れであっても。


そういうのが私の恋愛観です。


鑑定をするとき、鑑定士の数だけ、恋愛感もあると思いますが、自分の恋愛観なくして、恋のご相談には応じられません。
私は不倫を推奨する鑑定士ではありませんので、正直言って、不倫のご相談を受けたときはどう捉えていいのか最初は悩みました。
「ダメ」というのは簡単ですが、その「ダメ」に手を出してしまった経緯、そしてその相手に対し、どれほどの想いを持って向かい合っているのか。その部分を掘り下げて、相手のすべてを好きだという「真剣さ」を感じられたら、その真剣さには共鳴しようと思っています。


ですが・・・彼の気持ちをカード展開した後、「じゃあこの人とは別の男性なんですけど、この男性は私のことどう思っていますか?」と別の男性のことを占ってほしいと言われるのは、女として、人間として失望を味わってしまうんです。ささいなことかもしれませんが、鑑定を真剣に行うのは本命の彼とうまく進んでほしいということを、相談者が祈っていると信じているからこそ、最善の道を探そうとするわけです。
お付き合いしている男性がいながら「他の男性と知り合うチャンスはありますか?」と質問されるのも同様です。


たったひとりの相手を愛するのだって、全身全霊をかけてもダメだってこともあるのに、他に目を奪われていたら、余計に身が入らないでしょう。自分が余所見していることは、いつか誰かに返されるのです。
真剣に好きになるということで、私は立ち止まってしまいます。


愛するということは、一体どういうことなんだろう。
人間はどうして、身を守ることばかり考えてしまうんだろう。
そんなことを鑑定を終えるたびに考えていました。


自分をまるごと信じてみることと相手を信じることは一緒ですよね。
自分のことを卑下しないことから始まる自分への信頼があれば、きっと相手を受け入れ、どんなことがあっても頑張ろうと思うでしょうし、相手も、これだけ自分のことを思ってくれている・・・という信頼が作られ、心を開いて受け入れてみるというアクションを起こしてくれんでしょうね。


いまさら恋はできませんが、だから恋というものをできる方が羨ましいです。大事にしてください。相手を、そして何より、心(ハート)が動いた自分自身を。そしてどうせ恋をするのなら、一途に頑張り抜くものを作っていただきたい、余所見なんかしないで集中しようよと、見守る立場の私はそう思わずにはいられません。








黒いものを思い切りぶつけられた!という感覚があった日から、神社に通うようになりました。毎日はちょっと難しいかな?という距離なのですが、できるだけ仕事前に出かけるようにしています。渋滞にかならず巻き込まれてしまうので、仕事に間に合わない!とヒヤヒヤしながらの参拝なんですが、朝の気持ちよい日差しを浴びながらの参拝をしたあとは、どこからかさっぱり感が沸いてきて、元気を取り戻して帰ることができています。


今後、このブログでできるだけ参拝のことなどを書いていこうと思っています。


週末には実家に帰省したのですが、そのときは産土様である近所の諏訪神社に参拝できました。いつも学校帰りに遊んでいた神社だし、七五三、入学時のお祓い、初詣・・・いろんな機会に訪れていた神社ですが、そのときの私は「産土様(自分が生まれた土地を司っている氏神様)」なんて言葉も知らず、近所の神社だという認識しかもっていなかったんですが、神様の力を必要とする時間がやってくるとは夢にも思っていなかった私が、今こうして時を経て、意味を理解してこの場に参拝してきていることがものすごく不思議でした。


「なぜ自分は神社に行くのか」
いつも、参拝のときこの疑問がぐるぐる頭を回っています。
未熟な私は、とにかく強くなりたくて、相談者のブラックな直球にぶつかっても一人で立ち直り、それを周囲にばら撒く前に消化したくて、「浄化」を求めてきている、というのが一番の理由なんですが、でも、神様の前に立つとそんな理由がぶっ飛んでしまって、何をお祈りしたらいいのかわからなくなるときもあります。


まだ意味を探している途中、答えが見つからないけど、とりあえず参拝に行っている・・・といえばいいのでしょうか。


だから、私の中で大きな扉がまだ開いていないんですよ。
それより前に、自分の部屋の中が片付いていなくて、その扉の前にもたどり着けない感じ。抽象的で申し訳ないのですが。


もっとゆっくり参拝に時間を当てたいなと思いますが、あまりにも時間に追われていると、神様のメッセージを感じられないんだと思います。
子供を連れて行くと、「ママ、うんち~」とか祈りの最中に言われるので、連れて行きたいけど、複雑なんですね(苦笑)。


ブログで参拝日記をUPしていこうと思います。


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HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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