占い師としての成長日記
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古本屋で懐かしい漫画を見つけました。
「BANANA FISH」全19巻。
実家にも全巻揃っていたのですが、いつの間にかどこかに消えてしまったのです。最終巻を手にとって読んだら、また涙が溢れてきてしまって、やっぱりもう一度揃えたいと衝動に駆られ、古本を大人買いしました。
連載はあのPL学園の桑田・清原のKKコンビ(これがわかる人は、今around40ですね・笑)が甲子園で最後の夏、優勝した年に始まっています。そう思うと、時代を感じますよね。その清原が昨日今季限りで現役引退を宣言していましたが・・・。
少女マンガとは思えないストーリー展開。
男と女の恋愛は一切ありません。男同士の、恋愛以上の友情が描かれています。
一方は、類稀なる美貌とIQ180以上という頭脳を持って生まれながらも、親に見捨てられ、8歳で性的暴行を受けて殺人を犯して以来、男娼として商品にされながらも、マフィアのボスにいたく気に入られてしまった少年アッシュ。
棒高跳びの選手として期待されながら、怪我が元でスランプに陥り、アメリカへと連れて来られた純粋で穏やかな日本人の青年奥村英二。
その二人がBANANA FISHという麻薬をめぐる陰謀に巻き込まれていく話ですが、その中で、誰にも心を許すことなく、怒りと恨みで生きてきたアッシュが、英二には心を開き、英二は殺人を犯す彼の奥に潜む悲しみや耐え難い苦痛を感じとり、アッシュの心を癒すのです。
(ゲイの話ではありません。)
でも、その二人が戦いを経て、強い絆で結ばれ、この出会いによってアッシュも英二も人生が変わっていくのですね。
最後は・・・日本へと帰国する英二からの手紙を読みながら、アッシュは隙を突かれ、殺されてしまうのですが・・・その死は決して孤独なものではありませんでした。
なぜにこれほどまでこの作品に惹かれるのでしょうか。
アッシュの才能や、カリスマ性もみどころの一つなのですが、やはりアッシュと英二の絆の強さの描き方には、そんじょそこらの恋愛漫画にはない感動が伴います。
英二は特に何ができるわけでもなく、平凡な人の善い男の子なんです。日本人ですから銃だってまともに撃てません。でも、英二は誰よりも傷ついているアッシュの気持ちを真っ先に感じ取り、言葉をかけ、時にはレイプまでされたアッシュをだまって抱きしめてあげます。見返りを要求しない英二の言動に、アッシュは彼を信頼していくのです。
「愛」とはなんであるのかを、丁寧に描いているから、この作品が根強い人気があるのかもしれません。
「きみはひとりじゃない。
僕がそばにいる。
僕の魂はいつもきみとともにある。」
英二がアッシュに書いた手紙にしたためられた言葉です。
漫画の世界だから美しい言葉になってしまうかもしれませんが、でも、もし私たちが生きていく中で、こんな言葉をこの人には心から伝えたいと思う出会いがあったら、それだけでとても幸せなことだと思います。そしてそういった言葉を、素直に出し合える関係・・・。
たったひとつでいいから、そんな関係を体験できるっていいですね。
漫画も小説も、主人公たちの人間関係が描かれています。
バトル・友情・愛情・怒り・苦しみ・葛藤・・・。そのどれも、自分にもあてはまるものがあるはずです。自分が憧れるものもあるはずです。
アッシュと英二の強い絆に何度も涙を流した私ですが、愛というものはきっと国境や言葉や習慣、目に見えるものを飛び越えて、相手に届くものなんだと思わずにはいられません。
10年以上この漫画を読んでいなかったのですが、また再び手にして、やはり名作であるという確かな実感がそこにありました。
そして、年をとったせいでしょうか、泣けます。本当に涙なしでは読めません。憎んで覇者になるよりも、愛して滅びる道を選んだアッシュ。
どんなときも自分を支配しようとする人間に対しては魂をかけて逆らう彼ですが、英二との出会いで彼の中に「守りたい」と思うものが生まれます。英二も傍観者でなく、当事者となり、アッシュのために何ができるのかを常に考えるようになっていきます。男同士でも、女同士でも、男女間でも「愛する・愛される」ということは、人を変え、脆くもするし、そして強くもするのですね。
「芥川賞をとらせたいマンガ」に選ばれているのも納得のこの作品。
(マンガ版「走れメロス」的なところもあるのかも。)
「BANANA FISH」全19巻。
実家にも全巻揃っていたのですが、いつの間にかどこかに消えてしまったのです。最終巻を手にとって読んだら、また涙が溢れてきてしまって、やっぱりもう一度揃えたいと衝動に駆られ、古本を大人買いしました。
連載はあのPL学園の桑田・清原のKKコンビ(これがわかる人は、今around40ですね・笑)が甲子園で最後の夏、優勝した年に始まっています。そう思うと、時代を感じますよね。その清原が昨日今季限りで現役引退を宣言していましたが・・・。
少女マンガとは思えないストーリー展開。
男と女の恋愛は一切ありません。男同士の、恋愛以上の友情が描かれています。
一方は、類稀なる美貌とIQ180以上という頭脳を持って生まれながらも、親に見捨てられ、8歳で性的暴行を受けて殺人を犯して以来、男娼として商品にされながらも、マフィアのボスにいたく気に入られてしまった少年アッシュ。
棒高跳びの選手として期待されながら、怪我が元でスランプに陥り、アメリカへと連れて来られた純粋で穏やかな日本人の青年奥村英二。
その二人がBANANA FISHという麻薬をめぐる陰謀に巻き込まれていく話ですが、その中で、誰にも心を許すことなく、怒りと恨みで生きてきたアッシュが、英二には心を開き、英二は殺人を犯す彼の奥に潜む悲しみや耐え難い苦痛を感じとり、アッシュの心を癒すのです。
(ゲイの話ではありません。)
でも、その二人が戦いを経て、強い絆で結ばれ、この出会いによってアッシュも英二も人生が変わっていくのですね。
最後は・・・日本へと帰国する英二からの手紙を読みながら、アッシュは隙を突かれ、殺されてしまうのですが・・・その死は決して孤独なものではありませんでした。
なぜにこれほどまでこの作品に惹かれるのでしょうか。
アッシュの才能や、カリスマ性もみどころの一つなのですが、やはりアッシュと英二の絆の強さの描き方には、そんじょそこらの恋愛漫画にはない感動が伴います。
英二は特に何ができるわけでもなく、平凡な人の善い男の子なんです。日本人ですから銃だってまともに撃てません。でも、英二は誰よりも傷ついているアッシュの気持ちを真っ先に感じ取り、言葉をかけ、時にはレイプまでされたアッシュをだまって抱きしめてあげます。見返りを要求しない英二の言動に、アッシュは彼を信頼していくのです。
「愛」とはなんであるのかを、丁寧に描いているから、この作品が根強い人気があるのかもしれません。
「きみはひとりじゃない。
僕がそばにいる。
僕の魂はいつもきみとともにある。」
英二がアッシュに書いた手紙にしたためられた言葉です。
漫画の世界だから美しい言葉になってしまうかもしれませんが、でも、もし私たちが生きていく中で、こんな言葉をこの人には心から伝えたいと思う出会いがあったら、それだけでとても幸せなことだと思います。そしてそういった言葉を、素直に出し合える関係・・・。
たったひとつでいいから、そんな関係を体験できるっていいですね。
漫画も小説も、主人公たちの人間関係が描かれています。
バトル・友情・愛情・怒り・苦しみ・葛藤・・・。そのどれも、自分にもあてはまるものがあるはずです。自分が憧れるものもあるはずです。
アッシュと英二の強い絆に何度も涙を流した私ですが、愛というものはきっと国境や言葉や習慣、目に見えるものを飛び越えて、相手に届くものなんだと思わずにはいられません。
10年以上この漫画を読んでいなかったのですが、また再び手にして、やはり名作であるという確かな実感がそこにありました。
そして、年をとったせいでしょうか、泣けます。本当に涙なしでは読めません。憎んで覇者になるよりも、愛して滅びる道を選んだアッシュ。
どんなときも自分を支配しようとする人間に対しては魂をかけて逆らう彼ですが、英二との出会いで彼の中に「守りたい」と思うものが生まれます。英二も傍観者でなく、当事者となり、アッシュのために何ができるのかを常に考えるようになっていきます。男同士でも、女同士でも、男女間でも「愛する・愛される」ということは、人を変え、脆くもするし、そして強くもするのですね。
「芥川賞をとらせたいマンガ」に選ばれているのも納得のこの作品。
(マンガ版「走れメロス」的なところもあるのかも。)
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思えば、私の人生は劣等感と切っても切り離せない場所をいつも歩いてきた。
生れ落ちた環境では、いつも明るく人気者の兄と、暗くて友達も満足にできなかった自分。
兄はとりたててカッコよくもないし、有名人で言えばエディー・マーフィーを日本人にした感じで、背も低かったし、成績だって普通だったのだ(失礼!)。でも面白いくらいに、クラスの、いや学年中の人気者になってしまう。兄の名前を知らない人はいないくらいに。本当に不思議だった。小さい頃から、兄はいつもみんなから好かれる人物だった。親戚中でも兄は期待の的だったと思う。兄は自慢であると同時に、私は強い嫉妬にさいなまされてしまった。
私はつくづく思う。女でよかった。もし弟として生まれてきていたのなら、屈折しまくって、気が変になっていたかもしれない。「男だから」という自分なりの逃げ道を作って、私は輝いている兄を見つめていた。
女としても全然ダメダメだった。
その一行に尽きる。
大食いで早食いの家で育ち、小さい頃から肥満細胞とすっかり仲良しで、いつもふっくらおでぶちゃん。それにめがねと、重たい一重まぶた。顔に目立つほくろまでついてて、絵に描いたようなオデブキャラだった。
女の子同士でギャーギャー騒いだりするのは大好きだった。
でも、その場所に一名でも雄が混じると、全然苦手になる。男の人の前で、いくつになっても自分の「女」という部分にまるで自信が持てない。
だから私には、自分を「女」として見ないような夫が来たんだろうか(苦笑)・・・まあそれは推測のし過ぎかも知れないが。
好きだった男性からいつも言われる振られ言葉。「きみって、いい子なんだけどね・・・」
でも・・・その飲み込んだ言葉のあとに何が続くのかはわかっていた。
「言うことを聞き過ぎるんだよ。」
男性に対してうまく振舞えない私は、男性のいいなりになってしまって、余計に自分をうまく出せなかった。次々と結婚していく友達を尻目に、私は恋愛以前に、男性との関わり方がものすごく下手くそすぎて、本当に恋愛ってどういうものなのかよくわからない状態だった。
魅力というか、特別な何かがあるわけでもない。美貌も、女としての自信も。
えこひいきされることなんて一回もなかった。職場でも、すぐに落ち込む気質を見破られたのか、きつく当たられたこともあった。後輩になめられたこともあった。
結婚して子供を持っても、私には新しく「子育て」というステージでの劣等感が用意されていた。それももっとディープなものが。生活レベルだったり、わが子との接し方だったり・・・。子育て中なんて、絶好の劣等感の培養期だった。比較対象はいくらでもあったからだ。
じゃあ占いという道ではどうなのか。
やっぱりここでも、他人と自分を比較したり、自分のスタンスに自信が持てないままここまで走ってきてしまった。
人気のある鑑定士さんと自分を比べたり、鑑定のあとで「この人はもう私なんかじゃ駄目だろうな」と自分の力のなさを嘆いたり、師弟関係でもそうだった。そもそも端から師匠に及ばないのだから「弟子」という立場なのに、いつも師匠のすごさと自分を比べて落ち込んでいた。師匠と比べるのもそもそもおかしいのに。師匠だって最初から師匠だったわけではなくて、あらゆる葛藤を乗り越えて立ち上がったからこそ人を導くという道に入ったのに、私はその部分さえも見えないまま比べては、自分の価値を下げていた。
そしたら、いつのまにか私は30後半になり、気がつけば人生の折り返し地点に入ってしまった。劣等感で塗られた私の基盤を、今後も続けていくのだろうか。劣等感があったからこそ頑張ったことも確かにある。でも、最後には劣等感に喰われている。
劣等感はいつもいつも私のそばでその出現チャンスをうかがっていたように思う。
いや・・・違う。
私はいつも劣等感が服を着て歩いているような、そんな魂そのものかもしれない。
「どうして他の人にできることが、私にはできないんだろう。」
「どうして私ばっかりこんなことになってしまうんだろう。」
「何が私の強みなんだろう。」
ずっと自分という人間が、弱くて脆くて、腐った根っこを持っている気がしてならなかった。若い頃はそれを運命のせいだと思っていた。だから私は自分の上を流れている運命を知りたくて、占いという学問に入ったのだと思う。
でも・・・・
占いを学ぶほど、輝夜師匠からご指導を受けるほど、気づかなければならない残酷な真実があることに気づいていく。
運命は確かにあるのかもしれないが、劣等感は運命ではなく、自己の内側にしかないということがわかる。誰がもたらすのでもない。何かと自分を比べて落ち込んで暗くなるという流れは、自分の心の中にしか存在しない。
人を呪いたくなるような、辛い運命の仕業というものもあるかもしれないが、他人に不幸にされた経験よりも、圧倒的に、自分で自分を不幸にしている経験のほうが多いのだ。運命は変えることができる。占いは確かにその人の頭の上を流れている運気を言い当てることができるけれど、だからそのとおりに進むわけではない。歩くのは運命ではなくて、人間である私たちだ。いくらでも、運命に戦いを挑むチャンスは用意されている。
でも、愚かな私は、運命に戦いを挑む前に、自分がもう駄目な人間なんだと烙印を押し、挑戦することすらやめてしまう。
劣等感をバネに這い上がることができるならば、まだ救いがあるが、劣等感に潰され、自分の人生を放棄するような諦めをしてしまったら、もう運命は変えられない。
私はまず「劣等感」の塊である自分を見つめなおそうと思っている。
そこから「だから私は駄目なんだ」という流れに流されてしまうことが、今までの私だった。
ただ、私は知ったのだ。「運命は変えられる。努力こそが大事なのだ。ひたむきに自分を信じることができるのかが問われる。」ことを。
不細工でブスでデブで、暗くて、たいした頭もない女だけれど、だからこそ見えてくるものがあるだろう。
ただ、面白いと思うのは、神様はたったひとつでも、その人に「好物」を与えてくださっているということ。
私は小さい頃からなぜか、書くことが大好きだった。兄に何もかもかなわなかったけれど、「お前は書くことが上手だな」と言われたことは良く覚えている。下手だったと思うけれど、書くときはいつも全力投球だった。書きあがった後の爽快感は幼い頃から今まで変わらずに私の中に存在している。
それに今まで救われてきた。数々の劣等感も。行き場のない思いも。
もし「書くこと」を誰かと比べ始めたら、私はもうとことん落ち込んでしまうだろう。書くことに関して、なぜか私は「下手でもいいから」という気持ちになれる。「下手でもいいから、正直に書こう」とアクセルが踏める。きっと、こんなに暗く考えてしまう私でさえこんな幸せな救いがあるのだから、人間誰もみんなそんな幸せな手段をちゃんと持って生まれてきているように思える。
劣等生だった自分の中で唯一の救い。
「下手でもいいから、一生懸命に書いてみよう。」という気持ちは、一つの生きるヒントだった。
私たちの内面には、現状を乗り越えて生きられるヒントがたくさん隠れている。
劣等感を山積みしていると、そのヒントに気づけなくなってしまう。
私は劣等感の塊だった自分を否定しない。
でも、これからもそうではいたくないと思う。
少なくとも「劣等感を極めました(笑)」といって卒業したい。
生れ落ちた環境では、いつも明るく人気者の兄と、暗くて友達も満足にできなかった自分。
兄はとりたててカッコよくもないし、有名人で言えばエディー・マーフィーを日本人にした感じで、背も低かったし、成績だって普通だったのだ(失礼!)。でも面白いくらいに、クラスの、いや学年中の人気者になってしまう。兄の名前を知らない人はいないくらいに。本当に不思議だった。小さい頃から、兄はいつもみんなから好かれる人物だった。親戚中でも兄は期待の的だったと思う。兄は自慢であると同時に、私は強い嫉妬にさいなまされてしまった。
私はつくづく思う。女でよかった。もし弟として生まれてきていたのなら、屈折しまくって、気が変になっていたかもしれない。「男だから」という自分なりの逃げ道を作って、私は輝いている兄を見つめていた。
女としても全然ダメダメだった。
その一行に尽きる。
大食いで早食いの家で育ち、小さい頃から肥満細胞とすっかり仲良しで、いつもふっくらおでぶちゃん。それにめがねと、重たい一重まぶた。顔に目立つほくろまでついてて、絵に描いたようなオデブキャラだった。
女の子同士でギャーギャー騒いだりするのは大好きだった。
でも、その場所に一名でも雄が混じると、全然苦手になる。男の人の前で、いくつになっても自分の「女」という部分にまるで自信が持てない。
だから私には、自分を「女」として見ないような夫が来たんだろうか(苦笑)・・・まあそれは推測のし過ぎかも知れないが。
好きだった男性からいつも言われる振られ言葉。「きみって、いい子なんだけどね・・・」
でも・・・その飲み込んだ言葉のあとに何が続くのかはわかっていた。
「言うことを聞き過ぎるんだよ。」
男性に対してうまく振舞えない私は、男性のいいなりになってしまって、余計に自分をうまく出せなかった。次々と結婚していく友達を尻目に、私は恋愛以前に、男性との関わり方がものすごく下手くそすぎて、本当に恋愛ってどういうものなのかよくわからない状態だった。
魅力というか、特別な何かがあるわけでもない。美貌も、女としての自信も。
えこひいきされることなんて一回もなかった。職場でも、すぐに落ち込む気質を見破られたのか、きつく当たられたこともあった。後輩になめられたこともあった。
結婚して子供を持っても、私には新しく「子育て」というステージでの劣等感が用意されていた。それももっとディープなものが。生活レベルだったり、わが子との接し方だったり・・・。子育て中なんて、絶好の劣等感の培養期だった。比較対象はいくらでもあったからだ。
じゃあ占いという道ではどうなのか。
やっぱりここでも、他人と自分を比較したり、自分のスタンスに自信が持てないままここまで走ってきてしまった。
人気のある鑑定士さんと自分を比べたり、鑑定のあとで「この人はもう私なんかじゃ駄目だろうな」と自分の力のなさを嘆いたり、師弟関係でもそうだった。そもそも端から師匠に及ばないのだから「弟子」という立場なのに、いつも師匠のすごさと自分を比べて落ち込んでいた。師匠と比べるのもそもそもおかしいのに。師匠だって最初から師匠だったわけではなくて、あらゆる葛藤を乗り越えて立ち上がったからこそ人を導くという道に入ったのに、私はその部分さえも見えないまま比べては、自分の価値を下げていた。
そしたら、いつのまにか私は30後半になり、気がつけば人生の折り返し地点に入ってしまった。劣等感で塗られた私の基盤を、今後も続けていくのだろうか。劣等感があったからこそ頑張ったことも確かにある。でも、最後には劣等感に喰われている。
劣等感はいつもいつも私のそばでその出現チャンスをうかがっていたように思う。
いや・・・違う。
私はいつも劣等感が服を着て歩いているような、そんな魂そのものかもしれない。
「どうして他の人にできることが、私にはできないんだろう。」
「どうして私ばっかりこんなことになってしまうんだろう。」
「何が私の強みなんだろう。」
ずっと自分という人間が、弱くて脆くて、腐った根っこを持っている気がしてならなかった。若い頃はそれを運命のせいだと思っていた。だから私は自分の上を流れている運命を知りたくて、占いという学問に入ったのだと思う。
でも・・・・
占いを学ぶほど、輝夜師匠からご指導を受けるほど、気づかなければならない残酷な真実があることに気づいていく。
運命は確かにあるのかもしれないが、劣等感は運命ではなく、自己の内側にしかないということがわかる。誰がもたらすのでもない。何かと自分を比べて落ち込んで暗くなるという流れは、自分の心の中にしか存在しない。
人を呪いたくなるような、辛い運命の仕業というものもあるかもしれないが、他人に不幸にされた経験よりも、圧倒的に、自分で自分を不幸にしている経験のほうが多いのだ。運命は変えることができる。占いは確かにその人の頭の上を流れている運気を言い当てることができるけれど、だからそのとおりに進むわけではない。歩くのは運命ではなくて、人間である私たちだ。いくらでも、運命に戦いを挑むチャンスは用意されている。
でも、愚かな私は、運命に戦いを挑む前に、自分がもう駄目な人間なんだと烙印を押し、挑戦することすらやめてしまう。
劣等感をバネに這い上がることができるならば、まだ救いがあるが、劣等感に潰され、自分の人生を放棄するような諦めをしてしまったら、もう運命は変えられない。
私はまず「劣等感」の塊である自分を見つめなおそうと思っている。
そこから「だから私は駄目なんだ」という流れに流されてしまうことが、今までの私だった。
ただ、私は知ったのだ。「運命は変えられる。努力こそが大事なのだ。ひたむきに自分を信じることができるのかが問われる。」ことを。
不細工でブスでデブで、暗くて、たいした頭もない女だけれど、だからこそ見えてくるものがあるだろう。
ただ、面白いと思うのは、神様はたったひとつでも、その人に「好物」を与えてくださっているということ。
私は小さい頃からなぜか、書くことが大好きだった。兄に何もかもかなわなかったけれど、「お前は書くことが上手だな」と言われたことは良く覚えている。下手だったと思うけれど、書くときはいつも全力投球だった。書きあがった後の爽快感は幼い頃から今まで変わらずに私の中に存在している。
それに今まで救われてきた。数々の劣等感も。行き場のない思いも。
もし「書くこと」を誰かと比べ始めたら、私はもうとことん落ち込んでしまうだろう。書くことに関して、なぜか私は「下手でもいいから」という気持ちになれる。「下手でもいいから、正直に書こう」とアクセルが踏める。きっと、こんなに暗く考えてしまう私でさえこんな幸せな救いがあるのだから、人間誰もみんなそんな幸せな手段をちゃんと持って生まれてきているように思える。
劣等生だった自分の中で唯一の救い。
「下手でもいいから、一生懸命に書いてみよう。」という気持ちは、一つの生きるヒントだった。
私たちの内面には、現状を乗り越えて生きられるヒントがたくさん隠れている。
劣等感を山積みしていると、そのヒントに気づけなくなってしまう。
私は劣等感の塊だった自分を否定しない。
でも、これからもそうではいたくないと思う。
少なくとも「劣等感を極めました(笑)」といって卒業したい。
夏休みに入ったので、できるだけ普段はできないことをしたり、普段遊べない人たちと約束したりしようと動いています。そのうちの重要な部分を占めているのが、息子の幼稚園時代の友達です。
息子は三月生まれだったので、幼稚園に入るときは「とにかく融通が利く」「軍隊のような幼稚園は駄目」という部分で幼稚園を決めました。
決めた幼稚園は家のすぐ近くで、キリスト教系の幼稚園で、歴史があり、とても評判がいい幼稚園でした。入園前に遊んでいたお友達が「Hくん(息子の名前)には絶対あの幼稚園がいいよ。すごく合っていると思うよ。」と勧めてくれました。勧めてくれた友達は一番上の息子さんをその幼稚園に入園させていたのです。親子ともにとてもいい幼稚園時代を過ごさせて貰ったこと、園長先生の教育者としての姿勢や想いのことをよく教えてもらいました。ただ、そのお友達は、残念ながら入園前に引っ越してしまったのですが・・・。息子と下の娘さんは一緒に入園することができず、離れ離れになってしまいました。私をその幼稚園に導いてくださった方は、本当にとてもいいお母さんで、いつもニコニコしている心の優しい方でした。そんなお母さんが勧める幼稚園なら・・・間違いはないだろうと思って決めたのですね。
しかし、その幼稚園に入ってから、私の中でいろんな悩みが一気に吹き出ました。子供のことでいっぱいいっぱいになり、悩みで終わりそうになりました。なぜこの幼稚園がおススメなのか、なぜこの幼稚園が評判のいい幼稚園であるのか、理由がわからなくなってきました。転園も考えて、他の幼稚園の説明会にも出たことがあるくらいです。
現在の幼稚園事情とはちょっと時代遅れ?的な部分があったかもしれませんね。月曜日と金曜日は午前保育のみ(これは年長になってもそうでした)。火曜日から木曜日まではお弁当持参。給食はないです。夏休みなどは預かり保育などもなく、徒歩通学が基本。園バスはありません。必ず保護者は幼稚園に行かねばなりません。
行事の保護者の手伝いは、義務ではないにせよ、ほとんどのお母さんが手伝いに入ります。
月に一度の誕生日会のときは、その誕生日月のお母さんたちが手作りのおやつを作ってあげます。ちなみに三月は蒸しパンで、私は三年間蒸しパンを作りました。自分のお子さんが三月生まれでなくても、いろんなお母さんが手伝いに入ってくれました。蒸しパンの準備も用意も全部保護者が話し合って決めます。まさに煩わしいの極致にあるといっていいかもしれません。特に下に子供を抱えたお母さんが、こういった作業にも参加したりするのは大変です。妊婦さんだっています。人間関係が苦手なお母さんだっていると思います(私ですが)。そんな人は話し合いだの、準備だのでいつも幼稚園に行くのはすごく苦痛かもしれません。
園バスが迎えに来て、親が幼稚園に出向くこともほとんどない、給食がでて、園に体操教室や英語教室、スイミングスクールと提携があるといういわゆる今時の幼稚園とは、まったく正反対の幼稚園です。
毎日園で顔を合わせていれば、おのずといろんなお母さんがいることがわかります。子供の成長やそれぞれの性質も、見たくなくても見えてしまったりします。三月生まれでちっとも幼稚園になじめない甘えん坊息子のこと。生活レベルの違い。格差。うまくお母さんたちの輪に入れない自分。そんなものを送迎の一日二回見ていれば、幼稚園が苦痛になり、行事のたびに落ち込むような状態になってしまいます。
月曜日と金曜日が、11:30で幼稚園が終わってしまうというのも、すごく苦痛でした。そうなると「誰と遊ぶ」ということになるし、誘った、誘わない。そんな繊細なつきあい方がとても難しく、それが週に二日もあるのです。
でも・・・なぜ月曜日と金曜日が午前保育なのか。
子供は週末の疲れを月曜日に残しているし、金曜日は週の遊び疲れが出やすいからです。園で過ごすよりも、親と一緒に今この時をゆっくり過ごしてほしい、そんな想いが保育時間の短さに現れています。
私が苦手だった徒歩の送迎は、幼稚園の空気や先生たちと仲良くなってほしいという幼稚園側の想いであり、送迎をすれば、他の子供やお母さんたちとの交流も増え、いろんなことを学ぶことになります。自分の子供だけではなく、他の子の成長も三年間、つぶさにみることができます。
皮肉にも、在園している間、私はその利点に気づかないままでした。息子の追いつかない部分ばかりが目に入っていたせいです。息子は私を見ると飛びついてきてずっと抱っこです。そんな男の子は一人もいません(苦笑)。みんな園庭で遊びまわっています。めげました。何度も・・・。
なぜこの幼稚園がすばらしいといわれるのかわからない。何もないじゃないか。園庭は猫の額よりも狭く(都心ですから仕方ないです)特別な何かがあるわけではない。手間ばっかりかけて、母親が大変なだけじゃないか。人間関係が濃くて、失敗したら大変じゃないか。親がいろいろしなければ行事が回っていかないなんておかしいじゃないか。
この幼稚園はとにかく「手がかかる」のです。幼稚園に入れたからラクだったということは一回もなかった。心悩ます日々、親同士の絡み合いで悩む日々、子供の成長を比べて落ち込む日々。
でも、私が幼稚園の行事を手伝っている姿を見る息子の顔はとびっきり嬉しそうでした。何度も何度も私の顔を見ては手を降り、ニコニコしてくれました。蒸しパンをかじりつきながら、彼は安心して教室の中で座っていたのです。そして、他のお母さんたちが「Hくんはしっかりしてきたね」
「あの時は大変だったよね」「三月生まれだけど、一年生になっても大丈夫よ」って、それこそ恵みの雨のように、たくさんの励ましを受けました。毎日顔を合わせるということは、成長もまた同時に味わえるということだったんです。自分の子供だけではなく、他の子供たちの成長もまた一緒に祝うことができる。それは、母親としての成長でもあるのです。私の至らない部分や深い劣等感を埋めてくれるかのように、多くのお母さんたちが息子を温かいまなざしで見つめてくれました。
残念ながら、息子はみんなと一緒の小学校に通うことができず、一人別天地での小学校の入学でした。
どんなに心細かったことでしょう。
その小学校の入学式で幼稚園から祝電が、たったひとりの息子のためにわざわざ届けられていました。「こころをつよくしていなさい」という聖書の一節が祝電に書かれていました。この言葉で孤独だった息子の気持ちがどれほど救われたか。幼稚園のきめの細やかさを強く感じました。そしてその愛情溢れる保育の中で三年をすごした彼ならば、どんな環境でも耐え抜く力があるのだと、確信できました。
娘は保育園に入っています。息子の幼稚園とは180度違う世界で、お母さんたちとのややこしい関わりも、園の手伝いもまったくありませんし、見えないから成長の違いに悩むこともないのです。でも、あと何ヶ月か後にせまった娘の卒園式で、私は幼稚園と同じようにあらゆる思いに身がつまされて泣くことはできないでしょう。手をかけていないからかもしれません(ごめんね)。手をかけるということは、手間をかけるということ。そしてその間は苦労や悩みがつきまとっても、それだけ得るものは大きく、子供にとっても親にとっても、一生の宝となるのです。
小学校二年生になった息子。
そして私にとっての大切なママ友達は、幼稚園時代の友達です。まさか自分が人間関係を築けるとは夢にも思っていませんでしたが、濃い人間関係を泳ぐうち、自分にとって大事なものを共有できるもの、「類は友を呼ぶ」との諺のとおり、私にとってはもう一つ、育児という青春時代を送った戦友を幼稚園時代で得ることができました。
幼稚園バスのつきあいだったら、ここまでできなかったでしょうね。
卒業して初めて、「あの幼稚園でよかった」と思えるものをいっぱいいただきました。息子は新天地で、陰に隠れることなく、自分らしくマイペースに集団の中で生活できています。たまに幼稚園時代の友達に会うと、環境の違いなどまったく関係なく、違和感なく遊びます。彼にとってもまた、心の幼馴染なんでしょうね。「僕には心の安全基地がある。距離が離れていても、大好きな友達が僕にはいる。」そんな想いが彼の強さになっていると思うのです。それは、私にも言えることでした。
幼稚園を通して感じたものは、煩わしく、苦悩をともなう環境は、実はすごくありがたいものなのだということ。
私は自分が母として立ち向かった幼稚園時代の苦悩を一生忘れることはないと思います。ホントに、あの頃は暗い顔をしていて、月曜日と金曜日が大嫌いだった(苦笑)。でも、母親たちに手をかけさせたあの幼稚園でよかったと、自分をあの環境に導いてくれた出会いに感謝です。幼稚園は少子化が進み、経営が大変かもしれませんが、時代遅れだと笑われてもいいから、愛のある保育を貫いてほしいですね。
働いているので保育園の力を借りざるを得ないのですが、娘には息子ほど手をかけてあげていないので、それが私の心残りです。だからせめて、私だけでも彼女の心の基地になってあげないといけないな・・・って。
先日、幼稚園のお友達と遊ぶ機会が続きました。あのときの人間関係の苦悩が嘘のように、私にとってとてもかけがえないものをいただける関係ができました。そしてこれは、私にとって一生続いていく「基盤」になるのでしょう。いっぱい泣いて、いっぱい苦しんで・・・あの濃密な三年間はもう二度と来ません。
息子は三月生まれだったので、幼稚園に入るときは「とにかく融通が利く」「軍隊のような幼稚園は駄目」という部分で幼稚園を決めました。
決めた幼稚園は家のすぐ近くで、キリスト教系の幼稚園で、歴史があり、とても評判がいい幼稚園でした。入園前に遊んでいたお友達が「Hくん(息子の名前)には絶対あの幼稚園がいいよ。すごく合っていると思うよ。」と勧めてくれました。勧めてくれた友達は一番上の息子さんをその幼稚園に入園させていたのです。親子ともにとてもいい幼稚園時代を過ごさせて貰ったこと、園長先生の教育者としての姿勢や想いのことをよく教えてもらいました。ただ、そのお友達は、残念ながら入園前に引っ越してしまったのですが・・・。息子と下の娘さんは一緒に入園することができず、離れ離れになってしまいました。私をその幼稚園に導いてくださった方は、本当にとてもいいお母さんで、いつもニコニコしている心の優しい方でした。そんなお母さんが勧める幼稚園なら・・・間違いはないだろうと思って決めたのですね。
しかし、その幼稚園に入ってから、私の中でいろんな悩みが一気に吹き出ました。子供のことでいっぱいいっぱいになり、悩みで終わりそうになりました。なぜこの幼稚園がおススメなのか、なぜこの幼稚園が評判のいい幼稚園であるのか、理由がわからなくなってきました。転園も考えて、他の幼稚園の説明会にも出たことがあるくらいです。
現在の幼稚園事情とはちょっと時代遅れ?的な部分があったかもしれませんね。月曜日と金曜日は午前保育のみ(これは年長になってもそうでした)。火曜日から木曜日まではお弁当持参。給食はないです。夏休みなどは預かり保育などもなく、徒歩通学が基本。園バスはありません。必ず保護者は幼稚園に行かねばなりません。
行事の保護者の手伝いは、義務ではないにせよ、ほとんどのお母さんが手伝いに入ります。
月に一度の誕生日会のときは、その誕生日月のお母さんたちが手作りのおやつを作ってあげます。ちなみに三月は蒸しパンで、私は三年間蒸しパンを作りました。自分のお子さんが三月生まれでなくても、いろんなお母さんが手伝いに入ってくれました。蒸しパンの準備も用意も全部保護者が話し合って決めます。まさに煩わしいの極致にあるといっていいかもしれません。特に下に子供を抱えたお母さんが、こういった作業にも参加したりするのは大変です。妊婦さんだっています。人間関係が苦手なお母さんだっていると思います(私ですが)。そんな人は話し合いだの、準備だのでいつも幼稚園に行くのはすごく苦痛かもしれません。
園バスが迎えに来て、親が幼稚園に出向くこともほとんどない、給食がでて、園に体操教室や英語教室、スイミングスクールと提携があるといういわゆる今時の幼稚園とは、まったく正反対の幼稚園です。
毎日園で顔を合わせていれば、おのずといろんなお母さんがいることがわかります。子供の成長やそれぞれの性質も、見たくなくても見えてしまったりします。三月生まれでちっとも幼稚園になじめない甘えん坊息子のこと。生活レベルの違い。格差。うまくお母さんたちの輪に入れない自分。そんなものを送迎の一日二回見ていれば、幼稚園が苦痛になり、行事のたびに落ち込むような状態になってしまいます。
月曜日と金曜日が、11:30で幼稚園が終わってしまうというのも、すごく苦痛でした。そうなると「誰と遊ぶ」ということになるし、誘った、誘わない。そんな繊細なつきあい方がとても難しく、それが週に二日もあるのです。
でも・・・なぜ月曜日と金曜日が午前保育なのか。
子供は週末の疲れを月曜日に残しているし、金曜日は週の遊び疲れが出やすいからです。園で過ごすよりも、親と一緒に今この時をゆっくり過ごしてほしい、そんな想いが保育時間の短さに現れています。
私が苦手だった徒歩の送迎は、幼稚園の空気や先生たちと仲良くなってほしいという幼稚園側の想いであり、送迎をすれば、他の子供やお母さんたちとの交流も増え、いろんなことを学ぶことになります。自分の子供だけではなく、他の子の成長も三年間、つぶさにみることができます。
皮肉にも、在園している間、私はその利点に気づかないままでした。息子の追いつかない部分ばかりが目に入っていたせいです。息子は私を見ると飛びついてきてずっと抱っこです。そんな男の子は一人もいません(苦笑)。みんな園庭で遊びまわっています。めげました。何度も・・・。
なぜこの幼稚園がすばらしいといわれるのかわからない。何もないじゃないか。園庭は猫の額よりも狭く(都心ですから仕方ないです)特別な何かがあるわけではない。手間ばっかりかけて、母親が大変なだけじゃないか。人間関係が濃くて、失敗したら大変じゃないか。親がいろいろしなければ行事が回っていかないなんておかしいじゃないか。
この幼稚園はとにかく「手がかかる」のです。幼稚園に入れたからラクだったということは一回もなかった。心悩ます日々、親同士の絡み合いで悩む日々、子供の成長を比べて落ち込む日々。
でも、私が幼稚園の行事を手伝っている姿を見る息子の顔はとびっきり嬉しそうでした。何度も何度も私の顔を見ては手を降り、ニコニコしてくれました。蒸しパンをかじりつきながら、彼は安心して教室の中で座っていたのです。そして、他のお母さんたちが「Hくんはしっかりしてきたね」
「あの時は大変だったよね」「三月生まれだけど、一年生になっても大丈夫よ」って、それこそ恵みの雨のように、たくさんの励ましを受けました。毎日顔を合わせるということは、成長もまた同時に味わえるということだったんです。自分の子供だけではなく、他の子供たちの成長もまた一緒に祝うことができる。それは、母親としての成長でもあるのです。私の至らない部分や深い劣等感を埋めてくれるかのように、多くのお母さんたちが息子を温かいまなざしで見つめてくれました。
残念ながら、息子はみんなと一緒の小学校に通うことができず、一人別天地での小学校の入学でした。
どんなに心細かったことでしょう。
その小学校の入学式で幼稚園から祝電が、たったひとりの息子のためにわざわざ届けられていました。「こころをつよくしていなさい」という聖書の一節が祝電に書かれていました。この言葉で孤独だった息子の気持ちがどれほど救われたか。幼稚園のきめの細やかさを強く感じました。そしてその愛情溢れる保育の中で三年をすごした彼ならば、どんな環境でも耐え抜く力があるのだと、確信できました。
娘は保育園に入っています。息子の幼稚園とは180度違う世界で、お母さんたちとのややこしい関わりも、園の手伝いもまったくありませんし、見えないから成長の違いに悩むこともないのです。でも、あと何ヶ月か後にせまった娘の卒園式で、私は幼稚園と同じようにあらゆる思いに身がつまされて泣くことはできないでしょう。手をかけていないからかもしれません(ごめんね)。手をかけるということは、手間をかけるということ。そしてその間は苦労や悩みがつきまとっても、それだけ得るものは大きく、子供にとっても親にとっても、一生の宝となるのです。
小学校二年生になった息子。
そして私にとっての大切なママ友達は、幼稚園時代の友達です。まさか自分が人間関係を築けるとは夢にも思っていませんでしたが、濃い人間関係を泳ぐうち、自分にとって大事なものを共有できるもの、「類は友を呼ぶ」との諺のとおり、私にとってはもう一つ、育児という青春時代を送った戦友を幼稚園時代で得ることができました。
幼稚園バスのつきあいだったら、ここまでできなかったでしょうね。
卒業して初めて、「あの幼稚園でよかった」と思えるものをいっぱいいただきました。息子は新天地で、陰に隠れることなく、自分らしくマイペースに集団の中で生活できています。たまに幼稚園時代の友達に会うと、環境の違いなどまったく関係なく、違和感なく遊びます。彼にとってもまた、心の幼馴染なんでしょうね。「僕には心の安全基地がある。距離が離れていても、大好きな友達が僕にはいる。」そんな想いが彼の強さになっていると思うのです。それは、私にも言えることでした。
幼稚園を通して感じたものは、煩わしく、苦悩をともなう環境は、実はすごくありがたいものなのだということ。
私は自分が母として立ち向かった幼稚園時代の苦悩を一生忘れることはないと思います。ホントに、あの頃は暗い顔をしていて、月曜日と金曜日が大嫌いだった(苦笑)。でも、母親たちに手をかけさせたあの幼稚園でよかったと、自分をあの環境に導いてくれた出会いに感謝です。幼稚園は少子化が進み、経営が大変かもしれませんが、時代遅れだと笑われてもいいから、愛のある保育を貫いてほしいですね。
働いているので保育園の力を借りざるを得ないのですが、娘には息子ほど手をかけてあげていないので、それが私の心残りです。だからせめて、私だけでも彼女の心の基地になってあげないといけないな・・・って。
先日、幼稚園のお友達と遊ぶ機会が続きました。あのときの人間関係の苦悩が嘘のように、私にとってとてもかけがえないものをいただける関係ができました。そしてこれは、私にとって一生続いていく「基盤」になるのでしょう。いっぱい泣いて、いっぱい苦しんで・・・あの濃密な三年間はもう二度と来ません。
夏休みに入りました。でも我が家の日常は普段と変わりません。仕事をしていると子供は学童と保育園です。お弁当作りが仕事に加わりました。
元気に汗をかきながら家を出て行く子供たちを見送りながら、私は家で汗をかきかき仕事に入っています。
母の実家から桃が送られてきました。
母の実家も、私の実家も同じ市です。ふるさとの匂いがする宅急便に詰まっていたのはたくさんの桃でした。
でも、私は桃は食べられないんです(苦笑)。
味が嫌いではないんです。私にとっても桃は特別なもので、食べ物であって食べ物ではないというか・・・。
私の実家はずっと桃農家でした。
父も母も、いつも夏は桃の出荷に追われていて、私と二つ上の兄は、夏休みに行く場所は、桃畑とラジオ体操と学校のプールだけでした。夏休みは家のことや食事の支度を祖母と一緒に手伝って、兄は畑に借り出されて、
私たち兄妹は夏休み=労働、桃畑、というイメージしかなく、レジャーも観光地も一回も経験したことがありません。
それでも私はそれが普通だと思っていたし、「○○に行きたい」と言うことが許されないことは、親に言われなくても子供ながらにわかっていました。なので、兄と一緒に畑に行き、言われるままに手伝いをして、夏休みを過ごしていました。兄も、本当は手伝いたくなんかなかったと思います。桃は毛があるから、それが皮膚に触れるととてもかゆいので、仕事をするときは真夏なのに長袖を着用して仕事をします。それに、足元には、桃の色づきをよくするために「シルバー」と呼ばれる反射紙を引いていますから照り返しがきつく、鏡の上で作業をしているようなものです。
汗をたらしながら、早朝から作業をして出荷時間に間に合うように収穫します。私たちは桃を採るという重要な仕事は任せてもらえませんでした。
桃はとてもデリケートな食品なので、子供が雑に扱って手のあとがつくことを両親は嫌がったのですね。私たちはいつも両親のそばにいき、収穫した桃をうけとりコンテナに詰める作業を続けました。桃畑は南向きの急斜面にあり、いつも重い桃を持ちながらも足元はフラフラしていまいた。眼下には私たちの住む町が広がっており、目の前には中央道が走っていて、観光バスや行楽の車が行きかうのをただ黙って見ていました。
朝一番に畑に着くと、父は「てんぷら」と呼ばれる、桃の木のてっぺんにある一番美味しい桃を採ると、それをほおばっていました。生産者の唯一の特権ですよね。私は採れたてのものより、時間がたってやわらかくなった桃のほうが好きでしたが、桃に囲まれた生活をしていたので、桃を食べたいという気持ちになれなかったです。
田舎の中小企業に勤めていた父の給料だけでは子供の教育費などは賄えません。農業収入が我が家の中で大きな財源になっていたのですね。子供の頃はそれがわからなかったのですが、私や兄が大学に進学させていただけたのも、両親が桃や干し柿を一生懸命作ってくれて、それこそキツく、汚い仕事を雨が降ろうと頑張ってくれたおかげで進学できたのです。
兄は「桃のおかげで、俺たちは学校にいくことができるんだからな。」と言って、手伝いをしていました。長男だなと思います。高校生になっても朝桃畑の消毒に行くときは、登校前から手伝いに借り出されて、彼も嫌だったと思うのですが、それでも手伝ってから学校に行っていました。私も朝ごはんを任されていたので、みんなが畑でいない朝は私が朝ごはんを作る当番になっていました。
少なくとも、桃がなかったら進学もできませんでした。でも、桃を収穫するために、さまざまな家族のレジャーを一回も経験することなく私は大人になりました。父と母は、孫が5人になった年に、桃の木を全部切りました。体力の限界と、孫の世話をしながら桃を作ることはできないといって、干し柿一本の農家になりました。真夏に、居間でゴロゴロと横たわる両親を見ると、いまだに不思議な気がします。畑に桃がなっているような気がしてならないからです。真夏に両親が家の中にいることが、今でも違和感を感じてしまうんですよね。
私はよく義母から「夏休みなんだから一緒に出かけたり、いい思い出を作ってあげなさい。子供にさびしい想いをさせないで。」と言われます。
でも私自身が親と一緒にレジャーに出かけた経験を持たないのですが、私はそれを寂しいと思ったことはありません。つまらないとは思ったかもしれないけれど、でもその分、桃の収穫が終わったお盆にいとこ達が遊びに来てくれるのがものすごく嬉しかったし、兄と畑で桃を投げあったり、両親に作ったご飯を褒めてもらったり、祖父母と一緒に手伝いをしたことは、私にとっては宝物のような時間でした。おもちゃも買ってもらえなかったし、ごほうびもなかったけれど、でも「一生懸命働いてお金を得ることの大切さ」を私は両親の桃作りから学びました。思い出はないけれど、学びはあります。
特に兄なんかを見ていると、桃の手伝いに借り出されていたことが、今の彼の基盤に強い影響を与えているんじゃないかと思うことがよくあります。仕事観というべきか・・・。
兄とは「夏休みにどこかに連れて行ったもらった記憶はないけれど、あれがなかったら、自分たちは大学にいけなかった。」ということでよく話をしました。
一緒に手伝った夏はもう二度と来ません。
私は親になって、自分の親がしてきてくれたことがどれほど大変なものであったのかをはじめて本当の意味で知ることができました。
世の中のレジャーにいけるサラリーマン家庭をうらやましく思ったこともありましたが、甘い桃の味とは裏腹に、きつい作業を繰り返し、一生懸命私たちを育ててくれた両親のことを思い出してしまうので、桃は私にとって、親の愛情そのもので、尊くて、切なくて、食べられないのですね。
子供に物質的な幸せだけを与えればいいのかというと、やっぱりそうではないと思います。
一生懸命働いている姿を子供に見せたり、一緒に参加させてくれたことを今では本当に感謝しています。
もし、桃を食べるときがあったら、もう一度両親が私たちの学費のために作ってくれたあのときの桃を食べたいです。どんな高級な桃も、きっとその味にはかなわないだろうと思います。今となっては幻の桃ですけどね(笑)。
私の背中は、子供に何かを教えられるようなものになっているでしょうか?
夏休み、桃を見るとそんなことを考えています。
元気に汗をかきながら家を出て行く子供たちを見送りながら、私は家で汗をかきかき仕事に入っています。
母の実家から桃が送られてきました。
母の実家も、私の実家も同じ市です。ふるさとの匂いがする宅急便に詰まっていたのはたくさんの桃でした。
でも、私は桃は食べられないんです(苦笑)。
味が嫌いではないんです。私にとっても桃は特別なもので、食べ物であって食べ物ではないというか・・・。
私の実家はずっと桃農家でした。
父も母も、いつも夏は桃の出荷に追われていて、私と二つ上の兄は、夏休みに行く場所は、桃畑とラジオ体操と学校のプールだけでした。夏休みは家のことや食事の支度を祖母と一緒に手伝って、兄は畑に借り出されて、
私たち兄妹は夏休み=労働、桃畑、というイメージしかなく、レジャーも観光地も一回も経験したことがありません。
それでも私はそれが普通だと思っていたし、「○○に行きたい」と言うことが許されないことは、親に言われなくても子供ながらにわかっていました。なので、兄と一緒に畑に行き、言われるままに手伝いをして、夏休みを過ごしていました。兄も、本当は手伝いたくなんかなかったと思います。桃は毛があるから、それが皮膚に触れるととてもかゆいので、仕事をするときは真夏なのに長袖を着用して仕事をします。それに、足元には、桃の色づきをよくするために「シルバー」と呼ばれる反射紙を引いていますから照り返しがきつく、鏡の上で作業をしているようなものです。
汗をたらしながら、早朝から作業をして出荷時間に間に合うように収穫します。私たちは桃を採るという重要な仕事は任せてもらえませんでした。
桃はとてもデリケートな食品なので、子供が雑に扱って手のあとがつくことを両親は嫌がったのですね。私たちはいつも両親のそばにいき、収穫した桃をうけとりコンテナに詰める作業を続けました。桃畑は南向きの急斜面にあり、いつも重い桃を持ちながらも足元はフラフラしていまいた。眼下には私たちの住む町が広がっており、目の前には中央道が走っていて、観光バスや行楽の車が行きかうのをただ黙って見ていました。
朝一番に畑に着くと、父は「てんぷら」と呼ばれる、桃の木のてっぺんにある一番美味しい桃を採ると、それをほおばっていました。生産者の唯一の特権ですよね。私は採れたてのものより、時間がたってやわらかくなった桃のほうが好きでしたが、桃に囲まれた生活をしていたので、桃を食べたいという気持ちになれなかったです。
田舎の中小企業に勤めていた父の給料だけでは子供の教育費などは賄えません。農業収入が我が家の中で大きな財源になっていたのですね。子供の頃はそれがわからなかったのですが、私や兄が大学に進学させていただけたのも、両親が桃や干し柿を一生懸命作ってくれて、それこそキツく、汚い仕事を雨が降ろうと頑張ってくれたおかげで進学できたのです。
兄は「桃のおかげで、俺たちは学校にいくことができるんだからな。」と言って、手伝いをしていました。長男だなと思います。高校生になっても朝桃畑の消毒に行くときは、登校前から手伝いに借り出されて、彼も嫌だったと思うのですが、それでも手伝ってから学校に行っていました。私も朝ごはんを任されていたので、みんなが畑でいない朝は私が朝ごはんを作る当番になっていました。
少なくとも、桃がなかったら進学もできませんでした。でも、桃を収穫するために、さまざまな家族のレジャーを一回も経験することなく私は大人になりました。父と母は、孫が5人になった年に、桃の木を全部切りました。体力の限界と、孫の世話をしながら桃を作ることはできないといって、干し柿一本の農家になりました。真夏に、居間でゴロゴロと横たわる両親を見ると、いまだに不思議な気がします。畑に桃がなっているような気がしてならないからです。真夏に両親が家の中にいることが、今でも違和感を感じてしまうんですよね。
私はよく義母から「夏休みなんだから一緒に出かけたり、いい思い出を作ってあげなさい。子供にさびしい想いをさせないで。」と言われます。
でも私自身が親と一緒にレジャーに出かけた経験を持たないのですが、私はそれを寂しいと思ったことはありません。つまらないとは思ったかもしれないけれど、でもその分、桃の収穫が終わったお盆にいとこ達が遊びに来てくれるのがものすごく嬉しかったし、兄と畑で桃を投げあったり、両親に作ったご飯を褒めてもらったり、祖父母と一緒に手伝いをしたことは、私にとっては宝物のような時間でした。おもちゃも買ってもらえなかったし、ごほうびもなかったけれど、でも「一生懸命働いてお金を得ることの大切さ」を私は両親の桃作りから学びました。思い出はないけれど、学びはあります。
特に兄なんかを見ていると、桃の手伝いに借り出されていたことが、今の彼の基盤に強い影響を与えているんじゃないかと思うことがよくあります。仕事観というべきか・・・。
兄とは「夏休みにどこかに連れて行ったもらった記憶はないけれど、あれがなかったら、自分たちは大学にいけなかった。」ということでよく話をしました。
一緒に手伝った夏はもう二度と来ません。
私は親になって、自分の親がしてきてくれたことがどれほど大変なものであったのかをはじめて本当の意味で知ることができました。
世の中のレジャーにいけるサラリーマン家庭をうらやましく思ったこともありましたが、甘い桃の味とは裏腹に、きつい作業を繰り返し、一生懸命私たちを育ててくれた両親のことを思い出してしまうので、桃は私にとって、親の愛情そのもので、尊くて、切なくて、食べられないのですね。
子供に物質的な幸せだけを与えればいいのかというと、やっぱりそうではないと思います。
一生懸命働いている姿を子供に見せたり、一緒に参加させてくれたことを今では本当に感謝しています。
もし、桃を食べるときがあったら、もう一度両親が私たちの学費のために作ってくれたあのときの桃を食べたいです。どんな高級な桃も、きっとその味にはかなわないだろうと思います。今となっては幻の桃ですけどね(笑)。
私の背中は、子供に何かを教えられるようなものになっているでしょうか?
夏休み、桃を見るとそんなことを考えています。
日記の更新をしていませんでした・・・半月も・・・久しぶりにこんなに間を空けてしまった記録を更新かも。
でも今日の日記は近況報告で、占いでもレイキでも関係のない内容になってしまっています・・・。
書くこと、伝えたいことがうまく浮かばないというか、本当は何もないわけではなくって、いろいろあるんですよ。いろいろ凹んだり、気づいたり、一歩下がって二歩進む状態は前から変わりません。相変わらずすぎて、「またかよ?」って思われるかもしれませんが(^^)。
毎日、6時に朝眠いと思いつつ起き上がり、洗濯物を干して、保育園に汗をたらしながら送迎をし、家に帰ってきて仕事です。
先月からは夜の待機時間を入れるようになりました。心配していた子供の夜泣きも、今のところ大丈夫です。そのかわり次の日の朝に起きるのが地獄・・・(|||_|||)。でもまだ固定客が増えてこないので、夜の待機時間も長く感じられます。まあ、最初はこんなものでしょう。めげずにやっていきますよ。
気がつけばあさってで学校は夏休みに入るんですね。
わが子は夏休みといっても学童保育ですから、あまり休みという感覚はないですね。昨年はプールで大怪我をしたので、今年はそんなことがないように無事に終わってほしいです。私は毎日子供のためのお弁当作りという仕事が加わるので、それが勘弁してほしいな~~~(苦笑)。そのかわり、土日は予定がいっぱい詰まっています。私も付き添いに・・・インドアは許されないようです(涙)。
とりあえず生きています。
ここのところの原油高で、私の今月の目標は「いかに車を使わずに事を済ませるか」という節約モード全開です。今まで保育園までの送迎は車だったけれど、今はチャリです。山を越えるから、ものすごっく暑いんですよ~~。買い物も週に一回。別名ケチ子(爆)!!!。
でもここのところの暑さでさすがにクーラーなしでは辛くて、ケチ子としては無念のエアコン点火をしてしまいました・・・敗北感たっぷりに冷風を浴びました。でも都内で暮らしていた頃よりも、温度的に変わりないはずなのに涼しい気がします。
私のお仕事する部屋にはエアコンがなく、しかも締め切っています。鑑定中はそもそも熱が入るので暑くなるのですが、この夏はどんな熱地獄になるのか・・・。水分補給しながら頑張りますね~。
でも今日の日記は近況報告で、占いでもレイキでも関係のない内容になってしまっています・・・。
書くこと、伝えたいことがうまく浮かばないというか、本当は何もないわけではなくって、いろいろあるんですよ。いろいろ凹んだり、気づいたり、一歩下がって二歩進む状態は前から変わりません。相変わらずすぎて、「またかよ?」って思われるかもしれませんが(^^)。
毎日、6時に朝眠いと思いつつ起き上がり、洗濯物を干して、保育園に汗をたらしながら送迎をし、家に帰ってきて仕事です。
先月からは夜の待機時間を入れるようになりました。心配していた子供の夜泣きも、今のところ大丈夫です。そのかわり次の日の朝に起きるのが地獄・・・(|||_|||)。でもまだ固定客が増えてこないので、夜の待機時間も長く感じられます。まあ、最初はこんなものでしょう。めげずにやっていきますよ。
気がつけばあさってで学校は夏休みに入るんですね。
わが子は夏休みといっても学童保育ですから、あまり休みという感覚はないですね。昨年はプールで大怪我をしたので、今年はそんなことがないように無事に終わってほしいです。私は毎日子供のためのお弁当作りという仕事が加わるので、それが勘弁してほしいな~~~(苦笑)。そのかわり、土日は予定がいっぱい詰まっています。私も付き添いに・・・インドアは許されないようです(涙)。
とりあえず生きています。
ここのところの原油高で、私の今月の目標は「いかに車を使わずに事を済ませるか」という節約モード全開です。今まで保育園までの送迎は車だったけれど、今はチャリです。山を越えるから、ものすごっく暑いんですよ~~。買い物も週に一回。別名ケチ子(爆)!!!。
でもここのところの暑さでさすがにクーラーなしでは辛くて、ケチ子としては無念のエアコン点火をしてしまいました・・・敗北感たっぷりに冷風を浴びました。でも都内で暮らしていた頃よりも、温度的に変わりないはずなのに涼しい気がします。
私のお仕事する部屋にはエアコンがなく、しかも締め切っています。鑑定中はそもそも熱が入るので暑くなるのですが、この夏はどんな熱地獄になるのか・・・。水分補給しながら頑張りますね~。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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