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占い師としての成長日記
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久しぶりにブログです。
元気です。あ、でもつい先日まで溶連菌感染症と嘔吐の風邪ウイルスを娘からいただき、見事に倒れていました。最悪でしたね(笑)。


ブログに書きたいと思うことはあるのですが、なんとなくまとまらないままなんです。ものすごいスピードで自分の中に「これだ!これだよ!」と思えるような強いものがどんどん湧き上がってくるんですが、書こうとなると話は別なんですね。今まで気づきがあると、ブログに記載していたんですが、今回はなかなかまとめられなくて・・・。


最近、有名な方の名言集でこんな言葉を知りました。
「好きでやっている人にはかなわない。でも楽しいと思ってやっている人にはもっとかなわない。」


この言葉がすごくひっかかっていて、自分がもやもやした気持ちになりました。今の自分は占うことを楽しんでいないと自覚があったのです。
「好き」だけど、占いという世界に身を置きながら、どこかで苦しくてたまらなくて、ともするとどうすれば楽になれるのかということに重点を置いていたような気がしたんですね。今までの自分ではもう鑑定士として通用しないことを痛感していたからです。


でも、占い師ということだけではなく、ヒーラーとしても、一人の女性としても、私という人間が私でいることを、受け入れていないから、まず占いという分野で行き詰っているんです。


上手く書けなくて、なんだかもどかしいのですが・・・。


いろんな想いがあるけど、いつもフラフラしていたり、自分の発言に自信が持てなくて、どことなく不安をいつも抱えている自分も私だし、でも、それだけじゃなくて、これから伸びたいと思っている自分も私。
そんな私が、ただ人を裁くような血も涙もない冷たい鑑定を行ってしまってはいけないし、知識をひけらかすだけで終わるような鑑定を繰り返してしまったのは否定できない。
愛を持って自分のステージで自分の鑑定をすることが一番大切。


いろいろ考えているうちに、いつの間にか占えると言う幸せを感じられなくなっていたんですね。
タロットが苦手とか、いろんな相談に応じて自分がどうすればいいのかわからない、と言う風に、いつの間にか問題が「できない、足りない」の一点張りで。いつの間にか、自分の満足度ではなく、他人の評価によって自分は一喜一憂する事態に陥ってしまいました。自分が占いを楽しいとか、大好きだとか、愛を持って仕事をすればいいのに、人気とか、指名数に縛られて、大事なことを置き去りにしてきたんです。


そんなことをぐるぐる考えていました。正直言ってまだ上手にまとまらないんですが・・・。


でも、上手くまとまらないのだけど、まだこれは私の中の変化の途中経過のような気がしています。自分のことを書くのに、こんなにも戸惑ってしまうブログって今までなかったかもしれません。
ただ、毎日「これか!」と思うような、どきどきする発見があり、その途中ですね。これから、もっと自分の内面にある自信とか、自覚とか、そういったレベルのものに、ちゃんとたどり着かねばならない旅に入ったんだと思うんです。


今は連休中で、実家で竹の子三昧で、体内に竹が生えそうなくらい竹の子を食べていますが、これで充電完了したら、また帰省して毎日頑張れますよ。
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私はコーヒーが好きで毎日、必ず頂くことにしています。インスタントではなくて、ドリップ式で。でも、コーヒーメーカーを出すのも億劫なので、ブルックスの一人前ドリップ式のコーヒーを使っています。


お湯を注ぐだけで本格ドリップコーヒーのできあがり・・・。
ということなんですが、おいしくなるアドバイスとして、最初、お湯を少しだけ豆に注いだら2~30秒蒸らして、それからお湯を注ぐとさらに美味しさUP!!って包装紙の裏に書いてあるんですよね。


それがですね、私はその2~30秒が待てないんです(^^;;
早く飲みたいっ!20秒も待てるかっ!!ええぃ、一気にお湯注げ!!
・・・って勢いでコーヒーを作っていました。ちょっと待てば、蒸らしてから注げばより美味しくなるって言うことは、10代のアルバイト先で徹底的に教わってきているんです。知らないんではないんですね。ただ、待つのが面倒なんです。短気なんですね。気が短いからたかが20秒が待てない。だから、蒸し時間はなくいつもコーヒーを頂いてきました。


でもやっぱりブルックスのコーヒーにも「蒸らすと美味しさUP」って書いてある(笑)。


ここで無理やりお湯を注ぎまくっていた自分に少しブレーキをかけてみました。要は、ちょっと行動を変えてみたんですね。


「別にこのコーヒーに限ったわけじゃないけど、私ってほんのちょっとの停止時間が待てない人間なんだよね。もしかしたら、その20秒で、昨日よりものすごく美味しいコーヒーが飲めるかもしれないのに、わかっていながらそれを捨てちゃうなんてなんだかもったいないなあ。」なんて、「待つ」って苦手なんですが、その間、お皿を洗って待ったりすればいいんですから、コーヒーの前を離れて、ほかの事をして過ごすことにしました。
そうするとあっという間に30秒は過ぎてしまいます。逆に、蒸らしていることすら忘れそうです。


このコーヒーの蒸らし時間ではないけど、世の中って、自分も含め、こういうことって多々ありませんか?


目の前のことにとらわれているとき。答えを急いている時。
もしかしたらあと少しだけ気を紛らわしてみて、待つことができれば成就できるかもしれない恋愛のように。
彼からの電話やメールを祈るように待っているときと、コーヒーの蒸らし時間って似ているのかもしれません。


美味しいコーヒーを頂くにもヒントがあるように、ものの進め方は、焦ると駄目なんですよね。忙しい=心を亡くすではないけれど、焦って今まで得したことってあったかな?って、コーヒー一杯でいろいろ考えました。


最近は、ちゃんと蒸らしてから飲めるようになりました。
でも大事なのは蒸らせる時間を作るようにした自分がいることですね。
行動を変えれば、私の何かが確実に変わるのでしょう。
せっかちな部分は、行動的であるとはちょっと違うんですよね。たとえ20秒早くコーヒーを飲めたとしても、味が悪ければ心に響かないし、タイム的に効率よく進んでも、心が伴わないと物事が完成しないのでしょう。


20秒待ったから、その分コーヒーが美味しく感じられるって言うこともありますよね♪



娘が熱を出して休みました。
一日だけではなく、二日間も。ってことはイコール、仕事も休業です。


頭を抱えました。もう絶対穴を空けたくないと今月から気持ちも新たにスタートを切ったばかりだというのに。
でも私には、自分が休むことしか手段がありません。病気の子供を預かってくれる先も無いのですね。
こういう壁にぶち当たるたび、やりきれなさというか、一生懸命勤めたくても、それができない自分の環境にイラッときたりします。まあ、そんなこといってもどうしようもないですけどね(苦笑)。同じ働いていても、夫は仕事を休んだことは無いじゃない!と八つ当たりしたくなります。一度くらい病院に連れて行ってよ!と、毒が出てくるんですよ。子供が病気のときは、特に(苦笑)。


そんな日に限っていつもの小児科はお休みだし、新しい病院にいこうと思ったらナビが接続できないし、病院に着いたと思ったら、保険証を家に置き忘れることに気がついてしまうし・・・。散々です。
娘が熱で真っ赤な顔をしているのに、いろんなことをしても熱が下がらないので、途方も無い気持ちになったり、気持ちが本当にグラグラしてきますね。


でも・・・。
そこで気持ちがすさみ、愚痴っていたのが今までの自分でした。
たぶん友達に「聞いてよ」メールを送っていたでしょうね。
いつも送信する遠くの友人が二人いるのですが、彼女たちに「グチっていい?」というタイトルでメールを打っていたのですが、「グチっても、グチだけで終わってたら、もらうほうもテンションが下がるかなあ。」と考え直してしまいました。
自分の打ったメールの文章は、読んで「わかるわかる」と共鳴してもらえるような、かわいいものじゃなくて、もっと救いようの無いつぶやきのようなものにしか映らないんですね。
っていうか、友達だって、どう返せばいいのかわからないような私の文章・・・。


私はいろんな人から相談をいただいたりお話を聞くことが多い立場なのですが、最近思うんです。簡単に愚痴ってきたなって。
その場で感情的に我慢できなかったりすることを、つい誰かに聞いてほしくて、メールという便利なツールで吐き出してきたけど、私のグチは、決して明るくなかったし、誰かに希望を与えてくるものでもなかった。


あ、今こうやって書いているときに気づきました。


「他人のことは信じるのに、どうして自分を信じないの?自分のことを自分に打ち明ければいいじゃない」って。


生活をともにしていない第三者に「ああだ、こうだ」という自分の思いを簡単にうちあける前に、自分という大切な大切なたった一人の自分に、今の気持ちを話しなさいって言われました。


どんなときも、生まれてから死ぬまで私と言う人間はひとりじゃない。
それは、自分がいるから。こうやって行き詰ったときに、ふっとアドバイスをくれる自分がいるから。


今まで、いろんな友達のグチを聞いてきたし、グチもこぼしてきました。
でも、どうやらそういう段階は、今の私は卒業のようです。グチをこぼす段階は、もうピリオドを打つこと。グチって何が変わるのか、今まで変わったことがあったのか。気持ちを逸らしてきただけです。あ、でも人のグチは受け止めようと思いますよ(^^)。
友達に延々と書いたグチのメールは、送信する前に眠ってしまったので朝になって、携帯を見たら電池切れで、メールの文章は消えていました。
送らなくてよかったんだと思いました。


最近、友達とのメールのやりとりでいろいろ思うことがありました。
メールがあるから、私って簡単に愚痴っているなあと・・・。グチることで楽になるけど、でもまたそれを繰り返して・・・・。
友達とつながるのがグチなんて、友達をグチるときにしか求めないなんて、相手に失礼ですよね・・・。
私も、「私って一人なんだな」ってよく思うことがあります。そんなとき携帯のメールでつい送信してしまうことがある。友達がいてくれるから私はひとりじゃない、と思いたいのか。人恋しさから暴走するときがあります。


でも、人恋しいときにしか友達と語り合えない自分は、冷たいやつだな、と思うことも否定できなかったんですね。


「私は孤独なんだな」という類のグチは、誰にも救えないんです。
「お姑さんがこんなこと言った」「だんなが三日も風呂に入らない」というのは、それならいいんですよ。他人の言動だから、「そういう人もいるんだね~やっかいだね~」と励ませる。
でも「孤独で助けが無い」というグチは「私がいるから元気出して!」という言葉では絶対に救えない。本人の気づきだけが、救いになるのです。
私は一人でさびしい、ということを私はすぐに他人に打ち明けていたように思います。それだけ・・・弱かったんですよね。もっと自分の人生を自分の足で歩かなくちゃいけないのに、すぐに他人の人生に入り込んで自分の座るスペースを確保してもらおうとしていたんですね。


まず、自分の人生は自分が歩くこと。
当たり前なんですが、その自覚をようやく・・・(遅いよぅ!)。
孤独だからこそ、人は他人を求めるのかもしれませんが、自分を受け入れること、自分のことをまず自分が聞いてあげること。それができたら、「孤独かも・・・」という幻想に惑わされることは無いのでしょう。
ちょっと不思議なことです。


昨日、いつも保育園と学童の送迎は、夕方遅めなので車を使っていましたが、仕事が早く終わったので、運動もかねて、歩いてお迎えに行きました。歩くと大人の足で15分くらいですね。


学童にいる息子をピックアップして、次に保育園にいる娘を迎えにいきます。迎えにいった先の保育園で娘が妙なことを言い出しました。


「あのね、私のパンダのお守りが道に落ちてるの。」
「え?どうして?」
「拾って帰る。」
この時点では何を言いたかったのかまったくわからなかった私でした。


家に向かう道と学童館に続く道は途中まで一緒なのですが、その道の途中で娘が「あった!」といって、道に落ちていたお守りを拾いました。
このお守りは、子供たちに持たせている氏神様のこどもまもりで、確かにパンダの絵がかかれています。
でも、このお守りはいつも娘のリュックサックに入っていたはず・・・そう思い直し、いつもあるはずのリュックサックのポケットを探しても、お守りは出てきません。やはり、いつのまにか落としていたようです。
それを今日、保育園でお散歩に行く途中にみつけ、娘は自分のお守りだと思ったのでしょう。散歩だったので拾わずに帰ってきたようです。


もしかしたら、ほかのひとのお守りかもしれない・・・という思いがよぎりましたが、娘が「これは私のお守り」といい続けるので、「不思議な流れで帰ってきたのだからこれはきっと娘が落としたものだ。」という第六感的な予感がしました。いつも車で送り迎えをしていたら気がつかなかった。娘が昼間散歩でそこを通らなかったら落ちているのに気づかなかった。前日までの雨に濡れてしまっていたお守りは紙の部分がふにゃっとした肌触りでしたが、いつも娘を参拝に連れて行ったことを考えてみると、絶対にこのお守りは、娘を呼んでいたんじゃないかと思います。


まるでブーメランのように、戻ってきたお守りでした。


そして、家に帰ってきて娘がやけにゴロゴロしたがるので、熱を測ってみたらいきなり38度!!
この因果関係は何なのでしょうか(^^;;
明日から四月。
入学式はまだ来週だけど、息子の通う学童には明日から新一年生が一足先に入ってくるのです。

夕飯のとき「四月から一年生が入ってくるね~。二年生だからいろいろ教えてあげてね。」と、息子に言いました。
そしたら、息子がちょっと勢いのない発言。
「うん、でも俺負けちゃうかもしれない。」
「どうして?」
「だって俺、小さいから。」


息子が自分から、自分のことを「小さい」と言ったのは初めてかもしれません。


それだけ周りと自分、という意識が出てきたのでしょうか。


確かに、彼の背は低いです。どこに所属しても、クラスでもずっと一番前。道を歩いている人に「今度入学なの?」と言われることも。彼には、三月生まれだからね~と言い聞かせてきたけど、同じ三月生まれでも背の高い子は高い。
ただ、周囲を気にするということは「劣等感」が芽生えてきたということでもあるんでしょうね。


できるだけ、私としては「不安」という色を消したいと思って、とにかくしゃべりました。
「お母さんだって、中学生までは一番前だったよ~。それに、今度三年生になる子だって、二年生よりも小さい子いるでしょう?」
「うん。いる。」
「いろんな子がいるからね。背の低い子はHだけじゃないよ。それに、背はこれから伸びるし、毎日ワダカルシウム飲んでいるからバッチリだよ。今、体の中にたくさん伸びる栄養がたまっているんだからちゃんと大きくなるよ!」


息子の背が今後どうなるのかなんて、正直言って私もわかりません。
でも、大事なことは「小さい=弱い」「小さい=ダメ」という価値観を膨らましてはならないこと。世の中の流れがそういう大きなものをよしとする傾向がある中で、私は自分の価値観も同時に見直さねばなりません。
身長って、子供の世界の中で一番残酷なほどわかりやすい基準になっているかもしれません。ましてや男の世界は。


でも、「Hのお心が誰よりも大きいかが大事!」といつも励まして終わります。この手が幾つまで通用するかわからないけど・・・(苦笑)。


私は息子が私の元にやってきてからずっと考えていたことがあります。
何でこの子が私の子供なんだろう。この子は私を鍛えるために、自分が背負いたくもない「男のチビ」の看板を背負って来てくれたのかなって思うんです。しかも一番子育てに気合が入る最初の子が三月生まれで・・・。
比べて落ち込んだりすることが最も多いかもしれない。


ママが一番!と思ってくれている間は、「絶対大きくなるから大丈夫!」と魔法の呪文のように、言ってあげようと思います。もし、それでも小さいままでも、劣等感に負けないように、彼の他の魅力を引き出せるように、見守るしかないですよね。


息子の男の子という心の中に、男としての意識が芽生えてきたのですから、それは拍手だと思いますよ。いつか反抗されるとしても、それはそれで大切な道なんだから・・・。
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HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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