占い師としての成長日記
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銀行には研修というものがあります。日帰りの場合もありますが、研修所で二三泊したりするものもあり、よく研修に出してもらえました。全国の地方銀行の中堅女子行員研修もありました。そこで私は何をしていたのかと言えば・・・ずっと手相占いです(^-^;。自己紹介などで「特技は手相を観る事です」と言ってしまうと、その後はだいたいその話です。同期で集まる飲み会も、支店での飲み会も、私は部屋の隅っこで占いブースを作られ「おいで~~」と呼ばれ、手相を観てあげました。研修で手相を観て仲良くなった友達が、支店に帰ってからまた私の話を広めてくれて・・・。
銀行には行内メールと言うものがあり、これは支店間での書類のやり取りを行う郵便なのですが、「手型をメールで送るからよろしく!」という電話が入り、翌日、手のコピーが行内メールで私の元に届きます。それを鑑定してまた行内メールで返してあげたりしました(本当は仕事以外の書類のやり取りに行内メールを使っちゃいけないっていうことなんですが・・・ごめんなさい!)。約束手形ではなく手型っていうのが、暗号みたいなやり取りですね。
研修で仲良くなった同期が、支店の仲間の手のコピーをとって私の元に送ってくれたり、確かに手相をみる機会だけは増えたわけです。
逆にそれで、嫌な思いも味わいました。
手型を何枚も(他の同僚も含めて五枚くらい)送りつけておきながら、こちらが返しても何のお礼もない人。こんなことはよくありました。
アマチュアだったし、お金もいただいたこともなかったけれど、それでもお礼の一言がないので、利用できるときだけされているんだな、と思うと、なんだかバカバカしくなってしまったり、占いだけで私自身を見てくれないのかなと思ったり、でも自分から占いをするって言っているんだから、占いだけでしか見てもらえないと思うのも自分勝手なのかな?とか・・・無礼な人は確かにいるものだと、占いをしてから知ることもできました。
銀行と言う大人数の出会いがある中で、とにかく回数だけは重ねてくることができました。そのうち、手を観た瞬間に、「何か」を感じ取ることができるようになって来ました。「この手のひらの言いたいこと」を感じるというか・・・。これは回数をこなしたからかもしれませんね。
私は25歳の夏、人生が大きく変わりました。
それは田舎から、東京の支店への転勤希望が通ったからです。総合職でもない限り、しがない事務職の女性が、生活の本拠地を変える異動はほとんどありえません。東京都内の支店は都内在住者の女性ばかりでしたので、ラッキーとしか言いようのない人事でした。
なぜ東京へ転勤希望を出したかと言うと、昔から書くことが好きだった私はもう一度書く勉強をしたいと思っていて、当時シナリオライターの内館牧子さんのエッセイを読んで、「よし!私もシナリオライターになって、絶対に売れてやる!」という目覚めがあったんですね。
でも仕事の拠点もないまま東京に出るなんてとてもできません。でも東京の支店に転勤できれば、私の生活は保障されるし、好きな勉強もできます。そのために異動願いを出したのです。
なので、東京に出るとき私の夢は「シナリオライターになるぞ!」だったんですね。
シナリオライターの学校は楽しく、いい仲間にも恵まれて、幸せな時間でしたが、私なんかよりもシナリオを上手に書ける人が沢山いて、それでもプロになれない人を見ていると、シナリオで食べていこうと思う気持ちは徐々に弱気になってきました・・・。それほど強い覚悟がないことを知ってしまったんです。
その上、シナリオの仲間や先生とはよく授業のあと飲みに行ったりしたのですが、そこでも手相を観てあげてたりして・・・ついには先生に「あなたはシナリオライターよりも絶対に占い師になったほうがいい!!」と言われ、そのときはかなり複雑でしたね(苦笑)。もしも今シナリオの恩師に会えて、プロの占い師になったと言ったら、先生は「やっぱりね!私は絶対そう思っていたのよ!」って笑って送り出して下さるに違いありません。当時は「え~~~私はシナリオライターになってフジテレビの玄関を通りたいんです!」って逆らっていましたけどね。
シナリオ学校は続けていましたが、私の中で占いを仕事にしようと思える転機がありました。
新宿の支店に勤めていたので、よく仕事帰りに映画を片っ端から見ました。その作品も同僚と一緒に見に行ったのです。
「ファースト・ワイフ・クラブ」
40歳を過ぎた女性三人。学生時代の親友が自殺をしたため、久しぶりに再会します。そこで身の上話をする三人は、環境こそ違うものの、夫が若い愛人を作って、自分は40を過ぎてしまい、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれていることを告白しあいます。
三人は「ファースト・ワイフ・クラブ(最初の妻の会)」を結成し、夫や愛人にあの手この手で復習を果たすという痛快コメディーなんですね。
最後、夫と愛人をぎゃふんと言わせ、女三人がそろって歌い踊るシーンは、胸が熱くなりました。当時の私は26歳。40代なんてまだまだ先の話で想像もつかない年代ですが、この女性たちのように、私が実際40代になってこんなピンチに陥って、人生行き詰ったとき、誰かが私のために駆けつけてくれるんだろうか。そして自分は、友達のピンチに駆けつけられる人間になっているんだろうか・・・って考えました。
もし、私が占いと言う技術を持っていたら・・・。
もし私が占いと言う技術を持っていたら、40歳になっても、私は占いを通して友達と関わり、力になってあげることができる。友達も、きっと私を思い出してくれるはず・・・。
映画を見終わった新宿の夜空と、歌舞伎町の人の波を見つめながら、私は初めて「占いを自分の一生かけて行う技術にする」と言うことを考えました。
「占い師になろう」・・・そう思い始めた夜だったのです。
銀行には行内メールと言うものがあり、これは支店間での書類のやり取りを行う郵便なのですが、「手型をメールで送るからよろしく!」という電話が入り、翌日、手のコピーが行内メールで私の元に届きます。それを鑑定してまた行内メールで返してあげたりしました(本当は仕事以外の書類のやり取りに行内メールを使っちゃいけないっていうことなんですが・・・ごめんなさい!)。約束手形ではなく手型っていうのが、暗号みたいなやり取りですね。
研修で仲良くなった同期が、支店の仲間の手のコピーをとって私の元に送ってくれたり、確かに手相をみる機会だけは増えたわけです。
逆にそれで、嫌な思いも味わいました。
手型を何枚も(他の同僚も含めて五枚くらい)送りつけておきながら、こちらが返しても何のお礼もない人。こんなことはよくありました。
アマチュアだったし、お金もいただいたこともなかったけれど、それでもお礼の一言がないので、利用できるときだけされているんだな、と思うと、なんだかバカバカしくなってしまったり、占いだけで私自身を見てくれないのかなと思ったり、でも自分から占いをするって言っているんだから、占いだけでしか見てもらえないと思うのも自分勝手なのかな?とか・・・無礼な人は確かにいるものだと、占いをしてから知ることもできました。
銀行と言う大人数の出会いがある中で、とにかく回数だけは重ねてくることができました。そのうち、手を観た瞬間に、「何か」を感じ取ることができるようになって来ました。「この手のひらの言いたいこと」を感じるというか・・・。これは回数をこなしたからかもしれませんね。
私は25歳の夏、人生が大きく変わりました。
それは田舎から、東京の支店への転勤希望が通ったからです。総合職でもない限り、しがない事務職の女性が、生活の本拠地を変える異動はほとんどありえません。東京都内の支店は都内在住者の女性ばかりでしたので、ラッキーとしか言いようのない人事でした。
なぜ東京へ転勤希望を出したかと言うと、昔から書くことが好きだった私はもう一度書く勉強をしたいと思っていて、当時シナリオライターの内館牧子さんのエッセイを読んで、「よし!私もシナリオライターになって、絶対に売れてやる!」という目覚めがあったんですね。
でも仕事の拠点もないまま東京に出るなんてとてもできません。でも東京の支店に転勤できれば、私の生活は保障されるし、好きな勉強もできます。そのために異動願いを出したのです。
なので、東京に出るとき私の夢は「シナリオライターになるぞ!」だったんですね。
シナリオライターの学校は楽しく、いい仲間にも恵まれて、幸せな時間でしたが、私なんかよりもシナリオを上手に書ける人が沢山いて、それでもプロになれない人を見ていると、シナリオで食べていこうと思う気持ちは徐々に弱気になってきました・・・。それほど強い覚悟がないことを知ってしまったんです。
その上、シナリオの仲間や先生とはよく授業のあと飲みに行ったりしたのですが、そこでも手相を観てあげてたりして・・・ついには先生に「あなたはシナリオライターよりも絶対に占い師になったほうがいい!!」と言われ、そのときはかなり複雑でしたね(苦笑)。もしも今シナリオの恩師に会えて、プロの占い師になったと言ったら、先生は「やっぱりね!私は絶対そう思っていたのよ!」って笑って送り出して下さるに違いありません。当時は「え~~~私はシナリオライターになってフジテレビの玄関を通りたいんです!」って逆らっていましたけどね。
シナリオ学校は続けていましたが、私の中で占いを仕事にしようと思える転機がありました。
新宿の支店に勤めていたので、よく仕事帰りに映画を片っ端から見ました。その作品も同僚と一緒に見に行ったのです。
「ファースト・ワイフ・クラブ」
40歳を過ぎた女性三人。学生時代の親友が自殺をしたため、久しぶりに再会します。そこで身の上話をする三人は、環境こそ違うものの、夫が若い愛人を作って、自分は40を過ぎてしまい、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれていることを告白しあいます。
三人は「ファースト・ワイフ・クラブ(最初の妻の会)」を結成し、夫や愛人にあの手この手で復習を果たすという痛快コメディーなんですね。
最後、夫と愛人をぎゃふんと言わせ、女三人がそろって歌い踊るシーンは、胸が熱くなりました。当時の私は26歳。40代なんてまだまだ先の話で想像もつかない年代ですが、この女性たちのように、私が実際40代になってこんなピンチに陥って、人生行き詰ったとき、誰かが私のために駆けつけてくれるんだろうか。そして自分は、友達のピンチに駆けつけられる人間になっているんだろうか・・・って考えました。
もし、私が占いと言う技術を持っていたら・・・。
もし私が占いと言う技術を持っていたら、40歳になっても、私は占いを通して友達と関わり、力になってあげることができる。友達も、きっと私を思い出してくれるはず・・・。
映画を見終わった新宿の夜空と、歌舞伎町の人の波を見つめながら、私は初めて「占いを自分の一生かけて行う技術にする」と言うことを考えました。
「占い師になろう」・・・そう思い始めた夜だったのです。
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私は占いという仕事があることを知りませんでした。自分の意思で仕事を決めることもせず、言われるままに地元の銀行に就職しました。親の想いは、娘を家から通わせること。それから大手であることだったでしょうね。田舎の就職先は、中部電力、公務員、農協、信金、銀行が「入れたら安泰」の代名詞でした。親にとって銀行はいい就職先でした。本当に笑ってしまいますが、私にとって就職なんてそんなに大きなイベントではなかったんです。いつか嫁に行くという感覚でいたので、さほど真剣ではなかった。嫁入り前の結婚資金を稼ぐ場所という認識で、親に勧められるままに試験を受けてしまったのですから。
銀行=ボーナスがっぽり。
この公式につられて入ったようなものです(爆)。
そりゃ入ったあとで、とんでもなく苦労するのは当たり前ですよね。
ここでひとつ学びが。
仕事は、時代の背景もあるかもしれないけれど、できるなら他人のお勧めを鵜呑みにするのではなく、もっと真剣に調べたりして就職すべきだった。小学生じゃないのだから。そういう意味で、私の親も過保護で、私もそれに甘えていました。
売り手市場だったのだから、真剣な目標さえあれば、きっとたいていのことは叶ったかもしれないのに。
バブル絶頂期。私の同期は200人くらいはいたんじゃないでしょうか。
数学の平均点がいつも10点で、担任に呼ばれて追試の常連だった私が、銀行員になると言ったとき、みんなから「適職だね」と言われました。
たぶん、田舎者で、まじめで垢抜けていないので、地方銀行にはぴったりのキャラクターだったのかもしれません。でも私は心の中で「でも数学は追試組ですから」とつぶやいて返していました。銀行員は数字に強くなければならないと思っていたからです。でも、計算は計算機がします。銀行員は細かく、正確な仕事をする人にはぴったりです。完璧な仕事や、ファイル仕事をするのが好きな人にもいいです。
私の銀行での10年間を語り始めると、いくら日記を書いても足りません。
でも、「適職だね」と言われた割には、私は本当に銀行でミスばっかり。「検査」というのが年に一度いきなり入るのですが、検査でひっかかるのはみんな私の担当した仕事。もう何度頭を下げてきたかわかりません。
おっちょこちょいで、よく机にぶつかる勢いで仕事をしていました。
一生懸命なんだけれど、あわてすぎてミス連発。本当に恥ずかしいのですが、そういう人間です。でも銀行はミスを最も嫌う職場です。多少遅くてもいいからミスはないほうがいい。でもできれば手も早いほうがいい。
合わないという言葉に尽きます。楽しくないのですね。
ミスをしないのが最善。お客様を怒らせないようにするのが仕事。
間違い探しをするのが仕事。
入ってから3年はついていくのがやっとで、「辞めたい」と言う想いよりも「どうしたら先輩に怒られないようになるのかな」と言うことばかり考えて動いていました。そのうち出来る仕事が増え、任されることが多くなると、責任感も出てきます。銀行の仕事は苦手だったけれど、新入生を育てる役割を任されたりするのは凄く嬉しかったですね。いわゆる、後輩に仕事を教えるのと同時に、ポテンシャルを高めてあげる、早くなじむように面倒を見てあげるヘルパーと言う役割がありますが、それをしているときはとてもやりがいを感じました。後輩の性格を早くつかみ、できるだけ私には困ったことを相談できるように気を配る・・・そういった仕事には抵抗がありませんでした。
きっと後輩からすれば、私はバタバタしている割によく怒られている先輩だったと思いますよ。親しみやすさは限りなく100%でしたね・・・。
銀行は私にとって、本当に『修行」の一文字でした。
その中で「職業観」と呼べるものが出来たとするのなら、これを挙げたいと思います。
・職場の人たちと仲良くなること。全力で職場になじむこと。
・どんなに辛い仕事でも、「これだけは支店の中で一番」と胸を張っていえるエキスパートの分野を持つこと。ひとつでもいいから精通すること。
・職場の人の悪口を言わない。
銀行じゃなくても、同じ職業観を持つかもしれませんが・・・集団生活で得たこの哲学は今も私の鑑定に大きな役割を果たしてくれます。今は在宅で同僚と呼べる人間がいません。帰りにお茶をするような付き合いもありません。それはそれで楽なんですが、私はお茶や食事やレジャーを通して、自分を応援してくれる大事な人を得ることが出来ました。その人がいつもくじけそうな私を励ましたりしてくれました。仕事だけで判断すれば、とっくの昔に辞めていたかもしれないのに、その人が私をよく支えてくれたから、私も頑張ろうと思えたし、いつか自分の存在が、誰かの支えになれたらいいなと思えました。
占いの話とは遠ざかってしまいましたね(^-^;
今の自分と当時の自分と、何が違って何が同じなのか。
違いは、人の顔色ばかり気にして、自分のしていることに自信が持てずに早く辞めたくてたまらなかったこと。逃げ腰の人生だったこと。
同じことは、「ああ、私の努力が足らない」とすぐに思うこと、かな?
私は人生の予定は23歳で結婚して、25で第一子出産、27で第二子出産・・・だったんですね。しかし、27を越えても彼氏すらおらず、思いのほか銀行に長居することになりました。銀行は寿退社が当たり前だったので、いつも月末に「今月の退職者」が通報で回るのですが、25歳くらいから同期の退職者が相次ぎ、「あ、今月もあの子が辞めた・・・」ということを繰り返し、自分がいつも取り残されて、未来が真っ暗な気持ちでいました。そんな気持ちで働いているから仕事が面白くないのか、仕事が面白いと思えないから、未来に希望を見出せないのか。
少なくとも20代の私は、本当に何時もうつむいていた記憶しかないです。
同時に、私はよく占いに足を運ぶ一人の熱心なお客でした。
私はよく名古屋に遊びに行き、名古屋駅前のビル地下にある対面占いの部屋の常連でしたね。千夜物語っていうところです。真っ暗な地下で、個別のブースがあって20分3,000円。若い先生よりも、お母さんくらいの年齢の先生によく占ってもらいました。
自分が占いに何を求めていったのか・・・
「いつ私は出会えるんですか?」
そればかりを聞いていたように思います。今思えばかなりお金をかけていたかもしれません。自分で占いをするなんて、夢にも思わず。
転勤で東京に出てきても、有名な占い師さんのところに行くのが趣味でしたね。
今にして思えば、実は何を言われたのか、全然覚えていません。
たったひとつだけくっきり刻まれている占い師のおばさんの言葉があります。
「覚えておくといいわ。恋愛関係において、男は出すもの、女は受け止めるものなの。肉体関係なんてまさにそうでしょ?女はね、男の出すものを受け止めるけど、たとえばAさんと付き合っているときはAさんからもらう。Aさんの色に染まるよね。
でもAさんと別れて次にBさんと付き合う。で、女はBさんと付き合ったとき、Bさんの色に染まるのではないの。AさんとBさんの両方の色が混じるのよ。
男は出すだけだからいいかもしれないけど、女はそうなの。だからいろんな人と付き合えば付き合うほど、その色が混じってしまって、色がぐちゃちゃになってしまうのね。結局それは子供がその色を背負うことになるの。」
当時私は二股をかけるようなこともしてないのに(二股どころか、一股だって困難だったのに)、こんな話をしてもらいました。これだけは強く心に残っています。
10年後、輝夜師匠から占いの指導を受けている最中に、これと同じ内容の理を教えていただいたとき、「あ、名古屋の占い師のおばさんが、そんなことを教えてくれたな。」って思い出しました。結びついたんですね。
長くなってしまった・・・(苦笑)。ごめんなさいね。
まだ続きます。
銀行=ボーナスがっぽり。
この公式につられて入ったようなものです(爆)。
そりゃ入ったあとで、とんでもなく苦労するのは当たり前ですよね。
ここでひとつ学びが。
仕事は、時代の背景もあるかもしれないけれど、できるなら他人のお勧めを鵜呑みにするのではなく、もっと真剣に調べたりして就職すべきだった。小学生じゃないのだから。そういう意味で、私の親も過保護で、私もそれに甘えていました。
売り手市場だったのだから、真剣な目標さえあれば、きっとたいていのことは叶ったかもしれないのに。
バブル絶頂期。私の同期は200人くらいはいたんじゃないでしょうか。
数学の平均点がいつも10点で、担任に呼ばれて追試の常連だった私が、銀行員になると言ったとき、みんなから「適職だね」と言われました。
たぶん、田舎者で、まじめで垢抜けていないので、地方銀行にはぴったりのキャラクターだったのかもしれません。でも私は心の中で「でも数学は追試組ですから」とつぶやいて返していました。銀行員は数字に強くなければならないと思っていたからです。でも、計算は計算機がします。銀行員は細かく、正確な仕事をする人にはぴったりです。完璧な仕事や、ファイル仕事をするのが好きな人にもいいです。
私の銀行での10年間を語り始めると、いくら日記を書いても足りません。
でも、「適職だね」と言われた割には、私は本当に銀行でミスばっかり。「検査」というのが年に一度いきなり入るのですが、検査でひっかかるのはみんな私の担当した仕事。もう何度頭を下げてきたかわかりません。
おっちょこちょいで、よく机にぶつかる勢いで仕事をしていました。
一生懸命なんだけれど、あわてすぎてミス連発。本当に恥ずかしいのですが、そういう人間です。でも銀行はミスを最も嫌う職場です。多少遅くてもいいからミスはないほうがいい。でもできれば手も早いほうがいい。
合わないという言葉に尽きます。楽しくないのですね。
ミスをしないのが最善。お客様を怒らせないようにするのが仕事。
間違い探しをするのが仕事。
入ってから3年はついていくのがやっとで、「辞めたい」と言う想いよりも「どうしたら先輩に怒られないようになるのかな」と言うことばかり考えて動いていました。そのうち出来る仕事が増え、任されることが多くなると、責任感も出てきます。銀行の仕事は苦手だったけれど、新入生を育てる役割を任されたりするのは凄く嬉しかったですね。いわゆる、後輩に仕事を教えるのと同時に、ポテンシャルを高めてあげる、早くなじむように面倒を見てあげるヘルパーと言う役割がありますが、それをしているときはとてもやりがいを感じました。後輩の性格を早くつかみ、できるだけ私には困ったことを相談できるように気を配る・・・そういった仕事には抵抗がありませんでした。
きっと後輩からすれば、私はバタバタしている割によく怒られている先輩だったと思いますよ。親しみやすさは限りなく100%でしたね・・・。
銀行は私にとって、本当に『修行」の一文字でした。
その中で「職業観」と呼べるものが出来たとするのなら、これを挙げたいと思います。
・職場の人たちと仲良くなること。全力で職場になじむこと。
・どんなに辛い仕事でも、「これだけは支店の中で一番」と胸を張っていえるエキスパートの分野を持つこと。ひとつでもいいから精通すること。
・職場の人の悪口を言わない。
銀行じゃなくても、同じ職業観を持つかもしれませんが・・・集団生活で得たこの哲学は今も私の鑑定に大きな役割を果たしてくれます。今は在宅で同僚と呼べる人間がいません。帰りにお茶をするような付き合いもありません。それはそれで楽なんですが、私はお茶や食事やレジャーを通して、自分を応援してくれる大事な人を得ることが出来ました。その人がいつもくじけそうな私を励ましたりしてくれました。仕事だけで判断すれば、とっくの昔に辞めていたかもしれないのに、その人が私をよく支えてくれたから、私も頑張ろうと思えたし、いつか自分の存在が、誰かの支えになれたらいいなと思えました。
占いの話とは遠ざかってしまいましたね(^-^;
今の自分と当時の自分と、何が違って何が同じなのか。
違いは、人の顔色ばかり気にして、自分のしていることに自信が持てずに早く辞めたくてたまらなかったこと。逃げ腰の人生だったこと。
同じことは、「ああ、私の努力が足らない」とすぐに思うこと、かな?
私は人生の予定は23歳で結婚して、25で第一子出産、27で第二子出産・・・だったんですね。しかし、27を越えても彼氏すらおらず、思いのほか銀行に長居することになりました。銀行は寿退社が当たり前だったので、いつも月末に「今月の退職者」が通報で回るのですが、25歳くらいから同期の退職者が相次ぎ、「あ、今月もあの子が辞めた・・・」ということを繰り返し、自分がいつも取り残されて、未来が真っ暗な気持ちでいました。そんな気持ちで働いているから仕事が面白くないのか、仕事が面白いと思えないから、未来に希望を見出せないのか。
少なくとも20代の私は、本当に何時もうつむいていた記憶しかないです。
同時に、私はよく占いに足を運ぶ一人の熱心なお客でした。
私はよく名古屋に遊びに行き、名古屋駅前のビル地下にある対面占いの部屋の常連でしたね。千夜物語っていうところです。真っ暗な地下で、個別のブースがあって20分3,000円。若い先生よりも、お母さんくらいの年齢の先生によく占ってもらいました。
自分が占いに何を求めていったのか・・・
「いつ私は出会えるんですか?」
そればかりを聞いていたように思います。今思えばかなりお金をかけていたかもしれません。自分で占いをするなんて、夢にも思わず。
転勤で東京に出てきても、有名な占い師さんのところに行くのが趣味でしたね。
今にして思えば、実は何を言われたのか、全然覚えていません。
たったひとつだけくっきり刻まれている占い師のおばさんの言葉があります。
「覚えておくといいわ。恋愛関係において、男は出すもの、女は受け止めるものなの。肉体関係なんてまさにそうでしょ?女はね、男の出すものを受け止めるけど、たとえばAさんと付き合っているときはAさんからもらう。Aさんの色に染まるよね。
でもAさんと別れて次にBさんと付き合う。で、女はBさんと付き合ったとき、Bさんの色に染まるのではないの。AさんとBさんの両方の色が混じるのよ。
男は出すだけだからいいかもしれないけど、女はそうなの。だからいろんな人と付き合えば付き合うほど、その色が混じってしまって、色がぐちゃちゃになってしまうのね。結局それは子供がその色を背負うことになるの。」
当時私は二股をかけるようなこともしてないのに(二股どころか、一股だって困難だったのに)、こんな話をしてもらいました。これだけは強く心に残っています。
10年後、輝夜師匠から占いの指導を受けている最中に、これと同じ内容の理を教えていただいたとき、「あ、名古屋の占い師のおばさんが、そんなことを教えてくれたな。」って思い出しました。結びついたんですね。
長くなってしまった・・・(苦笑)。ごめんなさいね。
まだ続きます。
自分の人生を振り返ることが多くなってしまった最近。なぜ自分は占いという道に入ったんだろうかと思うことがあります。
占い師を生業とするたいていの人は、幼い頃から不思議な力を持っていたり、そういった体験も多かったり、運命と言うものに興味を持っていた人だったり、霊感の強い方が多いと思います。
しかし、私は霊感体質ではなかったし、不思議な話など持っていません(苦笑)。鋭い感性もなかった・・・ただオドオドした、普通のおとなしい幼少時代から、次第に同性同士でははじけたキャラクターになってきたかもしれません。占いに興味を持ったのは高校生くらいですが、でもそれは結果に興味があってのことで、占いという流れに心惹かれたわけではなかったのです。カードをいくつか買い求めましたが、恐れ多いもの、というイメージが常にあり、いつも黒い布をかぶせ、机の奥にしまいこんで、これは!というときに本を片手に展開していました。でもいつの間にか、使わなくなっていたのですね。
私が短大に入ったとき、サークルの勧誘で心理学同好会と言うものを知りました。心理学同好会というと堅く感じるかもしれないけれど、やっていることは占いです。文化祭には占いをしますので、本を見ずに占いができるようになってください、という誘い文句が今も残っています。
結局ほとんどまともにそのサークルには同好会に参加しなかったのです(私は演劇をメインに動いていたので、顔が出せなかったんですね)。友達も一緒にそのサークルに入りましたので、いろいろ情報はもらっていたし、文化祭にあわせて本を購入し、占いができるように勉強はしていました。それが手相の本でした。今もその本は私の手相のバイブルとして困ったときに開いています。手相を学び、一回100円でもお金をいただけるのなら本を見ない程度に占いができるように勉強したのです。
結局、学園祭で手相を披露することは一度もありませんでした(^-^;
演劇に二年間の青春を費やしてしまったので・・・。
しかし思わぬところで、私の手相が大うけしてしまったんです。私は名古屋の短大にいたのですが、高校からエスカレーター式で上がってきたお嬢様グループがクラスにいました。私はどちらかといえば、地方出身でつるんでいる地味なグループでした。なので華やかなお嬢様グループとは縁がなかったのですね。しかし、その中の一人が私に手相を見て~といって親しげに話しかけてきてくれました。私はドッキドキです。バブル絶頂期でしたから、当時のお嬢様連中は本当に華やかでキレイでした。
私が手相を見てズバズバというたびに、彼女がびっくりするんです。
「当たってる~~なんでそんなことがわかるの?すごいっ!」
そして彼女がグループに「ねえねえ、すごいよ。やってもらいなよ!」って広めてくれるんです。
面白いことに、クラスには私のほかにも心理学同好会に所属し、占いを勉強したクラスメイトは他にもいます。私は演劇で披露しなかったものの、他の人はちゃんと文化祭でお金をいただいて鑑定している人もいるのです。だけれど、なぜか私の手相だけがクラスに広まり、休み時間には私の前に列ができるようになっていました・・・(笑)。自分は感じたことや学んだことをそのまま伝えているだけなのに、クラスメイトは「わかった!ありがとう。」と素直に受け入れてくれる。当時はクラスメイトを占うだけで終わっていたけれど、当たる当たると言ってもらえて、やっぱりうれしかったんですね。
それから短大二年のとき近所にある店でバイトをすることになったんですね。主にコーヒーとハーブティーを売り物にしている会社で、オーナーは役所広司似だけど、当時はバブル真っ只中だったからかなりノリノリで、きっとイケテル女子大生が欲しかったのかもしれません。が、私はどこをどう見ても、田舎くさい女の子でしたから、初めは難色を示していました。しかし「特技・手相占い」という文字をみて彼の目つきが変わりました。
「手相か・・・面白そうだな。採用!」
ええっ!そんな条件で採用かよっ!!!Σ(◎o◎;)
お茶の淹れ方に慣れてくると、顔見知りのお客さんが来るとオーナーが「それはいいからこの人を見てくれ」って鑑定席に案内するのです。
「あ、ハイ」なんていいつつも、「失敗したらどうしよう。」ってびくびく。だって、お客さんは10代の女子大生ではなくて50歳くらいの女性ですよ?私よりも何倍人生を生きている人です。そんな人を相手に何を話せばいいのでしょうか?外れていたら・・・(汗)。と思うけれど、逃げられません。オーナーがニヤニヤしながら私を送り出すのですから。
でも私の鑑定が始まると、お客さんが「そのとおりだよ!」「当たってるね~」って本当におだてじゃなくて言ってくれるんですね。その言葉で安心した私は段々のってきます。作品を仕上げるように、感じたことを話します。面白いなあと思うのですが「違うね。外れているよ」と言われたことがないのですね。記憶から飛んでしまったのかもしれませんが、私にとっては今でもそれが不思議でたまらないのです。
少なくともここで出会いました。
私は道という確かなものまでに発展するとは思わなかったけれど、でも不思議なことに、もし誰かに自分の占いにけちをつけられていたら、この時点でやめていたかもしれません。
この年齢で思ったことは「へえ、芸は身を助けるってこういうことか。」
ということでした。生きるためにこういう技術ってあったほうがいいんだなって。でも、それは私にとって、まだその程度の認識であって、覚悟とかそういったものとは程遠い思いでした。
きっかけとは恐ろしくもあり、不思議なものです。
占いをたまたま学んだだけなのに、それが周囲の声によって、自分が最初そんなに気合を入れるつもりはなかったのに、高めることになっていく。
でも・・・当時はそんなことまったくわからなかったけど、大きな流れがちゃんと働いていたんですね。
そして私は占いとは正反対の職業である銀行に入ることになります。
続きます。
占い師を生業とするたいていの人は、幼い頃から不思議な力を持っていたり、そういった体験も多かったり、運命と言うものに興味を持っていた人だったり、霊感の強い方が多いと思います。
しかし、私は霊感体質ではなかったし、不思議な話など持っていません(苦笑)。鋭い感性もなかった・・・ただオドオドした、普通のおとなしい幼少時代から、次第に同性同士でははじけたキャラクターになってきたかもしれません。占いに興味を持ったのは高校生くらいですが、でもそれは結果に興味があってのことで、占いという流れに心惹かれたわけではなかったのです。カードをいくつか買い求めましたが、恐れ多いもの、というイメージが常にあり、いつも黒い布をかぶせ、机の奥にしまいこんで、これは!というときに本を片手に展開していました。でもいつの間にか、使わなくなっていたのですね。
私が短大に入ったとき、サークルの勧誘で心理学同好会と言うものを知りました。心理学同好会というと堅く感じるかもしれないけれど、やっていることは占いです。文化祭には占いをしますので、本を見ずに占いができるようになってください、という誘い文句が今も残っています。
結局ほとんどまともにそのサークルには同好会に参加しなかったのです(私は演劇をメインに動いていたので、顔が出せなかったんですね)。友達も一緒にそのサークルに入りましたので、いろいろ情報はもらっていたし、文化祭にあわせて本を購入し、占いができるように勉強はしていました。それが手相の本でした。今もその本は私の手相のバイブルとして困ったときに開いています。手相を学び、一回100円でもお金をいただけるのなら本を見ない程度に占いができるように勉強したのです。
結局、学園祭で手相を披露することは一度もありませんでした(^-^;
演劇に二年間の青春を費やしてしまったので・・・。
しかし思わぬところで、私の手相が大うけしてしまったんです。私は名古屋の短大にいたのですが、高校からエスカレーター式で上がってきたお嬢様グループがクラスにいました。私はどちらかといえば、地方出身でつるんでいる地味なグループでした。なので華やかなお嬢様グループとは縁がなかったのですね。しかし、その中の一人が私に手相を見て~といって親しげに話しかけてきてくれました。私はドッキドキです。バブル絶頂期でしたから、当時のお嬢様連中は本当に華やかでキレイでした。
私が手相を見てズバズバというたびに、彼女がびっくりするんです。
「当たってる~~なんでそんなことがわかるの?すごいっ!」
そして彼女がグループに「ねえねえ、すごいよ。やってもらいなよ!」って広めてくれるんです。
面白いことに、クラスには私のほかにも心理学同好会に所属し、占いを勉強したクラスメイトは他にもいます。私は演劇で披露しなかったものの、他の人はちゃんと文化祭でお金をいただいて鑑定している人もいるのです。だけれど、なぜか私の手相だけがクラスに広まり、休み時間には私の前に列ができるようになっていました・・・(笑)。自分は感じたことや学んだことをそのまま伝えているだけなのに、クラスメイトは「わかった!ありがとう。」と素直に受け入れてくれる。当時はクラスメイトを占うだけで終わっていたけれど、当たる当たると言ってもらえて、やっぱりうれしかったんですね。
それから短大二年のとき近所にある店でバイトをすることになったんですね。主にコーヒーとハーブティーを売り物にしている会社で、オーナーは役所広司似だけど、当時はバブル真っ只中だったからかなりノリノリで、きっとイケテル女子大生が欲しかったのかもしれません。が、私はどこをどう見ても、田舎くさい女の子でしたから、初めは難色を示していました。しかし「特技・手相占い」という文字をみて彼の目つきが変わりました。
「手相か・・・面白そうだな。採用!」
ええっ!そんな条件で採用かよっ!!!Σ(◎o◎;)
お茶の淹れ方に慣れてくると、顔見知りのお客さんが来るとオーナーが「それはいいからこの人を見てくれ」って鑑定席に案内するのです。
「あ、ハイ」なんていいつつも、「失敗したらどうしよう。」ってびくびく。だって、お客さんは10代の女子大生ではなくて50歳くらいの女性ですよ?私よりも何倍人生を生きている人です。そんな人を相手に何を話せばいいのでしょうか?外れていたら・・・(汗)。と思うけれど、逃げられません。オーナーがニヤニヤしながら私を送り出すのですから。
でも私の鑑定が始まると、お客さんが「そのとおりだよ!」「当たってるね~」って本当におだてじゃなくて言ってくれるんですね。その言葉で安心した私は段々のってきます。作品を仕上げるように、感じたことを話します。面白いなあと思うのですが「違うね。外れているよ」と言われたことがないのですね。記憶から飛んでしまったのかもしれませんが、私にとっては今でもそれが不思議でたまらないのです。
少なくともここで出会いました。
私は道という確かなものまでに発展するとは思わなかったけれど、でも不思議なことに、もし誰かに自分の占いにけちをつけられていたら、この時点でやめていたかもしれません。
この年齢で思ったことは「へえ、芸は身を助けるってこういうことか。」
ということでした。生きるためにこういう技術ってあったほうがいいんだなって。でも、それは私にとって、まだその程度の認識であって、覚悟とかそういったものとは程遠い思いでした。
きっかけとは恐ろしくもあり、不思議なものです。
占いをたまたま学んだだけなのに、それが周囲の声によって、自分が最初そんなに気合を入れるつもりはなかったのに、高めることになっていく。
でも・・・当時はそんなことまったくわからなかったけど、大きな流れがちゃんと働いていたんですね。
そして私は占いとは正反対の職業である銀行に入ることになります。
続きます。
土曜日は月に一度の占いの定例会議でした。
普段は一日の時間が長く感じるのに、この日だけは超高速で時計の針が進んでしまうような気がします。もうこんな時間・・・!!って。それだけいろいろ話に花が咲くのですね。今回もそうでした。詳細はまた別のブログで報告させていただくのですが、毎月輝夜師匠がブログを記載してくださっているんですが、今月は私が書く番になっているんです。今その原稿作成の真っ最中です。
そして今日は朝から大雨でした。キャンプを終えた息子が新宿に到着するので、迎えに行きましたが、23区に入った瞬間に雨がやんで、新宿では傘なしでお迎えできました。
三泊四日のキャンプ生活を終えて帰ってきた息子は疲れた顔ながらも満足感あふれる空気でした。しかし、歌を大声で歌ったらしく、声が枯れてて、満足に声が出ない状態でした。
「つりで三匹釣れた!」というのが息子の第一声でしたので、今年の一番の感動は釣りだったのでしょうね。バスの中では寝ることなくレクリエーションを楽しんできたらしいのです。そのため顔はめちゃくちゃ疲れ果てていました。待っていた義母と、娘とみんなで昼ごはんを食べに行き、大人用のカレーを一皿平らげていました。お腹も空いていたんですね。
あまり多くを語らないけれど(自分からは)でも同じ班になった友達はみんなキャンプが初めての参加で、自分だけが二回目だったと得意げ?に語っていました。
ボーイスカウトの親子キャンプ。
そして友達と一緒に参加したとはいえ、現地では別々の班に分けられての行動をした子供村のキャンプ。
来年はどうなるのでしょうか・・・。
朝、バスに乗る前かなり雨に降られたらしく、息子のリュックサックは水の塊のようにびしょぬれでした。荷物はすでに怪しい臭いが発酵しはじめていました・・・家に返る車の中ですぐに眠りに落ちた息子ですが、家に帰宅してからもずっと寝ていました。息子の荷物を一通り出して、洗濯し、片付けて・・・あいにくのお天気で寝袋を干すことができません。
しかし、この中に私の知らない彼の思い出がいっぱい詰まっていることでしょう。私の手のひらの上ではなく、私の範囲でない世界で、楽しんだり、たちどまったりしてきた息子を寝袋はちゃんと知っています。
「来年はもうちょっと長くいるキャンプにしようか?」とたずねたところ、一瞬彼の目に戸惑いの色が現れていました(^-^;。
でも「四日間抱っこしてないから抱っこして」と言ってきた息子。
まだまだ幼いなあと思うと同時に、いつまでそんなこと言ってくれるのかな、と一抹の寂しさを思いながらも、抱っこしてあげました。
本当は晴れていれば一番いいのですが、雨模様の日もあったそうです。
それでも子供がたくさん集まれば、キャンプ場は天気など関係ない最高の遊びの場所になるのでしょう。ゲームやテレビ、親の干渉など一切ない世界で、子供ってどう振舞って遊ぶんでしょうね。見てみたいですね。
普段は一日の時間が長く感じるのに、この日だけは超高速で時計の針が進んでしまうような気がします。もうこんな時間・・・!!って。それだけいろいろ話に花が咲くのですね。今回もそうでした。詳細はまた別のブログで報告させていただくのですが、毎月輝夜師匠がブログを記載してくださっているんですが、今月は私が書く番になっているんです。今その原稿作成の真っ最中です。
そして今日は朝から大雨でした。キャンプを終えた息子が新宿に到着するので、迎えに行きましたが、23区に入った瞬間に雨がやんで、新宿では傘なしでお迎えできました。
三泊四日のキャンプ生活を終えて帰ってきた息子は疲れた顔ながらも満足感あふれる空気でした。しかし、歌を大声で歌ったらしく、声が枯れてて、満足に声が出ない状態でした。
「つりで三匹釣れた!」というのが息子の第一声でしたので、今年の一番の感動は釣りだったのでしょうね。バスの中では寝ることなくレクリエーションを楽しんできたらしいのです。そのため顔はめちゃくちゃ疲れ果てていました。待っていた義母と、娘とみんなで昼ごはんを食べに行き、大人用のカレーを一皿平らげていました。お腹も空いていたんですね。
あまり多くを語らないけれど(自分からは)でも同じ班になった友達はみんなキャンプが初めての参加で、自分だけが二回目だったと得意げ?に語っていました。
ボーイスカウトの親子キャンプ。
そして友達と一緒に参加したとはいえ、現地では別々の班に分けられての行動をした子供村のキャンプ。
来年はどうなるのでしょうか・・・。
朝、バスに乗る前かなり雨に降られたらしく、息子のリュックサックは水の塊のようにびしょぬれでした。荷物はすでに怪しい臭いが発酵しはじめていました・・・家に返る車の中ですぐに眠りに落ちた息子ですが、家に帰宅してからもずっと寝ていました。息子の荷物を一通り出して、洗濯し、片付けて・・・あいにくのお天気で寝袋を干すことができません。
しかし、この中に私の知らない彼の思い出がいっぱい詰まっていることでしょう。私の手のひらの上ではなく、私の範囲でない世界で、楽しんだり、たちどまったりしてきた息子を寝袋はちゃんと知っています。
「来年はもうちょっと長くいるキャンプにしようか?」とたずねたところ、一瞬彼の目に戸惑いの色が現れていました(^-^;。
でも「四日間抱っこしてないから抱っこして」と言ってきた息子。
まだまだ幼いなあと思うと同時に、いつまでそんなこと言ってくれるのかな、と一抹の寂しさを思いながらも、抱っこしてあげました。
本当は晴れていれば一番いいのですが、雨模様の日もあったそうです。
それでも子供がたくさん集まれば、キャンプ場は天気など関係ない最高の遊びの場所になるのでしょう。ゲームやテレビ、親の干渉など一切ない世界で、子供ってどう振舞って遊ぶんでしょうね。見てみたいですね。
昨日、知人のYさんと会話していたとき、自分の夫とのかかわりや問題から発して、「息子と母親」という距離関係の話から、やはり会話は「嫁と姑」という流れになりました。母親は息子がかわいくてたまらないし、基本的に男の子はマザコンです。だから嫁と姑という関係は、波風が立つのは当然なんだということに始まったのですが、Yさんが私にこういいました。
「あのね、こういう話があるのよ。夫にとって、本妻は母親で、妻は愛人だと思ったほうがいいって。本妻はあちらだから、そう思えば、相手にカッカしたって仕方ないの。本妻には敵いません。でも、女は人生で三回強くなれるチャンスがあるの。ひとつは結婚したとき。二つ目は子供が生まれた時。三つ目は姑が亡くなったとき。ほら、本妻がいなくなったら愛人が『今度は私の出番よっ!』って出てくるでしょ?あれと同じなのよ。」
はあ・・・すごい例えだなと思いましたが(笑)、あながち間違ってもいないような気がします。っていうか、うちはそうかもしれませんね(爆)。だから夫を家から連れ出してしまったんですし・・・。
「本妻と愛人」そんな関係は望んでもいないのですが、でも夫という人間をめぐってはそんな感情がうずきあうのかもしれません。
でも本当は、結婚というのは親からの自立であり、今度は親とは違う価値観を育てていける自由でもあると思うのです。だけど、その足をひっぱってしまうのは「愛情」でもあるんですね。子供を思うゆえの愛には違いないのですが、「行かないで。寂しいから」という気持ちがあるのなら、それは母親の愛から発したエゴになってしまうしのでしょうか。親離れ子離れができていないから「本妻と妻」のような対立構造になってしまうんですね。
私は義母からいろんなことを学びました。
いいことも悪いことも、これからのあるべき姿も。
今度は私の番です。私は息子が結婚を決めるとき、遠くに行くと言い出したとき、自ら孤独になることを受け入れて、口を挟みたい気持ちを抑えて、笑顔で見送れるでしょうか・・・。
その夜義母に用事があって電話を入れることがあったのですが、先日私がボーイスカウトのキャンプに行っている間に、義母と義母の妹が我が家に訪問してくれていたんですね。普段は遠く離れている妹に息子夫婦の建てた新築の家を見せたかったんだと思います。
その話になって「今回、私もじっくり家を見せてもらったけれど、あれよね。妙に広すぎて落ち着かないわよね。空間の使い方がもったいないような気がするわ。私だったら廊下をあんなに広く取らないわね。妹はいいんじゃないって言ってたけど、私にはもったいない場所がいっぱいあるわ。」
「あ、そうなんですか。ハハハハハ・・・(あくまで心の中で繰り広げられる私の乾いた笑い)・・・(^-^;」
Yさんの「あちらは本妻」という言葉がこだました瞬間でした。
義母は、絶対にほめないんですね。
アラを先に言うんです。でもそれが義母の話の仕方なのかもしれません。悪気があって言っているわけではないということもわかりますが、それでもお金をためて家を建てることの大変さを知っているのに、こういう伝え方では相手をがっかりさせてしまうことは知らないのです。
ご自分の大事な息子が頑張って仕事をして、嫌がるローンを組んで、決意して建てた家なのですから、間取りが思い通りにいかない部分あるのは当然でも、そのことを言ってほしかったな・・・。私は義母と違って、夫の何もかもを笑って許してしまうような甘さはないかもしれません。だから怖がられちゃうのかもしれませんけど(苦笑)。私なりに独立しながら、上手にこの人たちとつきあっていくしか道はないと、受話器を抱えながら考えました。
嫌だからといってシャットアウトしてしまうのは、血縁関係、婚姻関係では難しいことです。あちらを立てつつ、でもあちらの意向に飲み込まれないように、コントロールが望まれます。
「あのね、こういう話があるのよ。夫にとって、本妻は母親で、妻は愛人だと思ったほうがいいって。本妻はあちらだから、そう思えば、相手にカッカしたって仕方ないの。本妻には敵いません。でも、女は人生で三回強くなれるチャンスがあるの。ひとつは結婚したとき。二つ目は子供が生まれた時。三つ目は姑が亡くなったとき。ほら、本妻がいなくなったら愛人が『今度は私の出番よっ!』って出てくるでしょ?あれと同じなのよ。」
はあ・・・すごい例えだなと思いましたが(笑)、あながち間違ってもいないような気がします。っていうか、うちはそうかもしれませんね(爆)。だから夫を家から連れ出してしまったんですし・・・。
「本妻と愛人」そんな関係は望んでもいないのですが、でも夫という人間をめぐってはそんな感情がうずきあうのかもしれません。
でも本当は、結婚というのは親からの自立であり、今度は親とは違う価値観を育てていける自由でもあると思うのです。だけど、その足をひっぱってしまうのは「愛情」でもあるんですね。子供を思うゆえの愛には違いないのですが、「行かないで。寂しいから」という気持ちがあるのなら、それは母親の愛から発したエゴになってしまうしのでしょうか。親離れ子離れができていないから「本妻と妻」のような対立構造になってしまうんですね。
私は義母からいろんなことを学びました。
いいことも悪いことも、これからのあるべき姿も。
今度は私の番です。私は息子が結婚を決めるとき、遠くに行くと言い出したとき、自ら孤独になることを受け入れて、口を挟みたい気持ちを抑えて、笑顔で見送れるでしょうか・・・。
その夜義母に用事があって電話を入れることがあったのですが、先日私がボーイスカウトのキャンプに行っている間に、義母と義母の妹が我が家に訪問してくれていたんですね。普段は遠く離れている妹に息子夫婦の建てた新築の家を見せたかったんだと思います。
その話になって「今回、私もじっくり家を見せてもらったけれど、あれよね。妙に広すぎて落ち着かないわよね。空間の使い方がもったいないような気がするわ。私だったら廊下をあんなに広く取らないわね。妹はいいんじゃないって言ってたけど、私にはもったいない場所がいっぱいあるわ。」
「あ、そうなんですか。ハハハハハ・・・(あくまで心の中で繰り広げられる私の乾いた笑い)・・・(^-^;」
Yさんの「あちらは本妻」という言葉がこだました瞬間でした。
義母は、絶対にほめないんですね。
アラを先に言うんです。でもそれが義母の話の仕方なのかもしれません。悪気があって言っているわけではないということもわかりますが、それでもお金をためて家を建てることの大変さを知っているのに、こういう伝え方では相手をがっかりさせてしまうことは知らないのです。
ご自分の大事な息子が頑張って仕事をして、嫌がるローンを組んで、決意して建てた家なのですから、間取りが思い通りにいかない部分あるのは当然でも、そのことを言ってほしかったな・・・。私は義母と違って、夫の何もかもを笑って許してしまうような甘さはないかもしれません。だから怖がられちゃうのかもしれませんけど(苦笑)。私なりに独立しながら、上手にこの人たちとつきあっていくしか道はないと、受話器を抱えながら考えました。
嫌だからといってシャットアウトしてしまうのは、血縁関係、婚姻関係では難しいことです。あちらを立てつつ、でもあちらの意向に飲み込まれないように、コントロールが望まれます。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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