占い師としての成長日記
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先週木曜日の夜、私の母方の祖母が87歳でこの世を去りました。
ちょっと長くなってしまいますが、祖母のお見送りのことを記載させていただきますね。
祖母逝去の連絡を受けたのは金曜日の朝。お通夜と告別式参列のため、週末は実家に戻っていました。
2/4のブログで、祖母のお見舞いに行ったことを記載していましたが、それから二週間ほどのことでした。逝去の二日前、実家の母と連絡をした際、「あのお見舞いのあとおばあちゃんはぜんぜん反応が無くなってしまった。もう長くはないと思うから、覚悟している。」という言葉を聞いていて、あのお見舞いに行った日はたまたま調子がよかったんでしょうね。その後は一向に回復せず、毎日お見舞いに出かけていた母も、だんだんと別れの時を予感していたのでしょう。ただ私のほうは、2/28に父方の祖父母の13回忌が実家であるため、またその日に祖母のお見舞いに行こうとは考えていたのです。
しかし、その再会予定の日を待たずに祖母は旅立っていきました。
私は、奇しくも息子の学級閉鎖があったために、予定外で2/4に実家に行くことができました。私はお仕事をしていますし、それとは別にどうしても出かける予定が入っていたため、学級閉鎖をされて息子の預かり先がないので、子供二人を実家で4日間預かってもらうようお願いしました。ちょうど母も時間が空いていたし、正月に遊びに行かなかったから大丈夫だよと受け入れてくれました。もしこのとき、この学級閉鎖がなかったら、私は祖母を見舞うことができず、後悔を残して最後のお別れに参列することになったでしょう。
最後に見た祖母は、私の言葉にうなづき、私を見て笑ってくれた・・・。聞こえる、とうなづいてくれた。
あの後、反応がまったくなくなってしまったということなので、本当に私は幸いだったのかもしれませんね・・・。私が最後に見た祖母は体こそ動けなくなっていたものの、耳も目も頭もちゃんと反応していたのですから。
自宅に戻り、化粧された祖母はとてもきれいでした。
穏やかな顔で、今にも起きてきそうです。でも点滴だけで栄養を補給していたので、ふっくらとしていた祖母の顔からはずいぶん痩せてしまったんですね。
それでも、いろんな管につながれていた病院から、自宅に戻りようやくあらゆる管から開放され、穏やかに眠っている姿に「おばあちゃん。長い間ありがとう。本当にお疲れ様でした。ようやくおじいちゃんに会えるね。」と声をかけさせてもらいました。
7年前に亡くなった祖父は脳梗塞で、祖母が自宅で介護していました。二人には二男二女の四人の子供がいます。私の母は二女です。祖父母はずっと長男である叔父家族と同居していますが、代々続く大きな家で、昔でいうところの庄屋のような家だったそうです。祖父は現役時代、とにかく地区の役員をいくつもをこなしていて、家には感謝状がずらっと並んでいた記憶があります。今の叔父の代で17代目くらいだそうです。ちなみに両親を初代として十代遡るとなんと1,024人ものご先祖がいることになるのだそうですから、17代目ともなると母方だけで2000人近いご先祖様がいらっしゃるんですね!
母が言うには、そんなに長く続いている家系なのだけど女系らしくて、何度か養子を迎えているらしいです。そういえば、跡継ぎである叔父の子供は女三姉妹です。
四人の子供たちはみな今も元気で、そして全員が祖父母のそばに居を構えています。そのおかげで、祖母の介護も母や伯母、それから叔父の奥さんが中心になって行っていました。
母は言いました。「もう十分にやってあげたと思うから、私は後悔はないのよ。」
そんな四人の子供から生まれた孫は9人。そして今、ひ孫は13人です。
祖父母の家は養蚕をしていた家なんです。
お蚕様のあの桑の葉を食べる音、動く音・・・お蚕様のお部屋に入ると、おびただしい数のお蚕様が飼われていて、なんでおばあちゃんのお家は得体の知れないこんな虫をたくさん飼っているんだろう?と不思議でした。
そして広くていくらでも遊び場になる大きなお屋敷にお庭。祖父母の部屋の座布団のにおいと、お蚕様の部屋のにおい・・・今でも思い出せます。
祖母は大きな家を守りつつ、いつもしゃんとしていた、筋の通った肝っ玉母さん・・・そんな姿勢の人でした。87才・・・天寿を全うしたことになりますよね。子供たち全員に見送られて、その場にいるみんなが祖母の死を悼みながらも、でも尊敬し、感謝し、「おばあちゃん、本当にありがとう。」と心から送り出せた儀式でした。
お通夜が終わり、みんなでお酒を飲み交わしながら、親族だけの席になりました。そこで昔のアルバムが登場し、親族たちがおばあちゃんの思い出を語りながら、同時に「どの孫が一番迷惑をかけたのか」ということで話が異常なほどに盛り上がり(笑)、この家に遊びに来たとき何枚ガラスを割ったとか、おじいちゃんがにわとりを目の前で絞めて、それをカレーにしたけれど、目の前でにわとりを殺されたショックでカレーが食べられなかったこととか、おばあちゃんに叱られた話、それからおじいちゃんとの写真を見ながら、誰に似ているとか・・・。東京育ちのわが夫はこの異常なまでのにぎやかな盛り上がりのお通夜にびっくりし、「もっとしんみりするものじゃないの?」と不思議がっていました。
祖母が19歳で結婚したときの写真が出てきました。セピア色の花嫁衣裳の写真。おそらく昭和15年くらいでしょう。そのあまりの美しさに、一同は感動しました。またその目元が内孫である叔父の次女にそっくりでしたし、
目元がぱっちりしているのはわが母と同じです。昔、祖母が母に向かって、「わが子ながら美人だ。」と誉めていたこともありましたが、母の美人は、祖母譲りだったんですね(残念ながら私は母方にはまったく似ておりません。ああ、似てみたかったパッチリ二重まぶた・・・)。
孫もひ孫も叔父伯母たちも、みんなで思い出話に大笑いしたり、祖父や祖母のことを語って、飲んで・・・。
母なんかは「そんなに騒いだらおばあちゃんがうるさいって棺から起き上がってくるよ!」と言いながらも、みんなの幼いころの話に花が咲きました。にぎやかに、そして温かく、祖母を囲んで思い出を偲びました。
そのお通夜の席で、私の兄が「俺は小さいころ遊びに来るたびガラスをいっぱい割っておばあちゃんに迷惑をかけたから、今夜はおばあちゃんの横に寝る。」といって、その夜棺に添い寝をして泊まったんですね。祖母は大きなお座敷の奥で、祭壇の前で棺に入っている状態です。普通の家の何倍も大きいので、お座敷に寝るといっても、慣れないと寂しさや怖さを感じる場所なのです。
兄いわく、子供時代にこの家のガラスを三枚くらい割ったそうなのです。自分はやんちゃでこの家に遊びに来るたび、いたずらをしておばあちゃんに怒られたと。でも本当のところはきっと、明朝骨になってしまう祖母に最後の夜を、こんな広いお座敷でひとりぼっちで眠らせるんじゃなくて、孫である自分が朝まで寄り添おうという気持ちだったんでしょうね。
こんなさりげない優しさを誰に言われなくても持っているのが私の兄。ああ、やっぱりこの兄には敵わないと思いました。孫は9人もいるし、内孫だってこの家で寝ているのに、結局お座敷で祖母に添い寝してあげたのは兄だけです。私は現実に子供の世話があるので泊まれないと言う事もあるけれど、思いつくという気持ちがあるとないとでは全然違うものですね。
そんな兄はもちろんアラフォー世代になってもなお、父方母方どちらの親戚でも、ムードメーカーで人気者です(⌒-⌒)。兄はお見舞いできずに祖母を見送ることになったので、それも寄り添いたい気持ちに拍車をかけていたのでしょう。
今回のお葬式は神式でした。特にこの地域は神式で行われる風習があるらしいです。
実はお通夜も通夜祭と言うらしいです。告別式は葬場祭、神葬祭とも呼ばれます。そして四十九日は五十日祭と呼ばれます。不祝儀袋は「御霊前」です。「ご香典」は仏式なんですね。それから一番戸惑うのは、お坊さんではなく地区の神主さん(斎主さん)が葬儀を行うことと、焼香がなく、玉串奉奠(たまぐしほうてん)を行うこと。その際、神社の参拝と同じように、二礼二拍手一礼を行いますが、この二拍手は音を立てないで行うことになっています(しのび手と言います)。仏式のお葬式ではないので、参列者が「え?焼香がない?!」と祭壇前で戸惑う姿が多く見受けられました。
仏式の葬儀と神式の葬儀で大きく違う点を調べてみました。仏教が即成仏を祈るのに対し、神式は故人の霊が家の守護神・氏神として祭られる点にあるそうです。また、仏教の場合寺院でも葬儀が行えるのに対し神式の場合「死は忌み嫌うもの」として神社での葬儀は行えず、戒名もないといったことも、大きな違いです。
何よりもびっくりしたのは、祖母の斎主を務めた地元の神主さんは94歳!
今も現役で、地域の活動や神式の催し物があると、出かけていって働いているんですね。87歳の祖母を見送ってくれたのは94歳の現役神主さん。でも見た目は60歳といっても通用するくらいに若々しいのです。自分より若い年齢の方の葬儀を、この神主さんはどんな想いで見送っていくのでしょうか・・・。
無事に告別式が終わりました。祖母の死は確かに悲しいものだったけれど、だけど祖母が残してくれた思い出という財産の中で私たちは祖母を感じることもできるし、これから子供たちに、祖母が教えてくれたことを伝えていくことができます。思い出の中の祖母はいつも働いていて、厳しいけれど、いつも温かいまなざしで私たちを出迎えてくれた人です。あんなふうに私も年老いていけたらいいな・・・祖父に寄り添い、身体が動くうちはいつも働き、子供たちが何を言わなくても自然に集まってくるような、生前の祖母のように。
さよなら、おばあちゃん。
私の母を生んでくれてありがとう。母は結婚してこちらの家で性格のきつい姑と舅に囲まれて、大変だったと思うけれど、きっとおばあちゃんの顔を見るために実家に足を運ぶときが一番ほっとする時間だったんだと、今ならよくわかります。おばあちゃんが一生涯通じて持っていたシャキンとした強さが、私には遺伝しているかな?
これからはおじいちゃんと二人で、私たちを見守っていてください。
(今日の日記は大変長くなってしまいましたが、まだお葬式を通して感じたことがありますので、またそれは別の日にこちらに記載させていただきますね。)
ちょっと長くなってしまいますが、祖母のお見送りのことを記載させていただきますね。
祖母逝去の連絡を受けたのは金曜日の朝。お通夜と告別式参列のため、週末は実家に戻っていました。
2/4のブログで、祖母のお見舞いに行ったことを記載していましたが、それから二週間ほどのことでした。逝去の二日前、実家の母と連絡をした際、「あのお見舞いのあとおばあちゃんはぜんぜん反応が無くなってしまった。もう長くはないと思うから、覚悟している。」という言葉を聞いていて、あのお見舞いに行った日はたまたま調子がよかったんでしょうね。その後は一向に回復せず、毎日お見舞いに出かけていた母も、だんだんと別れの時を予感していたのでしょう。ただ私のほうは、2/28に父方の祖父母の13回忌が実家であるため、またその日に祖母のお見舞いに行こうとは考えていたのです。
しかし、その再会予定の日を待たずに祖母は旅立っていきました。
私は、奇しくも息子の学級閉鎖があったために、予定外で2/4に実家に行くことができました。私はお仕事をしていますし、それとは別にどうしても出かける予定が入っていたため、学級閉鎖をされて息子の預かり先がないので、子供二人を実家で4日間預かってもらうようお願いしました。ちょうど母も時間が空いていたし、正月に遊びに行かなかったから大丈夫だよと受け入れてくれました。もしこのとき、この学級閉鎖がなかったら、私は祖母を見舞うことができず、後悔を残して最後のお別れに参列することになったでしょう。
最後に見た祖母は、私の言葉にうなづき、私を見て笑ってくれた・・・。聞こえる、とうなづいてくれた。
あの後、反応がまったくなくなってしまったということなので、本当に私は幸いだったのかもしれませんね・・・。私が最後に見た祖母は体こそ動けなくなっていたものの、耳も目も頭もちゃんと反応していたのですから。
自宅に戻り、化粧された祖母はとてもきれいでした。
穏やかな顔で、今にも起きてきそうです。でも点滴だけで栄養を補給していたので、ふっくらとしていた祖母の顔からはずいぶん痩せてしまったんですね。
それでも、いろんな管につながれていた病院から、自宅に戻りようやくあらゆる管から開放され、穏やかに眠っている姿に「おばあちゃん。長い間ありがとう。本当にお疲れ様でした。ようやくおじいちゃんに会えるね。」と声をかけさせてもらいました。
7年前に亡くなった祖父は脳梗塞で、祖母が自宅で介護していました。二人には二男二女の四人の子供がいます。私の母は二女です。祖父母はずっと長男である叔父家族と同居していますが、代々続く大きな家で、昔でいうところの庄屋のような家だったそうです。祖父は現役時代、とにかく地区の役員をいくつもをこなしていて、家には感謝状がずらっと並んでいた記憶があります。今の叔父の代で17代目くらいだそうです。ちなみに両親を初代として十代遡るとなんと1,024人ものご先祖がいることになるのだそうですから、17代目ともなると母方だけで2000人近いご先祖様がいらっしゃるんですね!
母が言うには、そんなに長く続いている家系なのだけど女系らしくて、何度か養子を迎えているらしいです。そういえば、跡継ぎである叔父の子供は女三姉妹です。
四人の子供たちはみな今も元気で、そして全員が祖父母のそばに居を構えています。そのおかげで、祖母の介護も母や伯母、それから叔父の奥さんが中心になって行っていました。
母は言いました。「もう十分にやってあげたと思うから、私は後悔はないのよ。」
そんな四人の子供から生まれた孫は9人。そして今、ひ孫は13人です。
祖父母の家は養蚕をしていた家なんです。
お蚕様のあの桑の葉を食べる音、動く音・・・お蚕様のお部屋に入ると、おびただしい数のお蚕様が飼われていて、なんでおばあちゃんのお家は得体の知れないこんな虫をたくさん飼っているんだろう?と不思議でした。
そして広くていくらでも遊び場になる大きなお屋敷にお庭。祖父母の部屋の座布団のにおいと、お蚕様の部屋のにおい・・・今でも思い出せます。
祖母は大きな家を守りつつ、いつもしゃんとしていた、筋の通った肝っ玉母さん・・・そんな姿勢の人でした。87才・・・天寿を全うしたことになりますよね。子供たち全員に見送られて、その場にいるみんなが祖母の死を悼みながらも、でも尊敬し、感謝し、「おばあちゃん、本当にありがとう。」と心から送り出せた儀式でした。
お通夜が終わり、みんなでお酒を飲み交わしながら、親族だけの席になりました。そこで昔のアルバムが登場し、親族たちがおばあちゃんの思い出を語りながら、同時に「どの孫が一番迷惑をかけたのか」ということで話が異常なほどに盛り上がり(笑)、この家に遊びに来たとき何枚ガラスを割ったとか、おじいちゃんがにわとりを目の前で絞めて、それをカレーにしたけれど、目の前でにわとりを殺されたショックでカレーが食べられなかったこととか、おばあちゃんに叱られた話、それからおじいちゃんとの写真を見ながら、誰に似ているとか・・・。東京育ちのわが夫はこの異常なまでのにぎやかな盛り上がりのお通夜にびっくりし、「もっとしんみりするものじゃないの?」と不思議がっていました。
祖母が19歳で結婚したときの写真が出てきました。セピア色の花嫁衣裳の写真。おそらく昭和15年くらいでしょう。そのあまりの美しさに、一同は感動しました。またその目元が内孫である叔父の次女にそっくりでしたし、
目元がぱっちりしているのはわが母と同じです。昔、祖母が母に向かって、「わが子ながら美人だ。」と誉めていたこともありましたが、母の美人は、祖母譲りだったんですね(残念ながら私は母方にはまったく似ておりません。ああ、似てみたかったパッチリ二重まぶた・・・)。
孫もひ孫も叔父伯母たちも、みんなで思い出話に大笑いしたり、祖父や祖母のことを語って、飲んで・・・。
母なんかは「そんなに騒いだらおばあちゃんがうるさいって棺から起き上がってくるよ!」と言いながらも、みんなの幼いころの話に花が咲きました。にぎやかに、そして温かく、祖母を囲んで思い出を偲びました。
そのお通夜の席で、私の兄が「俺は小さいころ遊びに来るたびガラスをいっぱい割っておばあちゃんに迷惑をかけたから、今夜はおばあちゃんの横に寝る。」といって、その夜棺に添い寝をして泊まったんですね。祖母は大きなお座敷の奥で、祭壇の前で棺に入っている状態です。普通の家の何倍も大きいので、お座敷に寝るといっても、慣れないと寂しさや怖さを感じる場所なのです。
兄いわく、子供時代にこの家のガラスを三枚くらい割ったそうなのです。自分はやんちゃでこの家に遊びに来るたび、いたずらをしておばあちゃんに怒られたと。でも本当のところはきっと、明朝骨になってしまう祖母に最後の夜を、こんな広いお座敷でひとりぼっちで眠らせるんじゃなくて、孫である自分が朝まで寄り添おうという気持ちだったんでしょうね。
こんなさりげない優しさを誰に言われなくても持っているのが私の兄。ああ、やっぱりこの兄には敵わないと思いました。孫は9人もいるし、内孫だってこの家で寝ているのに、結局お座敷で祖母に添い寝してあげたのは兄だけです。私は現実に子供の世話があるので泊まれないと言う事もあるけれど、思いつくという気持ちがあるとないとでは全然違うものですね。
そんな兄はもちろんアラフォー世代になってもなお、父方母方どちらの親戚でも、ムードメーカーで人気者です(⌒-⌒)。兄はお見舞いできずに祖母を見送ることになったので、それも寄り添いたい気持ちに拍車をかけていたのでしょう。
今回のお葬式は神式でした。特にこの地域は神式で行われる風習があるらしいです。
実はお通夜も通夜祭と言うらしいです。告別式は葬場祭、神葬祭とも呼ばれます。そして四十九日は五十日祭と呼ばれます。不祝儀袋は「御霊前」です。「ご香典」は仏式なんですね。それから一番戸惑うのは、お坊さんではなく地区の神主さん(斎主さん)が葬儀を行うことと、焼香がなく、玉串奉奠(たまぐしほうてん)を行うこと。その際、神社の参拝と同じように、二礼二拍手一礼を行いますが、この二拍手は音を立てないで行うことになっています(しのび手と言います)。仏式のお葬式ではないので、参列者が「え?焼香がない?!」と祭壇前で戸惑う姿が多く見受けられました。
仏式の葬儀と神式の葬儀で大きく違う点を調べてみました。仏教が即成仏を祈るのに対し、神式は故人の霊が家の守護神・氏神として祭られる点にあるそうです。また、仏教の場合寺院でも葬儀が行えるのに対し神式の場合「死は忌み嫌うもの」として神社での葬儀は行えず、戒名もないといったことも、大きな違いです。
何よりもびっくりしたのは、祖母の斎主を務めた地元の神主さんは94歳!
今も現役で、地域の活動や神式の催し物があると、出かけていって働いているんですね。87歳の祖母を見送ってくれたのは94歳の現役神主さん。でも見た目は60歳といっても通用するくらいに若々しいのです。自分より若い年齢の方の葬儀を、この神主さんはどんな想いで見送っていくのでしょうか・・・。
無事に告別式が終わりました。祖母の死は確かに悲しいものだったけれど、だけど祖母が残してくれた思い出という財産の中で私たちは祖母を感じることもできるし、これから子供たちに、祖母が教えてくれたことを伝えていくことができます。思い出の中の祖母はいつも働いていて、厳しいけれど、いつも温かいまなざしで私たちを出迎えてくれた人です。あんなふうに私も年老いていけたらいいな・・・祖父に寄り添い、身体が動くうちはいつも働き、子供たちが何を言わなくても自然に集まってくるような、生前の祖母のように。
さよなら、おばあちゃん。
私の母を生んでくれてありがとう。母は結婚してこちらの家で性格のきつい姑と舅に囲まれて、大変だったと思うけれど、きっとおばあちゃんの顔を見るために実家に足を運ぶときが一番ほっとする時間だったんだと、今ならよくわかります。おばあちゃんが一生涯通じて持っていたシャキンとした強さが、私には遺伝しているかな?
これからはおじいちゃんと二人で、私たちを見守っていてください。
(今日の日記は大変長くなってしまいましたが、まだお葬式を通して感じたことがありますので、またそれは別の日にこちらに記載させていただきますね。)
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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