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占い師としての成長日記
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私たちは時に他人や、あらゆる出来事に共鳴するということがあります。共鳴とは、共に鳴く、つまり、出来事に呼応し、よき変化が生じるということです。


それとは反対に、違和感を覚える、ということも同じように起きます。


この事件?(でもないですが)は、もうかなり前のことでしたので、書くほどのことでもないと思ったのですが、ただ、日々がたつにつれて、自分の中で違和感である、というはっきりとした感覚が芽生え、その違和感は一体どこから来るのだろうと考えたら、自分を信じているからこそ、違和感が生じているのだと気がつくことが出来ました。


違和感を感じるということは、共鳴することよりも、もっと劇的に自分の考え方や方向性を見つめなおすいいきっかけを与えてくれているんですね。自分のセンサーの感度が良好か、否か、そういうことをです。


きっかけは息子の父母会の用事で学校に出かけたときです。同じクラスのお母さんと席がとなりになり、お話をする機会に恵まれました。そのお子さんも男の子で始めてのお子さんですから、たぶん、そのお母さんと私も、息子のことを愛し、心配でたまらないながらも小学校に送り出しているんでしょうね。


私の息子は、その息子さん(Aくん)と遊びたいからおうちに来て欲しい、ということを家で話してくれたことがあったので、せっかくの機会だから、Aくんのお母さんと席が同じくなったのですから、「ぜひいらしてくださいね」とお話しました。


Aくんのお母さんはにこやかに笑っていましたが、その次にこんなことを耳打ちしました。


「あの~~B君って知っていますか?H君(うちの息子の名前)と学童で仲がいいんですよね?」
B君の名前をあげていただいたのですが、私は始めてその名前を聞いたので「いえ、初めて知りました。」とお答えしました。学童で一緒のようですが、クラスは違う男の子らしいのです。
「実は・・・ここだけの話なんですが、B君って乱暴なんですよ。だから
H君がB君と仲がよくて、うちの子にB君の話ばかりするっていうものですから、うちの子も、H君とB君は仲間だと思っちゃってて、Hくんのことがちょっと怖いみたいなんですね。うちの子、気が弱いから。」


私は、息子が乱暴で有名?なBくんとつるんでいるということよりも、それをいきなり告白されたことに驚きを隠せなかったんです。
これが私の中で「違和感」として黒い小さな塊になって落とされました。


それはどういうつもりで発言されたのかはわからないけど、「気をつけたほうがいいのよ」ととるべきなのか、「あなたの息子さんは、問題児とつるむような素質を持っている」と指摘されたのか、でも、私だったら・・・と考えます。


私がA君のお母さんの立場で、たとえB君に手荒なまねをされたとしても、親しくなってもいない同じ立場の母親に、それを伝えはしません。
親は、子供の世界にすべて立ち入れるわけではないし、ましてや、目の前で痛めつけられるのを見たわけでもないし、子供が怪我を負って帰ってきたわけではないのですから。
そういったトラブルが現実に起きて、B君に対して「危険人物」だと思える事件が立て続けに起きているなら話すかもしれませんが、入学してまだ間もない不安定な時期に「乱暴な子」と結論を出すのは、いささか感情的になっているとしか思えないのですね。


せっかく仲良く出来ると思って、同じ長男をもつもの同士として楽しく語りたかったのに、これは興醒めです。もっとひねくれた見かたをするなら
「あなたの息子さんは乱暴なB君と仲良しだから、うちの子に近づかないで頂戴」と訳すことも出来ます。まあ、そこまでは考えませんでした。
だって、もう十分、この方の人間性がわかりますから、エスカレートしていく必要なんてないんですね。ここで舞台を降りたほうがいいのです。


B君が乱暴であろうと、うちの息子の心を信じていけばいいんだ。
息子の選ぶ世界に、見もしない私がケチをつけてはいけないんだ。
どう自分を振り返っても、私には息子の選ぶものに不安な要素が見当たらないし、息子の言動や、積み重ねてきた感性を信じれば、決してそのお母さんの心配するようなことはないと思えました。むしろここで動揺したら、息子の人格が疑われます。


ただし家に帰ってこっそり息子に「学童で誰と仲良しになったの?」と聞いたら、息子の口からB君の名前が挙がりました。


そんな事件が起きてまた時間がたち、たまたま帰り道に、お母さんと一緒に学童から帰るB君と一緒になることがありました。B君のお母さんに「いつも一緒に遊んでるって話してくれたんですよ。よろしくお願いしますね。うちの子、勢いがありすぎるんでなにかあったら言って下さいね。」とご挨拶したら、B君のお母さんは「こちらこそ!」といい、B君に「B!学童でHくんわるさしてでしょうね?」と聞くと、その質問を向けられたB君は「Hにはわるいことしてないよ」と答えました。
「Hには」ってことはうちの子にはしてなくても、他の子にはしてるんかい?!と私は心の中でビミョ~~な突っ込みをいれつつ(笑)、でもBくんが笑顔で息子に「な!!」と目を向けたので、B君とうちの息子は、やられたりやりかえされたりの泥沼の関係でもなく、普通に遊んでいることがわかりましたので、安心しました。たまに先に息子が帰るときにB君と会えば、B君は息子に「バイバイ」と言って手を振ります。
それで十分なんじゃないでしょうか。


子供は大人よりももっと自分の感覚で友達と付き合っているはずです。損得もない、ただ「こいつといると楽しい」という感覚だけを頼りに。
大人は情報でおつきあいするところがあります。でも子供に情報は意味がないのです。その子の持つ感受性や、生きるパワーの方向性が似ているものが互いに係わり合いを持とうとするのです。
だから、私も正直言ってそんなことを聞かされて、Bくんとつるむ息子のことが心配になりました。でも、「やられたらどうしよう」と言う心配をしている自分に、自分で笑えました。
これこそ、親のエゴなんだってことです。
親はどうして、子供のことを「やった、やられた」ですぐとらえようとするんでしょう。やられたらどうしようと思っている親の子供に限って、実は乱暴だったりすることだってあるかもしれません。
真実は子供の世界にあるんです。
もちろん、わざと怪我を負わせたり、何度も痛めつけるのは論外ですよ。
でもね、子供の世界のことをもっと広い目で見なくては、つい被害者意識丸出しにするのは、ただの親のエゴとしか言いようがないのです。
子供を信じると言うことは、親が自分の支配下から、子供を外の世界に出してあげることじゃないのでしょうか?
私もどこかでAくんのお母さんがもらした情報に振り回されようとしていました。違和感を感じながらも、でもどこかで息子のことを丸ごと信じていなかったんですね。でも、そんなつまらない疑惑なんて捨てちゃえばいいと、日々、私の中でその答えが大きくなっていきました。


親の価値観は多々あります。親が無償の愛で子供を愛している感情もよくわかります。どんな親もそうでしょう。
傷つけられたことを責めるのは簡単です。子供がやられたことを言いたくもなる気持ちもわかります。許せないことですよね。
でも、その気持ちと同じくらい、わが子の耐え抜く力や、子供が人と交わろうとしている力を信じてあげなくてはと思います。


親がブロックをかけてしまったら、成長はそこで終わるんじゃないでしょうか。私は、完璧な親ではないけど、「これをしていい、いけない」という判断を自分でちゃんと持っていると確信があるからこそ、息子の交友関係を信じるのです。自分の感覚にずれがあるなら、自信どころではないかもしれないけど、親の「これは違う」というセンサーがきちんと働いているなら、子供にもちゃんと伝わるものなのです。


子供の世界に口出しはできないからこそ、もう母親としてできることは限られます。自分の善悪や美醜の基になっている感覚を、他人の意見に負けずに、これからも生活の中でその基準を守っていくことです。信念というべきかな。骨というべきか。自分の判断力ともいうべきか・・・。


いろんな意見があると思いますが、子供を信じるというより、自分の感覚をもっと信じなさいということなのでしょうね。子育ての悩みは意外と解決はシンプルなのものかもしれません。母親の生き方が子供に投影されるだけなのだから、人間として恥ずかしくない生き方を追求すればいいんです。


少なくとも「乱暴な子」だと聞いて、警戒するのはもう止めてみます。その奥にある、もっと違うものを子供が気づいているのかもしれませんしね。





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私は女性ですので、どちらかといえば男性よりも女性の言動にものすごく敏感かもしれません。いいなあと思う言動は真似をしたいと思いますし、逆に同性として恥ずかしい!と言いたくなることもこのような仕事をしていると多々あり、男性との向き合い方とはまったく異なっています。


女性と男性、その違いを考えると、「周囲の空気を読み、自分がその空気に対応する=気配り」が断然女性のほうが優れている思います。逆に言えば、それが女性らしさであり、その部分を磨くということは女性として生きるうえで無視できない事項でしょう。周囲に自分を合わせることは自分を失うということではないのです。自分を抑えて合わせるということを言うのではなく、自分が女性であるという自信を基盤に、言うべきことがあればやんわりと丁寧にお伝えし、賛辞したい部分は恥ずかしがらずにきちんとお話できる、そんな柔軟性を持った女性は年齢に関係なく、魅力があり、同性としても尊敬できるはずです。


女性の気配りひとつで場がまったく変わってしまいます。
そのような出来事を気づかせる二人の女性に最近出会いました。


某コンビニでの出来事。
せっかく夏祭りに出かけたのにもかかわらず、突然の雨で中断。子供たちに何も買ってあげずに帰ることになったため、せめてアイスくらいは買って帰ろうかと言って立ち寄りました。そのコンビニにはガチャガチャを売っていたので、たまにはいいかな・・・と思って二人の子供に「今日は買っていいよ」とOKを出しました。私は節約派一筋なので(苦笑)、ガチャガチャって、正直言ってその場だけのおもちゃで、ケースはそのままいらないごみになるし、中身によっては「いらない!」と思うようなものがあるので、子供が欲しがってもほとんどやらせません。
でも祖母からお小遣いをもらってお祭りに繰り出したのだから、これくらいの娯楽はいいだろうと思って、二人に100円玉を渡しました。もちろん、子供たちは大喜びです。普段ケチンボな母が100円を出してくれたのだから!


娘は今最大マイブームの「YES!プリキュア5」のガチャガチャを、息子は「ガリガリくんマスコット」を選択。まず娘がプリキュアのおもちゃを取り出しました。次に息子が機械にお金を投入したのですが、出てきません。中には4個ほどガチャガチャが残っているのですが出てきません。
息子が「かあちゃん、出てこないよ~~」というので私も触りましたが、やはりダメなので、レジの女性店員に声を掛けました。50代位の女性ですが、いつも店にいるのでオーナーかもしれません。


その女性は「あ~だめですね。お金返しますから。」と言って、レジから100円を持ってきました。
「残り少なくなると、出ないんですよ。」
私の手にそれを返すと、さっさとレジに戻りました。
それだけです。


ガチャガチャはそのコンビニの主力商品ではないけど、コンビニ内に置いてあるという事は、その販売に関して責任があると言うことです。
私だけでなく、息子も、レジの女性がガチャガチャを機械を開けて出してくれるものと思っていたので、この対応に、がっかりしました。
お金さえ返せばいいと思っているのでしょうか。
少なくとも、ガチャガチャを購入するのは子供であり、在庫がないならともかく、残っているのに手に出来ないというのは理不尽です。お金を渡してさっさと仕事に戻る女性には、息子のがっかりした空気が読めなかったんでしょうか。少なくとも、出ない機械をそのままにまたほったらかししておくのなら、また同じように子供が欲しがって、お金を入れても出ず、お願いすればないと断り、お金だけ返すのでしょうか。だったら、子供をがっかりさせるだけで、店として何の気配りも至っていません。申し訳ないですね、の一言もなく渡された100円がなんだか穢れて帰ってきたような印象で、私はものすごく許せなくなりました。
気配りとは、ただ仕事をこなすだけでなく、トラブル発生のとき、その影響を受ける人の気持ちにまで気持ちが及ぶか、否か、だと改めて考えさせられました。


面倒な対応が増えるのだからやっかいだわと考えるなら、最初からそんな機械など設置しなければいい。ないほうがよほどの気配りですよ。


もうひとつ。


我が家の隣の畑は土日の朝、野菜の朝市が開かれ、大勢の方がやってきます。並ばないと売切れてしまうんですね。土地柄、ご年配の方が多くて、私が並んでいると「お若くていいわね」なんて言われます。(完全に余談ですが)


朝市の開店を待っていると、そこに一台の高級車が止まり、60歳位のご夫婦が降りてきました。大体、朝市に並ぶのは主婦である女性だけで、夫婦で来る方はまったくいらっしゃいません。
で、見るからに、男性はこぎれいに身を固めた社会的に地位のある方であり、奥様は品のよいものをお召しになっていて、正直言って値段の安い野菜市に並ばなくてもいいんじゃないかって、庶民の私は思いました。
でもそのご夫婦の話を聞いていると、常連さんみたいなんですね。


開店時間になり、畑を作っているおじさんとおばさん(実はこのおじさんとおばさんは私たちの住むマンションの大屋さんなんです)がやってきました。並んだ順番にとれたて野菜を購入します。私が購入した後で、その高級そうなセレブ夫妻がおばさんに、手に持っていた紙袋を渡しました。
どうやら何かお礼の品を、おばさんに渡したようです。「いつもおいしい野菜をいただいているから・・・少なくて申し訳ないんですけど・・・」と、その奥様はおっしゃっていました。


変な見方かもしれませんが、私はこのご主人が社会的に成功している理由がなんとなくわかった気がします。


私自身、この朝市に並ぶことも多いのですが、新鮮な野菜をいただけるのは当たり前であって、その先にある「こんなおいしい野菜を低価格でいただけてありがたい。今度お礼をしたい。」という気持ちなど、この女性の行動を見なければわかりませんでした。


生産者と消費者という構図ですが、お金を払う以上、消費者のほうが言い分を通すことばかり考えます。でも、この女性が、生産者に対して「ありがとう」という気持ちを、きちんと伝えていることに感服しました。きっとこの女性は、お仕事をするご主人だけでなく、見えない相手にも想像力を働かせ、ご主人の周囲の人が気持ちよく過ごせるように、間接的なケアをしてきた女性なのでしょう。だからこそ、ご主人は奥様の見えない采配によって社会的地位も上げてきたのです。


誰でも歳をとれば、表面上の見た目は落ちます。どんな美人も老化には逆らえませんが、気配りのできる優しさは、その老化をカバーしても余りある魅力になるはずです。
私自身、そういう気配りがまったくと言っていいほど、できていなかったため、これから磨きをかけようと思います。
心がけが美しいと、感じていただければ嬉しいですものね。

私は寝る前、毎日ドリーン・バーチュー博士の「大天使オラクルカード」を子供に引いてもらい、それを枕元に置いて親子三人で天使様のサポートをお願いしています。


息子は夢でうなされることが多かったので、大天使ミカエルの「You Are Safe(安全)]というカードを枕元に置いてあげて、ミカエルはとても強くて勇気がある天使様で、お前を守ってくれるから、辛いことがあったとき心の中でミカエルを呼べばいつでも来てくれるよ、と話したら、不思議なことにミカエルのそのカードを引いて枕元に置く日は夢にうなされることがなく、息子は自分の守護天使様=ミカエルだと信じています。
そんな息子に触発され、娘もミカエルのカードを奪い合います。でも娘は女の子なので、やはりアリエルやジョフィエルのカードを引くのが嬉しいみたいですね。でも、なぜか娘はラジエルが多いです。絵柄のラジエルはおじいさんなので、娘はラジエルのカードが出ると「昨日も引いた!」と乙女としてはやや不満な部分が・・・(笑)


そんな息子がプールで怪我をしました。電話連絡が入ってあわてて学校に駆けつけると、右目の端、本当に目の境目ですね。その部分が切れて出血している息子がいました。どうやら一年生は水に慣れるため、水に沈む素材(石とコンクリートを足して2で割ったようなもの)でさかなの形をしたものなどをプールに投げてそれを拾うゲームをするらしいのですが、最後の自由時間にそのおもちゃが息子の目に当たったのです。とりあえず、家に連れて帰り、お昼休みをさせて(といっても隣の家の子達と無邪気に遊びまわっていた息子です)病院に連れて行きました。遠くでしたが、形成外科と眼科が一緒になっていて、四月に開院したばかりのきれいな病院でした。



そこで目の検査をし、視界に異常はなかったものの、切れた部分が思ったよりも深く、肉が出ていたので、先生は「これは縫うしかないですね」ということで、初めて息子は「縫合」の洗礼を受けることになるのです。もちろんその前に麻酔をしますが、その麻酔は目の端、傷のすぐそばに刺すものですから、見ている私のほうが倒れそうな光景でした。


さすがにこれは痛い。負けず嫌いの息子が泣き声を立てたので、とっさに私はハートに手を当ててミカエルを呼びました。しかも急いでいたのでつい、声に出したので、お医者様はなんなんだ?と思われたでしょう。 でも、きっとミカエルが応えてくれる。 息子は一瞬ひるぎましたが、麻酔を終えた後は、「ちくちくする」といいながらも縫合を乗り越えました。


お医者様の話ですと、目に当たったとしても大変だったけど、あと一センチ当たるのが上にずれていたら、視神経をやられて視力が低下してしまったそうです。それを聞いて、不幸中の幸いか、息子を守ってくださった存在に頭を下げました。


帰りの車の中で、「痛かったけど、大怪我しないようにミカエルが守ってくれたんだね~。絶対勇気をくれたんだ。もしこれからお母さんがいないときに、辛いときや、痛いときはミカエルを呼ぶんだよ。お母さんはいつもそばにいてあげられるわけじゃないけど、ミカエルはいつもお前のそばにいるからね。ミカエルは強くて、優しくて勇気のある天使だから。」


そしたら、普段学童保育や学校生活のことは話さない息子が、お友達にやられたことを急に告白したのです。
「オレなんにもしてないのに、やられたけど、オレは頑張った。やり返さなかった。そのときミカエルを呼んで我慢した。」ちょっとびっくり。でも、生活のちょっとした部分に、心のちょっとした隙間に、天使さまの存在スペースをちゃんと作っている子供に私が驚かされるばかりです。


子供こそ、無防備な存在だけど、大人よりも善と悪をよく知っている。でも、いつかそんな「目に見えないものを信じる」ことを子供たちは放棄するのであっても、今このときを見つめてくださる天使さまに大いに感謝しています。


子供の世界の中で「傷を負う」ということは恐れることではないのです。それを恐れていては、何も始まりません。ただ、自分を守る存在、守護霊様、守護神様、天使様はいつもそばにいて、ちゃんとその子を守って、強くしてくれているんだと感じます。
親として、子供を守護してくださる見えない手に感謝したいと思います。親は大体、もっと自己中心的なものが多いので。怪我をしたとしたら、「誰にやられた」とすぐに思ってしまうし、つい被害者になって振舞おうとします。客観的になれないのは仕方ないのですが、だからこそ、こうした存在に素直にサポートをお願いしようと思うのです。


私たちの届かない部分を、守ってくださってありがとうございます。
「許す」ということについて考えさせられることがありました。


といっても仰々しいものではないのですが・・・。


私は20歳から10年間、銀行で勤務していました。ものすごく一生懸命やったと自分で思います。なぜ、一生懸命やったのかと言えば、私はものすごくおっちょこちょいで(これは、私を深く知る人、一緒に働いていた人なら大いにわかってくださる真実です)本当にミスが多くて、大迷惑な社員でした。だから、人より一生懸命にならなければ、普通にこなせないわけです。必死でした。銀行と言う体質は、ミスを許さない場所です。よく「一円でも合わなければ帰れない」というじゃないですか。あれは本当です。合わないからといって適当に流すことは絶対にあってはならないんですよ。数字はあいまいな部分など一切ない。合わなければちゃんと合わないと出ます。書類には必ず係印を押しますから、ミスの所在は明らかにわかってしまうしまうという厳しさがあります。
それに、銀行の仕事は、量も多いし、正確で迅速な作業を求められるので、私にとっては本当に「よく勤まったな」と思える場所でした。でも、今これだけははっきりと言えるのは、ものすごく頑張ったということです。
無遅刻無欠勤。勉強も試験もどんどん受けて、仕事も多くの後輩を育てさせていただく役割をいただきました。
私はそういう意味で、おっちょこちょいで上司に迷惑を掛けることは多々ありましたが、それを温かくケアしてくださる上にも恵まれたし、上司も仕事の出来不出来だけで私を扱ったりしなかったんだと思います。


銀行を退社してからもう10年近くたとうとしていますが、未だに私は月末の窓口の夢にうなされます。


目の前にお金と通帳と伝票が入ったカルトン(お金の受け皿)が山のように積まれ、お客さんがひっきりなしに私の目の前に立ち、処理する時間がなく・・・焦るあの気持ちを思い出させるような、そんな夢。
もちろん、現実も、月末の窓口と言うものはそれくらいに忙しかったです。今のようにインターネットバンキングなんて普及しておらず、企業でも自分たちのパソコンから振り込むことなんてなかったでしょう。
退社して銀行とは無縁の生活をしているにもかかわらず、私は窓口でお客様を待たせる夢ばかり見るのです。


先日、夏休みの旅行のため、ある駅で特急の予約をしたときのことです。
私が窓口に並んだとき、お客様は私の前に一人いたのですが、そのお客様の処理に大変時間がかかっていました。見ると机の上に、分厚い切符の山。ちょうど台風で首都圏が荒れていたときですから、団体での旅行をやめにしたのでしょう。そのキャンセルの手続きに追われる駅員さんの前で私は15分くらい待っていました。
駅員さんからは最初「時間かかりますけどちょっとお待ちいただけますか?」と最初に声を掛けられたので「ハイ」と答えてあったのです。
長い待ち時間を破るように、その処理中の切符の持ち主である女性は駅員さんに「私、ちょっと席をはずしますから、(私を指して)このお客様先にやってあげてください」と言ってくださいました。
すごい気配りだと思います。


私に譲ってくれた時点で、まだキャンセルの手続きは半分くらいしか進んでいなかったのかもしれません。
その女性は何も言わず、私の横で駅員さんの作業を待っていました。
私も、必死に端末を操作する駅員さんを見て、待っていました。


内心で時間だけがどんどん過ぎていくことに「早くしてよ!」と思いました。私は待たされるのが嫌いなほうなので。
でも、それを言ってどうなるというのでしょう。駅員さんが焦るだけです。
このとき私は銀行時代の窓口にいた自分を呼ぶことにしています。あのとき、月末はいつも私は30分から一時間くらいお客様をお待たせしていました。何度も「申し訳ありません」と頭を下げて待たせていたことでしょう。
でも、怒鳴られたり、けしかけられた記憶がないのです。
私はあの若いとき、多くの人から自分の未熟さや手際の悪さを許してもらいながら歩いてきました。だから今度は、私は若い人たちを許し、待つことを覚えなくてはいけません。それが、年齢とともに求められる「器の広さ」なのだと思いました。


「許す」ということは何も仰々しいことでないということは、こういうことです。


皆さんも、こうした場面に出くわすことがあるかと思います。
もちろんその駅員さんや応対した社員が一生懸命しているという前提は必要ですが、一生懸命やっていて、でも処理能力がまだまだ未熟な若い人に会ったとき、自分はどう思いますか?


自分勝手な大人が増えているということは、こうした場面で相手に脅しを加えたり、無意味な怒りをぶつけることだと思います。他人の一生懸命さがわかるならば、許すこともまた必要な場面があるのです。


私自身は気が短くて、待たされるのは大の苦手なのですが、若いときに私を見守ってくださった上司、お客様、その優しさがあのときの自分をケアしていたんだとわかります。でなければ、許しを知らない人に囲まれていたなら、私はすぐに退職し、自分の場所を失っていたに違いありません。自分が、「早くしてよ!」という剣を向けたなら、その剣がもしかしたらこの若者の現実の想いまで切り裂いてしまう可能性だってあるわけです。
10年間の生活で社会の厳しさを超えてこれたのは、多くの許しの中で生かしてもらってきたから。


そんなことがようやく、わかるようになりました。




もともと私はのんびり屋でダラダラ性質、20代は今流行の「干物女」そのものでした。まあ、職場でしっかりきっちりしていたかは別ですが・・・(苦笑)。家でジャージを履き、外に行くときはもちろんノーメイク、家の中に洗濯物を干し、洗濯物が乾いたところからその日の下着を使いまわす・・・飲んだら飲みっぱなし。食べたら食べっぱなし・・・。

冗談抜きで私生活のだらしない部分はお見せできないくらいでした。


母はとてもきれい好きで、洗濯物ひとつ干すにも「美しい」というか、きちんと干します。洗い物も素早いし、おしゃれも大好きで、着飾ることが大好きで・・・まさに私とは正反対。そんなわけで独身のころからも、主婦になってからもよく家事のことは母に正されました。
でも開けたドアを閉めない、靴もぬいだらぬぎっぱなしで、母としては「誰に似たのやら?」(これは父に対する嫌味ですが・笑)でしたが、こんな自分でも最近驚くような変化があります。


母ほどきれい好きにはなっていませんが、毎日鑑定の仕事に入る前、かならずトイレを掃除し、きれいに磨いてから仕事を始めることをずっと続けています。


これは、以前の私からは考えられない掃除の頻度でしょう。以前は来客前に便器だけチャチャッと洗っておしまいだった自分ですが、便器からよどんだ空気が広がっていたに違いないと思うと、今はどんなに忙しくても大事に便器を抱えるように掃除ができるようになったんですね。


実際、きれいに掃除されたトイレに入るのは気持ちも落ち着くものです。


レイキを学び、占い師として人に何かを伝えるメッセンジャーと言う作業を全うするために、こういった身近なところから修行が必要なのだと思います。
滝に打たれたり、食事を制限することではなくて、いつでも身近にある修行の場が、家庭なんですね。家事であると言うことです。
その家事をきちんとするようになったのが、私が振り返って「大きく変わった」と思える部分ですね。


だから手元にあるものを大事にすることで、人間は自分の品位を高めていけるんじゃないかと思うんです。
トイレは排泄の場であり、浄化の場所でもありますから、この場所を磨いておくことが、より家族や自分の健康を守り抜くことにもつながりますし、毎日掃除を行えば、手出ししたくないくらいに汚くなることはまずありえません。


だいたい、繁盛している店のトイレは、大体とてもさわやかで隅々まで掃除が行き届いているものです。その法則は家庭にも当てはまるに違いありません。

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志我雨音(しがあまね)
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女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
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自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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