占い師としての成長日記
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私は子供には絶対に東京で一人暮らしをさせようと思っています。東京都在住なので、もったいないと思うんですが、でも私が東京の真ん中で得た体験や、孤独な日々はとても貴重で、いろんな意味で私を少しだけ成長させてくれました。
一番は親に感謝できるようになったこと。田舎が美しいと思えるようになったこと。それから、自分が一人になったとしても楽しめるようになれたこと。
同じ銀行とはいえ、支店が変われば、転職したようなものです。ましてや田舎暮らしの私VS現地採用の東京の人では、いろんな部分で相違点がありました。でも・・・それこそなじむために一生懸命だった自分がいたし、東京に出てきて始めた念願のシナリオの勉強が、私の孤独を薄めてくれました。夜なのにどこにいってもきらめくネオンで明るい東京の街に一人放り出されても、寂しいと思わなくなるのに何年かかったでしょうか。一人で映画を見に行き、一人で好きな街を歩いたり、ショッピングしたり・・・ラーメン屋でもファミレスでも一人で入れるようになりました。
それと同時に「気の合わない人と、ムリに一緒に行動しなくてもいいんだ」と思えるようになって、一人で行きたい場所には一人で、たまに一緒に行動する相手は気の置けない友達と、本当に自分のつきあいも深く、濃くできるようになりました。自分のスケジュールを大事にするというか・・・生きている時間を自分のために使うことが、これほど楽しいと思えたときはありません。
「ああ、私もなかなかやるなあ」と東京の街を一人でズンズン歩けるようになったとき、初めて孤独を楽しめるようになりました。孤独とは、とにかく避けたい逃げたいものだったのに、いまやその孤独が私を救ってくれるようになったのです。
でも結婚は絶対にしたいと思っていましたよ(爆)。それこそ田舎では出会えないようなかっちょいいお兄さんがわんさかいるので、もう夢だけは追ってました。この点は、独立しても落ち着かなかったですね。
残念ながら、そんなかっちょいいお兄さんと恋に落ちるわけもありません。だって、私の結婚したいという気持ちは、寂しいから結婚したいというよりも「早く楽になりたい。専業主婦になりたい」という意味だったんだから。
銀行の厳しい業務と、責任から逃げたかった。合わないと思える仕事を続ける気力が本当にありませんでした。でも、収入だけは27歳からぐっと上がったので、余計に辞める決断が鈍り、お金のためだけに居座っていたのです。誰かに養ってもらう未来を夢見て・・・(ホント、大富豪と結婚しない限りそれは難しいのに)。
根底に結婚願望はありました。しかし私の場合、絶対にこれは「結婚式願望」だったんです。20歳から30歳までの間、結婚式は30回くらい呼ばれましたよ。結婚を経験したことのない未婚女性があのイベントを見ると、猛烈に結婚願望が上がります。少なくとも私はそうでした。自分が結婚するときはああしたいな・・・いいなあ、いいなあ・・・何で私は彼氏ができないんだろうな。早く結婚して楽になりたいよという考えで頭が支配されているのです。
でも、そんなときに出会っても「恋に恋する」状態で、上手くいくわけないんです。私がそんな舞い上がっていた自分から覚めたのは、皮肉にも夫と結婚してからだったのです。こじれ始めて、初めて自分の過ちに気がついたのです。結婚とはどういうものなのかを、知ったのです。結婚とは相手に依存して楽になるイベントだと思っていたから招いた大失敗ですよ。
銀行を辞めたいために結婚したかった。
でも自分と結婚する相手なんて絶対いないと思い込んでいた。
だから、夫と出会った時、絶対に失いたくない、これが最後のチャンスだと思っていたんです。冷静に考えれば、「絶対いない」なんて、ありえないんですけどね。男性に関してまるで自分を失う私にとって、夫との関係にメスを入れるなんて真似は怖くてできませんでした。穏便に穏便に結婚にたどり着けばそれでいいと・・・。
自分が誰かにこの自分の人生を楽にしてもらおうと思ったら、それと同じくらいに重い十字架が私の背中に乗るのです。条件のいい依存状態などありえないんです。結局誰と一緒になっても、私の人生は私のものでしかない。結婚相手に衣食住関係は振り回されることになるけれど、それでも何を選ぶかという選択は私がしないと駄目なんですね。自分ひとりの身を経済的に自立させていくことだって非常に大変なことです。現に私はストレスで銀行にはもういられないと思っていました。でも辞めるきっかけがなく、次の仕事も見えないからただ居残ったんですね。結婚ならば、他の人に逃げだと後ろ指を指されないから、この手段が一番円満だと思ってた。
自分の経済的自立に伴う試練を受け容れられないから、男性にそれを背負わせて自分は楽に家で待っていたいという考えは、こうやって書くと、非常に稚拙だと思いませんか?社会で生き抜く辛さを十分知っていながら、自分はそれが嫌だから結婚に逃げるんですよ。女だからできる技かもしれませんが、ひどいことを言うと、相手を支えたいという気持ちではなく、ただただ、私の中には「早くこの環境から私を無傷で救い出して」という叫びしか存在していませんでした。
これって、やっぱり本当は気が合わなくて別れたいのに、切り出せず、転勤を理由に彼と別れたときの精神構造とまったく同じではなかったでしょうか。パターンというべきか。浅はか過ぎる理由を隠すための逃げ。これが私の姿でした。
本当に戦うべき相手は、己の中にある。
そのことをこのときの私が知っていたなら、気づいていたのなら、私の人生も、夫の人生も、もっともっと変わっていたのかもしれません。憎しみと殺意と呼ぶべき感情に覆われるような夫婦ではなかったかもしれません。
だからわかるのです。「気づきのある」人生と「気づきのない」人生はまったく違うものに変わることを。さまざまな局面に立たされたとき、問題は外にあるのではなく、自分の内側にあることを知り、それを認めるのなら、人生はきっと変わる。依存という言葉すら自身に当てはまることを考えず、ただ欲求を満たすために動いた自分が、今どれほどそのしっぺ返しを受けていることかも。
自分の人生を自分で歩く。
それがたとえ躓きの連続であっても、障害の連続でも。
「他の人にいい子だと思われたい」
「できると言われたい」
「嫌われたくない」
「一人になるのが怖い。寂しいのは嫌」
こう書くと良くわかると思うのですが、自分が主人公になっていません。全部他人の感受性に重きを置いている発言です。他人がどう感じるのかという視点は、自分がどう感じるのかという視点とはまったく違っていて、そこに主体性もなければ、責任感もありません。他人の印象のために自分が振り回され、次第に自分の感じる気持ちを殺してきたのですね。
「早く誰かと結婚して楽になりたい」
「寿退社なら誰にも文句を言われずに済む」
こんなことをずっと考えていた私は、相手を幸せにしてあげる義務が自分にあることもすっかり頭から抜け落ちていました。自分が幸せにしてもらうことしか考えていなかったことが、私の依存そのものでした。もらうことしか考えていなかったら、そりゃ、結婚をなめてますよね(爆)。
自分の心を使っていなかった私は、やがて「夢にまで見た結婚生活」に入ってから、その心を自分のために動かすときが来るのです。それは夫婦の危機という最も残酷な形で、わかりやすく訪れました。因果応報と言うけれど、私は自分の逃げてきたものから、一番襲われたくない形で、逆襲を受けた気がしますよ・・・。
一番は親に感謝できるようになったこと。田舎が美しいと思えるようになったこと。それから、自分が一人になったとしても楽しめるようになれたこと。
同じ銀行とはいえ、支店が変われば、転職したようなものです。ましてや田舎暮らしの私VS現地採用の東京の人では、いろんな部分で相違点がありました。でも・・・それこそなじむために一生懸命だった自分がいたし、東京に出てきて始めた念願のシナリオの勉強が、私の孤独を薄めてくれました。夜なのにどこにいってもきらめくネオンで明るい東京の街に一人放り出されても、寂しいと思わなくなるのに何年かかったでしょうか。一人で映画を見に行き、一人で好きな街を歩いたり、ショッピングしたり・・・ラーメン屋でもファミレスでも一人で入れるようになりました。
それと同時に「気の合わない人と、ムリに一緒に行動しなくてもいいんだ」と思えるようになって、一人で行きたい場所には一人で、たまに一緒に行動する相手は気の置けない友達と、本当に自分のつきあいも深く、濃くできるようになりました。自分のスケジュールを大事にするというか・・・生きている時間を自分のために使うことが、これほど楽しいと思えたときはありません。
「ああ、私もなかなかやるなあ」と東京の街を一人でズンズン歩けるようになったとき、初めて孤独を楽しめるようになりました。孤独とは、とにかく避けたい逃げたいものだったのに、いまやその孤独が私を救ってくれるようになったのです。
でも結婚は絶対にしたいと思っていましたよ(爆)。それこそ田舎では出会えないようなかっちょいいお兄さんがわんさかいるので、もう夢だけは追ってました。この点は、独立しても落ち着かなかったですね。
残念ながら、そんなかっちょいいお兄さんと恋に落ちるわけもありません。だって、私の結婚したいという気持ちは、寂しいから結婚したいというよりも「早く楽になりたい。専業主婦になりたい」という意味だったんだから。
銀行の厳しい業務と、責任から逃げたかった。合わないと思える仕事を続ける気力が本当にありませんでした。でも、収入だけは27歳からぐっと上がったので、余計に辞める決断が鈍り、お金のためだけに居座っていたのです。誰かに養ってもらう未来を夢見て・・・(ホント、大富豪と結婚しない限りそれは難しいのに)。
根底に結婚願望はありました。しかし私の場合、絶対にこれは「結婚式願望」だったんです。20歳から30歳までの間、結婚式は30回くらい呼ばれましたよ。結婚を経験したことのない未婚女性があのイベントを見ると、猛烈に結婚願望が上がります。少なくとも私はそうでした。自分が結婚するときはああしたいな・・・いいなあ、いいなあ・・・何で私は彼氏ができないんだろうな。早く結婚して楽になりたいよという考えで頭が支配されているのです。
でも、そんなときに出会っても「恋に恋する」状態で、上手くいくわけないんです。私がそんな舞い上がっていた自分から覚めたのは、皮肉にも夫と結婚してからだったのです。こじれ始めて、初めて自分の過ちに気がついたのです。結婚とはどういうものなのかを、知ったのです。結婚とは相手に依存して楽になるイベントだと思っていたから招いた大失敗ですよ。
銀行を辞めたいために結婚したかった。
でも自分と結婚する相手なんて絶対いないと思い込んでいた。
だから、夫と出会った時、絶対に失いたくない、これが最後のチャンスだと思っていたんです。冷静に考えれば、「絶対いない」なんて、ありえないんですけどね。男性に関してまるで自分を失う私にとって、夫との関係にメスを入れるなんて真似は怖くてできませんでした。穏便に穏便に結婚にたどり着けばそれでいいと・・・。
自分が誰かにこの自分の人生を楽にしてもらおうと思ったら、それと同じくらいに重い十字架が私の背中に乗るのです。条件のいい依存状態などありえないんです。結局誰と一緒になっても、私の人生は私のものでしかない。結婚相手に衣食住関係は振り回されることになるけれど、それでも何を選ぶかという選択は私がしないと駄目なんですね。自分ひとりの身を経済的に自立させていくことだって非常に大変なことです。現に私はストレスで銀行にはもういられないと思っていました。でも辞めるきっかけがなく、次の仕事も見えないからただ居残ったんですね。結婚ならば、他の人に逃げだと後ろ指を指されないから、この手段が一番円満だと思ってた。
自分の経済的自立に伴う試練を受け容れられないから、男性にそれを背負わせて自分は楽に家で待っていたいという考えは、こうやって書くと、非常に稚拙だと思いませんか?社会で生き抜く辛さを十分知っていながら、自分はそれが嫌だから結婚に逃げるんですよ。女だからできる技かもしれませんが、ひどいことを言うと、相手を支えたいという気持ちではなく、ただただ、私の中には「早くこの環境から私を無傷で救い出して」という叫びしか存在していませんでした。
これって、やっぱり本当は気が合わなくて別れたいのに、切り出せず、転勤を理由に彼と別れたときの精神構造とまったく同じではなかったでしょうか。パターンというべきか。浅はか過ぎる理由を隠すための逃げ。これが私の姿でした。
本当に戦うべき相手は、己の中にある。
そのことをこのときの私が知っていたなら、気づいていたのなら、私の人生も、夫の人生も、もっともっと変わっていたのかもしれません。憎しみと殺意と呼ぶべき感情に覆われるような夫婦ではなかったかもしれません。
だからわかるのです。「気づきのある」人生と「気づきのない」人生はまったく違うものに変わることを。さまざまな局面に立たされたとき、問題は外にあるのではなく、自分の内側にあることを知り、それを認めるのなら、人生はきっと変わる。依存という言葉すら自身に当てはまることを考えず、ただ欲求を満たすために動いた自分が、今どれほどそのしっぺ返しを受けていることかも。
自分の人生を自分で歩く。
それがたとえ躓きの連続であっても、障害の連続でも。
「他の人にいい子だと思われたい」
「できると言われたい」
「嫌われたくない」
「一人になるのが怖い。寂しいのは嫌」
こう書くと良くわかると思うのですが、自分が主人公になっていません。全部他人の感受性に重きを置いている発言です。他人がどう感じるのかという視点は、自分がどう感じるのかという視点とはまったく違っていて、そこに主体性もなければ、責任感もありません。他人の印象のために自分が振り回され、次第に自分の感じる気持ちを殺してきたのですね。
「早く誰かと結婚して楽になりたい」
「寿退社なら誰にも文句を言われずに済む」
こんなことをずっと考えていた私は、相手を幸せにしてあげる義務が自分にあることもすっかり頭から抜け落ちていました。自分が幸せにしてもらうことしか考えていなかったことが、私の依存そのものでした。もらうことしか考えていなかったら、そりゃ、結婚をなめてますよね(爆)。
自分の心を使っていなかった私は、やがて「夢にまで見た結婚生活」に入ってから、その心を自分のために動かすときが来るのです。それは夫婦の危機という最も残酷な形で、わかりやすく訪れました。因果応報と言うけれど、私は自分の逃げてきたものから、一番襲われたくない形で、逆襲を受けた気がしますよ・・・。
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まだまだ続く依存症の私の分解。もうしばらくお付き合いくださいませ。
今も女としての商品として自分を考えたら、どうしても顔にもスタイルにも自信が持てません。トークも・・・男性と向き合うとすごく緊張するんですよ。何でだろう?と思うくらいに。職場でも「承認印お願いします」とかは平気で言えるけれど、飲み会とかはすごく苦手でした。プライベートな話になると、何を話したらいいのかわからず、男性と向き合うこと自体が私には異常事態なんですよ。大げさな話じゃなく、コチコチになってしまうんです。
なのに恋愛はしたいと思うんですから、人間の欲望って、困りますよね。
だから男性と向き合うときはいつも「嫌われないためにどうすればいいのか」という方向性から向き合っていたのです。言うことを聞いていればいいと思っていましたし、我慢すれば何とかなると思っていました。それよりも孤独を貫くほうがよほど辛いと思っていたから。
自分を偽ってでも彼氏は欲しいわけです(爆)。そりゃあ、うまくいきっこありません。転勤前に付き合っていた男性もそうでした。今も「何であの人の彼女になろうと思ったんだろう?」彼に心が動いた形跡がないのに無理に彼女に昇格した自分。結局、私は「庇護されること」に高い望みを持っていて、付き合ったり結婚するってことが庇護そのものだと思っていたんです。誰かと一緒にいれば幸せになれると思っていたんです。でも・・・心の伴わない男女の付き合いはキツイだけでした。空しいんです。相手はすごく嬉しそうなのに、私はその笑顔を見ても全然嬉しくない。楽しくもなんともない。一緒にいるのにきつかった。でもそれを口にできないことがもっときつかった・・・。
そのキツイ関係に身をゆだねて満足感を捜し求めるほど、私自身の芯はグラグラだったんですね。
もちろんそこに「早く円満に銀行を辞めたい」という想いも絡んでいたし、友人たちが結婚する知らせが舞い込むたびに「私も早くここから抜け出したい」と焦りました。それが、私自身の素直な判断を狂わせ、誰かに救って貰える人生を追い求める結果に繋がったんです。今まで親が自分の人生を助けてくれていたように、結婚したら今度は自分の旦那様に自分の人生のフォローをして貰えるのだから、早くそうなりたいと急ぎ過ぎていました。
転勤を言い訳にして、彼と私の価値観の違いを棚に上げたまま東京に出てきてしまったことは、実はひとつの大きなミスでした。実はその放置こそが、今の夫と私の関係に大きな影を落としているからです。どうせ別れるのなら、最後は自分の思いをぶつけてちゃんと戦っておくべきでした。
私は「相手に嫌われたくない」という気持ちを別れる相手にまで持ち込んでしまったんです。裸の自分を見せたら嫌われる・・・別れる際にも自分は守りたいわけです。きれいごとで済ませようとしたからです。
ここで私の人生の課題は持ち越しになりました。
「自分が疑問を感じたり、違和感を感じたなら、相手に恐れずにぶつけてみること」これをできることもなく、田舎を出て行くことになりました。
夫とのねじれた関係がピークに達したとき、私の中でいつもいつも、この彼との別れが頭をよぎりました。これじゃあの時と同じだ、あの頃の自分と今の自分の基本は変わっていない。真剣に相手と向き合うことから逃げ回っているのは、他ならぬ自分をいい子に見せたいため。その逃げ回った結果が今の夫婦関係だとするのなら、私のしてきたこと、選んできたことは、間違いだらけですよ。
何が間違いなのかはもう再三書いているのですが・・・。
自分の守り方を間違っていたことです。相手を傷つけまいと思う気持ちを楯にしていますが、私は自分がいわゆる「いい子」でいたかっただけですよ。本当に守らなくてはならないのは「自分がどう感じたのか」という、私にしかないその感性であり、自分が自分であるための「私の想い」でした。もし私の感性が「それは嫌だ」と働いたのなら、それに従うべきなんです。きちんと言葉に出してね。
ぶっちゃけいうなら、友達が結婚しようが、彼氏ができようが関係ないと顔を上げて歩けばよかったんです。そんなものにいちいち振り回されて死ぬほど落ち込みまくり、友達の幸せも祝えず、自分の孤独を受け容れられずに、自分を好きになってくれた男性と好きでもないのに付き合って、結局不満もわがままも言えず、ぶつかることもなく逃げるように田舎から出てきた私なんですから。
これ、書いて読み直すと、ものすごい「やな女」ですよね。全然「いい子」じゃないじゃないですか。私が執着していた「いい子」の定義すらかなりずれています(苦笑)。
男は星の数ほどいるのだ、とよく言いますが、私はその星がすごくすごく遠くにいる存在で、絶対に自分のところには来ない星なんだと思い込んでいました。本当は希望を信じたかったのに、「駄目だ。私なんて駄目なんだ。結婚なんてできないんだ。一生独身かもしれない・・・(暗)」と毎日それこそ呪いの様に自分に言い聞かせていたのだから、全然上向きになれるわけないです。自立なんて、まったくできていません。っていうか、自立なんて考えてもいなかったと思われる言動です。男性に選ばれない自分=自分がダメダメ女だから。その方程式が固定化してました。ある意味、苦しい時代でした・・・。
誰かに頼る人生から誰の力も借りないで歩く人生をそのときちゃんと考えられていたら、今の私はもう少ししっかりしていたかも知れませよね(笑)。
それでも、こんな卑怯な逃げであっても、東京に出てきたことは私にとって非常に大きな分岐点になりました。
親がそばにいない。頼りにしてきた親がそばにいない。たったひとりだけ。
東京に親戚もおらず、高校時代の友達数人くらいしか当てがない、土地勘もない。ないない尽くしの東京生活は、ホントに寂しさの極地でした。女子寮だったのが幸いで、都内の同期がすごく良くしてくれたり、同じ頃に転勤で都内店に勤務となった総合職の女性の先輩にこう言われました。
「転勤して友達が減ることはないのよ。新しい店でも、前の店にも自分の知り合いが増える。そう考えればいいのよ。」
もちろん男っ気もない私の東京生活は、田舎では味わえなかった自由と、その裏返しの孤独を教えてくれるものでした。明らかに25歳の実家との分離をきっかけに、私は自分が「23歳で結婚、25歳で第一子、27歳で第二子を出産する」という浮ついた夢から覚めていくことができるようになりました。25で子供どころか、彼氏もいないって(爆)!!
それに田舎にいると「○△銀行に勤務・・・」と言えば、周囲の人がまるで水戸黄門の印籠を見せられたかのように「ハッハ~~」と道を開けてくれてさらにレッドカーペットを敷いてくれるかのような扱いだったのですね。公務員やNTTなど、合コンなんかはたくさんお誘いがありました。しかし、都内に出れば「○△銀行」て言っても、知ってる人なんて誰もいやしません。「何?それがどうしたの?」って感じです。もうお姫様なんかじゃありません。逆に銀行名を出したらこっちが説明しなくてはいけないのです。環境が変わってしまえば、エリートでもなんでもない、ただの人ですよ。それも私にとって、目が覚めるような現実でした。田舎にいれば、職場の看板だけで、私自身も「デキる人」と見てもらえたんですよ。でも、これも・・・間違いなくひとつの依存だったのです。
銀行の知名度なんて、所詮その世界だけの人にしか通用しないし、私の実力じゃないんですよね。「虎の威を借る狐」とはまさにこのことでした。それでも、転勤したおかげ?でこの銀行で更に居残ることになってしまいました・・・(苦笑)。辞めたいと思うことは多々ありました。しかし、東京で土地勘が出てきて、歩きたい場所に自分ひとりで行けるようになって来たとき、私の中で生まれて初めて「私に対する明らかな自信」が生まれてきたように思います。
長くなってしまっていますが・・・ごめんなさいね。
東京で暮らし始めて13年。田舎には田舎のよさがあり、帰りたいと思う気持ちは強くあるけれど、東京にいる私のほうが、努力家かもしれません。それはやっぱり田舎に帰ると私は娘に戻ってしまうからなんでしょうね。
とたんにだらしなくて、いろいろやってもらってしまう私に成り下がってしまいます。親には、実家を離れて初めて、いろいろ感謝できるようになりました。毎年秋の干し柿のお手伝いに参加するようになったのも、実は家を出てからなんです。親のために、娘としてできることはしたいと思えるようになったことは、独立のもたらした一つの成長といえるでしょう。
今も女としての商品として自分を考えたら、どうしても顔にもスタイルにも自信が持てません。トークも・・・男性と向き合うとすごく緊張するんですよ。何でだろう?と思うくらいに。職場でも「承認印お願いします」とかは平気で言えるけれど、飲み会とかはすごく苦手でした。プライベートな話になると、何を話したらいいのかわからず、男性と向き合うこと自体が私には異常事態なんですよ。大げさな話じゃなく、コチコチになってしまうんです。
なのに恋愛はしたいと思うんですから、人間の欲望って、困りますよね。
だから男性と向き合うときはいつも「嫌われないためにどうすればいいのか」という方向性から向き合っていたのです。言うことを聞いていればいいと思っていましたし、我慢すれば何とかなると思っていました。それよりも孤独を貫くほうがよほど辛いと思っていたから。
自分を偽ってでも彼氏は欲しいわけです(爆)。そりゃあ、うまくいきっこありません。転勤前に付き合っていた男性もそうでした。今も「何であの人の彼女になろうと思ったんだろう?」彼に心が動いた形跡がないのに無理に彼女に昇格した自分。結局、私は「庇護されること」に高い望みを持っていて、付き合ったり結婚するってことが庇護そのものだと思っていたんです。誰かと一緒にいれば幸せになれると思っていたんです。でも・・・心の伴わない男女の付き合いはキツイだけでした。空しいんです。相手はすごく嬉しそうなのに、私はその笑顔を見ても全然嬉しくない。楽しくもなんともない。一緒にいるのにきつかった。でもそれを口にできないことがもっときつかった・・・。
そのキツイ関係に身をゆだねて満足感を捜し求めるほど、私自身の芯はグラグラだったんですね。
もちろんそこに「早く円満に銀行を辞めたい」という想いも絡んでいたし、友人たちが結婚する知らせが舞い込むたびに「私も早くここから抜け出したい」と焦りました。それが、私自身の素直な判断を狂わせ、誰かに救って貰える人生を追い求める結果に繋がったんです。今まで親が自分の人生を助けてくれていたように、結婚したら今度は自分の旦那様に自分の人生のフォローをして貰えるのだから、早くそうなりたいと急ぎ過ぎていました。
転勤を言い訳にして、彼と私の価値観の違いを棚に上げたまま東京に出てきてしまったことは、実はひとつの大きなミスでした。実はその放置こそが、今の夫と私の関係に大きな影を落としているからです。どうせ別れるのなら、最後は自分の思いをぶつけてちゃんと戦っておくべきでした。
私は「相手に嫌われたくない」という気持ちを別れる相手にまで持ち込んでしまったんです。裸の自分を見せたら嫌われる・・・別れる際にも自分は守りたいわけです。きれいごとで済ませようとしたからです。
ここで私の人生の課題は持ち越しになりました。
「自分が疑問を感じたり、違和感を感じたなら、相手に恐れずにぶつけてみること」これをできることもなく、田舎を出て行くことになりました。
夫とのねじれた関係がピークに達したとき、私の中でいつもいつも、この彼との別れが頭をよぎりました。これじゃあの時と同じだ、あの頃の自分と今の自分の基本は変わっていない。真剣に相手と向き合うことから逃げ回っているのは、他ならぬ自分をいい子に見せたいため。その逃げ回った結果が今の夫婦関係だとするのなら、私のしてきたこと、選んできたことは、間違いだらけですよ。
何が間違いなのかはもう再三書いているのですが・・・。
自分の守り方を間違っていたことです。相手を傷つけまいと思う気持ちを楯にしていますが、私は自分がいわゆる「いい子」でいたかっただけですよ。本当に守らなくてはならないのは「自分がどう感じたのか」という、私にしかないその感性であり、自分が自分であるための「私の想い」でした。もし私の感性が「それは嫌だ」と働いたのなら、それに従うべきなんです。きちんと言葉に出してね。
ぶっちゃけいうなら、友達が結婚しようが、彼氏ができようが関係ないと顔を上げて歩けばよかったんです。そんなものにいちいち振り回されて死ぬほど落ち込みまくり、友達の幸せも祝えず、自分の孤独を受け容れられずに、自分を好きになってくれた男性と好きでもないのに付き合って、結局不満もわがままも言えず、ぶつかることもなく逃げるように田舎から出てきた私なんですから。
これ、書いて読み直すと、ものすごい「やな女」ですよね。全然「いい子」じゃないじゃないですか。私が執着していた「いい子」の定義すらかなりずれています(苦笑)。
男は星の数ほどいるのだ、とよく言いますが、私はその星がすごくすごく遠くにいる存在で、絶対に自分のところには来ない星なんだと思い込んでいました。本当は希望を信じたかったのに、「駄目だ。私なんて駄目なんだ。結婚なんてできないんだ。一生独身かもしれない・・・(暗)」と毎日それこそ呪いの様に自分に言い聞かせていたのだから、全然上向きになれるわけないです。自立なんて、まったくできていません。っていうか、自立なんて考えてもいなかったと思われる言動です。男性に選ばれない自分=自分がダメダメ女だから。その方程式が固定化してました。ある意味、苦しい時代でした・・・。
誰かに頼る人生から誰の力も借りないで歩く人生をそのときちゃんと考えられていたら、今の私はもう少ししっかりしていたかも知れませよね(笑)。
それでも、こんな卑怯な逃げであっても、東京に出てきたことは私にとって非常に大きな分岐点になりました。
親がそばにいない。頼りにしてきた親がそばにいない。たったひとりだけ。
東京に親戚もおらず、高校時代の友達数人くらいしか当てがない、土地勘もない。ないない尽くしの東京生活は、ホントに寂しさの極地でした。女子寮だったのが幸いで、都内の同期がすごく良くしてくれたり、同じ頃に転勤で都内店に勤務となった総合職の女性の先輩にこう言われました。
「転勤して友達が減ることはないのよ。新しい店でも、前の店にも自分の知り合いが増える。そう考えればいいのよ。」
もちろん男っ気もない私の東京生活は、田舎では味わえなかった自由と、その裏返しの孤独を教えてくれるものでした。明らかに25歳の実家との分離をきっかけに、私は自分が「23歳で結婚、25歳で第一子、27歳で第二子を出産する」という浮ついた夢から覚めていくことができるようになりました。25で子供どころか、彼氏もいないって(爆)!!
それに田舎にいると「○△銀行に勤務・・・」と言えば、周囲の人がまるで水戸黄門の印籠を見せられたかのように「ハッハ~~」と道を開けてくれてさらにレッドカーペットを敷いてくれるかのような扱いだったのですね。公務員やNTTなど、合コンなんかはたくさんお誘いがありました。しかし、都内に出れば「○△銀行」て言っても、知ってる人なんて誰もいやしません。「何?それがどうしたの?」って感じです。もうお姫様なんかじゃありません。逆に銀行名を出したらこっちが説明しなくてはいけないのです。環境が変わってしまえば、エリートでもなんでもない、ただの人ですよ。それも私にとって、目が覚めるような現実でした。田舎にいれば、職場の看板だけで、私自身も「デキる人」と見てもらえたんですよ。でも、これも・・・間違いなくひとつの依存だったのです。
銀行の知名度なんて、所詮その世界だけの人にしか通用しないし、私の実力じゃないんですよね。「虎の威を借る狐」とはまさにこのことでした。それでも、転勤したおかげ?でこの銀行で更に居残ることになってしまいました・・・(苦笑)。辞めたいと思うことは多々ありました。しかし、東京で土地勘が出てきて、歩きたい場所に自分ひとりで行けるようになって来たとき、私の中で生まれて初めて「私に対する明らかな自信」が生まれてきたように思います。
長くなってしまっていますが・・・ごめんなさいね。
東京で暮らし始めて13年。田舎には田舎のよさがあり、帰りたいと思う気持ちは強くあるけれど、東京にいる私のほうが、努力家かもしれません。それはやっぱり田舎に帰ると私は娘に戻ってしまうからなんでしょうね。
とたんにだらしなくて、いろいろやってもらってしまう私に成り下がってしまいます。親には、実家を離れて初めて、いろいろ感謝できるようになりました。毎年秋の干し柿のお手伝いに参加するようになったのも、実は家を出てからなんです。親のために、娘としてできることはしたいと思えるようになったことは、独立のもたらした一つの成長といえるでしょう。
前回からの続きですが、私の依存体質は、皮肉にも恵まれた環境のもたらした産物だったのかもしれませんね。小さい頃は、面倒見がいい二つ上の兄がなんでも手伝ったり、刺激を与えてくれました。私は兄の影響を思いっきり受けて、機動戦士ガンダム(初代!)とか週間少年ジャンプとか、そのころの流行も兄からそのまま流れてきたし、自らの流れを作り出すという作業をしてこなかったんです。そういえば兄に影響を受けることはあっても、兄に影響を与えるようなことは今まで一切なかったなあ・・・。
高校生の頃の親友はほとんどが長女。それだけ私は「庇護してくれる」タイプのお友達とウマが合ったのかもしれません。
短大を卒業し、言われるがままに入った銀行に最終的には10年間勤めました。当時としては長かったかもしれませんね。でもただでさえ便秘症で苦労していたのに、銀行に勤めている間は週末のみの便通くらいしかないほどストレスに追い詰められ、銀行辞めたいが私の口癖でした。でもコネで入ったら結婚以外の理由で辞めたら、それこそ父親のつながりで口利きをしてくれた関係に笑われると思ってできませんでした。本当に私って・・・見栄っ張りですよね(^-^;。決断もできないし、やめるときに「周囲にどう思われるか」しか考えていないわけですよ。しかも矛盾していますが、そのくせ銀行で一目置かれたくて、試験勉強も、資格取得も片っ端から挑戦していました。銀行でキャリアアップしたくて受けるんじゃないんです。「認めてもらいたくて、すごいねって言われたくて」受けていたんです。でも、受けた理由は不純でしたが、実際に試験をクリアしたり、資格を手にすると、今まで味わったことのないような自分だけの力になってくることも、同時に教わりました。「なんだ。やればできるじゃないか。」って。
25歳で大転機が訪れました。田舎の支店から、都内店への転勤です。ありえない転勤が自分の手の中にチャンスとして訪れました。
しかし・・・裏では、自分の恋愛の行き詰まりがこの転勤を後押ししていたのですね。今回初めて書く内容かもしれませんが。実はそのころ、地元の7つ上の男性とお付き合いをしていました。彼はすごく私のことを気に入ってくれていました。でも両親は相手のことが気に入らなくて、ものすごい反対をしていました(彼がお酒を飲んだあと車を運転して私を家に送り届けたことがきっかけです。飲酒運転バリバリじゃないですか。大反対を受けました。)。じゃあ、肝心の私の気持ちは・・・・。
私は自分に自信がない人間でしたので、自分を好きだといってくれる人が現れること自体が奇跡だと思っていたのです。だから彼のことが大事であって、彼そのものを好きなわけではなかった。こういう男性はもう現れないと思ったからこそ、保険のようにそばに置いておきたかっただけで、私の心が強く求めていたわけではないんですね。好きだと思える相手は別にいたんです。でも絶対にその人は私のことなど振り向いてもくれなくて、ずっと片思いでしかなかったから、私はそれに耐え切れず、自分を好きだと言ってくれる相手に気を許したのでしょう。彼は私のことを友達に紹介したりして、本気で将来のことも考えていたと思うのですが、でも時折見せる度を越した強引過ぎるところは、私は違和感を覚えていたんです。しかし、その違和感を感じたとき、私はそれを言えなかった。「私はこうして欲しいんだけれどな・・・」って思う気持ちをいつもいつも、胸に押し込んできました。いわゆる我慢が、彼との関係の中にありました。でもそれを口に出せなかったんです。それを口にして、責められるのが怖くて、言い出せませんでした。それは常に人目を気にして、自分の気持ちを封印するような時代の両親や祖父母と同居してきた環境がもたらしたものかもしれませんが、言い争うことが怖かった私の弱さの何よりの象徴でもありました。
今の私ならその言い争いも必要な葛藤だと思えるのに。
だから私は、自分も相手も納得し、相手に不満をぶつけないでフェイド・アウトできる別離の方法を転勤という渡し舟に乗っけてしまったのです。
東京に出てしまえば、この人とこのまま一緒になる未来は自然に避けられる。しかも周囲も「遠距離なら仕方ない」と納得がいくはず。
(これがほんの10年ちょっと前の自分の考えだなんて、恐ろしく稚拙で、書いていると汗が吹き出そうです・苦笑)
本当にすべき方法は、彼にちゃんと「どうしても好きだと思えない」理由を話し合ったり、打ち明けたりして、傷を負ってでも関係を作るべきだったのかもしれません。合わないと思ったのなら、それなりに断るべきでした。でもそれができなかったのはひとえに、ひとりになれない弱さがあったからです。これこそが自立できていない私の素の姿でもありました。
それは・・・夫との関係においても、結婚前に違和感を感じ、不穏な影に気づいていることがありながら目を伏せていたことで私は過ちを繰り返しています。二度もやってしまいました。結局根底には「私は愛される価値のない女なんだ。だからこの男性を失ったら私はもう終わりなんだ。」という強い自己否定がからんでいます。その気持ちがすべてを歪ませていませんか?
じゃあその強い自己否定はどこからくるのか?
私は三世代同居で、両親にはとてもかわいがってくれたと思います。忙しい中でも。一緒に遊んでもらうことが少なくても、両親の愛の不足を感じたことはないのですが・・・。私は父親にそっくりだったこともあって、父は私のことを本当によくかわいがってくれました。だから親の愛情の不足が原因とは一概に当てはまらないような気がするんですね。両親は忙しかったですが、代わりに私を大事にしてくれる存在がいました。今の時代よりずっと親類や近所の人たちとの繋がりも密でしたし、祖父母もいましたから(でも思い出せないだけで、忙しかった両親に不満があったのかもしれませんね)。
でも私としてはその父にそっくりな重い一重まぶたが大嫌いで大嫌いで、目が腫れていて、蚊にさされたようなまぶたを持つ自分の顔が嫌いです。
あと顔の中央に居座る大きなホクロ。それから小さい頃から丸々としていて、肥満児のエリアにいつも足を突っ込んでいた自分の「女としての価値」に、私は限りなく絶望していました。今もそうですけれど(爆)。
小学4年の頃、初恋の男の子が転校してしまうとき、当時同じ班だった私と彼は班毎にお別れの写真を撮影することになったのです。班のみんなで肩を組んで、一列になった状態で撮影するのですが、女の子と男の子のつなぎ目は私と彼でした。男の子と肩を組むのには何の抵抗もない彼が、肩をつなぐ女子が私だとわかったとき、明らかに「え?!」という戸惑いの表情を見せました。「お前かよ・・・」ってそんなニュアンスで言われてしまったんですね。「ああ、彼は私と組みたくないんだな。」ってすごくショックでした。なかなか彼が腕を組んでくれず、でも組まないわけには行かないと思ったのか、ガッチリではないけれど、肩をちょっとだけ組んで、写真を撮った瞬間にすぐに離されました。これが女としての記憶の中で一番最初に受けたショックですね。
その後も席替えや遊びのさなかにのときなんかに、男子から「げーお前が隣かよ。」的なことをいわれたことがあったので、そういった積み重ねや鏡を見るたびの劣等感が積み重なって、女としての自分は、男にとって受け容れられないタイプなんだ・・・と思うようになってしまったんです。
一緒に住んでいた肉親は私をかわいがってくれたけれど、この顔、この身体を自分が気に入ってなくて、本当に嫌だと思っていた時間が長すぎましたね・・・。女としての「私はかわいくない。」という屈折した気持ちが、今後の恋愛に影響を与えていったのは確かです。
小学校一年のときの記憶ってもう曖昧な部分がありますが、私の中で鮮やかに思い出せる唯一の記憶は、クラスの中でとってもかわいらしくて、大人びた表情を持っていた、ある女の子に対する憧憬です。「なんてかわいいの!」そういう目で同級生を見ていたということは、小学校一年であっても女同士でそういった「ビジュアル」に対しての意識が強くあったのですね。もう勝負(比較して落ち込むこと)に足を突っ込んでいる。その女の子はすぐに転校してしまったけれど、今でも名前も顔もはっきりと思い出せますよ。それだけ私は、かわいい、かわいくない、ということに敏感だったはずなんです。
女としての自信のなさ、それから男性と向き合うことへの恐れが私を東京へと導いたのは皮肉かもしれません。だから修行に出されたと解釈すべきなのか。
東京への転勤希望を出したと打ち明けたとき、「じゃあ、それは別れるってことだよな」とものすごい勢いで怒られ、告げたその夜に別れることになりました。「遠距離なんかできると思っているのか。」「なんで言わなかったんだ。」「俺はもう女なんか信じられない。」って。私は最後まで「本当はあなたのこと、心から好きになれなかった。」と言えず、転勤を隠れ蓑にして別れました。それは私がずっと隠してきた、私のひとつの罪かもしれません。
どんな相手と向き合っても、どんなに好きな相手であっても、価値観の違いからもたらされる「違和感」はあるはずです。そのときに相手を失いたくないと思うと、その違和感に手をつけるのを拒みたくなりますが、本当はそれが解決ではなく、違和感を感じたとき、どう動くのかで人生の流れはまったく変わったものになります。私は逃げてきたんです。自分で決断するということができなかったから。自分の言葉に責任を持つことが重荷だったから。たとえこのように相手と通じ合っていないとハッキリ把握しながらも、自分が自分の心から逃げることも、自立していないことなんですよ。
つきあっているという形で孤独からは免れます。依存というか、アクセサリーのような恋人関係にすがるしかなかった心の貧弱さが、私の弱さだったのでしょうね。貧弱という文字には弱いという字が入ります。
ああ・・・自分の弱さの原因を追求していくと、次から次へと、思いがけない気づきが起こりますね。それは私自身をスケッチしていく作業と似ています。まだまだ続きます。
高校生の頃の親友はほとんどが長女。それだけ私は「庇護してくれる」タイプのお友達とウマが合ったのかもしれません。
短大を卒業し、言われるがままに入った銀行に最終的には10年間勤めました。当時としては長かったかもしれませんね。でもただでさえ便秘症で苦労していたのに、銀行に勤めている間は週末のみの便通くらいしかないほどストレスに追い詰められ、銀行辞めたいが私の口癖でした。でもコネで入ったら結婚以外の理由で辞めたら、それこそ父親のつながりで口利きをしてくれた関係に笑われると思ってできませんでした。本当に私って・・・見栄っ張りですよね(^-^;。決断もできないし、やめるときに「周囲にどう思われるか」しか考えていないわけですよ。しかも矛盾していますが、そのくせ銀行で一目置かれたくて、試験勉強も、資格取得も片っ端から挑戦していました。銀行でキャリアアップしたくて受けるんじゃないんです。「認めてもらいたくて、すごいねって言われたくて」受けていたんです。でも、受けた理由は不純でしたが、実際に試験をクリアしたり、資格を手にすると、今まで味わったことのないような自分だけの力になってくることも、同時に教わりました。「なんだ。やればできるじゃないか。」って。
25歳で大転機が訪れました。田舎の支店から、都内店への転勤です。ありえない転勤が自分の手の中にチャンスとして訪れました。
しかし・・・裏では、自分の恋愛の行き詰まりがこの転勤を後押ししていたのですね。今回初めて書く内容かもしれませんが。実はそのころ、地元の7つ上の男性とお付き合いをしていました。彼はすごく私のことを気に入ってくれていました。でも両親は相手のことが気に入らなくて、ものすごい反対をしていました(彼がお酒を飲んだあと車を運転して私を家に送り届けたことがきっかけです。飲酒運転バリバリじゃないですか。大反対を受けました。)。じゃあ、肝心の私の気持ちは・・・・。
私は自分に自信がない人間でしたので、自分を好きだといってくれる人が現れること自体が奇跡だと思っていたのです。だから彼のことが大事であって、彼そのものを好きなわけではなかった。こういう男性はもう現れないと思ったからこそ、保険のようにそばに置いておきたかっただけで、私の心が強く求めていたわけではないんですね。好きだと思える相手は別にいたんです。でも絶対にその人は私のことなど振り向いてもくれなくて、ずっと片思いでしかなかったから、私はそれに耐え切れず、自分を好きだと言ってくれる相手に気を許したのでしょう。彼は私のことを友達に紹介したりして、本気で将来のことも考えていたと思うのですが、でも時折見せる度を越した強引過ぎるところは、私は違和感を覚えていたんです。しかし、その違和感を感じたとき、私はそれを言えなかった。「私はこうして欲しいんだけれどな・・・」って思う気持ちをいつもいつも、胸に押し込んできました。いわゆる我慢が、彼との関係の中にありました。でもそれを口に出せなかったんです。それを口にして、責められるのが怖くて、言い出せませんでした。それは常に人目を気にして、自分の気持ちを封印するような時代の両親や祖父母と同居してきた環境がもたらしたものかもしれませんが、言い争うことが怖かった私の弱さの何よりの象徴でもありました。
今の私ならその言い争いも必要な葛藤だと思えるのに。
だから私は、自分も相手も納得し、相手に不満をぶつけないでフェイド・アウトできる別離の方法を転勤という渡し舟に乗っけてしまったのです。
東京に出てしまえば、この人とこのまま一緒になる未来は自然に避けられる。しかも周囲も「遠距離なら仕方ない」と納得がいくはず。
(これがほんの10年ちょっと前の自分の考えだなんて、恐ろしく稚拙で、書いていると汗が吹き出そうです・苦笑)
本当にすべき方法は、彼にちゃんと「どうしても好きだと思えない」理由を話し合ったり、打ち明けたりして、傷を負ってでも関係を作るべきだったのかもしれません。合わないと思ったのなら、それなりに断るべきでした。でもそれができなかったのはひとえに、ひとりになれない弱さがあったからです。これこそが自立できていない私の素の姿でもありました。
それは・・・夫との関係においても、結婚前に違和感を感じ、不穏な影に気づいていることがありながら目を伏せていたことで私は過ちを繰り返しています。二度もやってしまいました。結局根底には「私は愛される価値のない女なんだ。だからこの男性を失ったら私はもう終わりなんだ。」という強い自己否定がからんでいます。その気持ちがすべてを歪ませていませんか?
じゃあその強い自己否定はどこからくるのか?
私は三世代同居で、両親にはとてもかわいがってくれたと思います。忙しい中でも。一緒に遊んでもらうことが少なくても、両親の愛の不足を感じたことはないのですが・・・。私は父親にそっくりだったこともあって、父は私のことを本当によくかわいがってくれました。だから親の愛情の不足が原因とは一概に当てはまらないような気がするんですね。両親は忙しかったですが、代わりに私を大事にしてくれる存在がいました。今の時代よりずっと親類や近所の人たちとの繋がりも密でしたし、祖父母もいましたから(でも思い出せないだけで、忙しかった両親に不満があったのかもしれませんね)。
でも私としてはその父にそっくりな重い一重まぶたが大嫌いで大嫌いで、目が腫れていて、蚊にさされたようなまぶたを持つ自分の顔が嫌いです。
あと顔の中央に居座る大きなホクロ。それから小さい頃から丸々としていて、肥満児のエリアにいつも足を突っ込んでいた自分の「女としての価値」に、私は限りなく絶望していました。今もそうですけれど(爆)。
小学4年の頃、初恋の男の子が転校してしまうとき、当時同じ班だった私と彼は班毎にお別れの写真を撮影することになったのです。班のみんなで肩を組んで、一列になった状態で撮影するのですが、女の子と男の子のつなぎ目は私と彼でした。男の子と肩を組むのには何の抵抗もない彼が、肩をつなぐ女子が私だとわかったとき、明らかに「え?!」という戸惑いの表情を見せました。「お前かよ・・・」ってそんなニュアンスで言われてしまったんですね。「ああ、彼は私と組みたくないんだな。」ってすごくショックでした。なかなか彼が腕を組んでくれず、でも組まないわけには行かないと思ったのか、ガッチリではないけれど、肩をちょっとだけ組んで、写真を撮った瞬間にすぐに離されました。これが女としての記憶の中で一番最初に受けたショックですね。
その後も席替えや遊びのさなかにのときなんかに、男子から「げーお前が隣かよ。」的なことをいわれたことがあったので、そういった積み重ねや鏡を見るたびの劣等感が積み重なって、女としての自分は、男にとって受け容れられないタイプなんだ・・・と思うようになってしまったんです。
一緒に住んでいた肉親は私をかわいがってくれたけれど、この顔、この身体を自分が気に入ってなくて、本当に嫌だと思っていた時間が長すぎましたね・・・。女としての「私はかわいくない。」という屈折した気持ちが、今後の恋愛に影響を与えていったのは確かです。
小学校一年のときの記憶ってもう曖昧な部分がありますが、私の中で鮮やかに思い出せる唯一の記憶は、クラスの中でとってもかわいらしくて、大人びた表情を持っていた、ある女の子に対する憧憬です。「なんてかわいいの!」そういう目で同級生を見ていたということは、小学校一年であっても女同士でそういった「ビジュアル」に対しての意識が強くあったのですね。もう勝負(比較して落ち込むこと)に足を突っ込んでいる。その女の子はすぐに転校してしまったけれど、今でも名前も顔もはっきりと思い出せますよ。それだけ私は、かわいい、かわいくない、ということに敏感だったはずなんです。
女としての自信のなさ、それから男性と向き合うことへの恐れが私を東京へと導いたのは皮肉かもしれません。だから修行に出されたと解釈すべきなのか。
東京への転勤希望を出したと打ち明けたとき、「じゃあ、それは別れるってことだよな」とものすごい勢いで怒られ、告げたその夜に別れることになりました。「遠距離なんかできると思っているのか。」「なんで言わなかったんだ。」「俺はもう女なんか信じられない。」って。私は最後まで「本当はあなたのこと、心から好きになれなかった。」と言えず、転勤を隠れ蓑にして別れました。それは私がずっと隠してきた、私のひとつの罪かもしれません。
どんな相手と向き合っても、どんなに好きな相手であっても、価値観の違いからもたらされる「違和感」はあるはずです。そのときに相手を失いたくないと思うと、その違和感に手をつけるのを拒みたくなりますが、本当はそれが解決ではなく、違和感を感じたとき、どう動くのかで人生の流れはまったく変わったものになります。私は逃げてきたんです。自分で決断するということができなかったから。自分の言葉に責任を持つことが重荷だったから。たとえこのように相手と通じ合っていないとハッキリ把握しながらも、自分が自分の心から逃げることも、自立していないことなんですよ。
つきあっているという形で孤独からは免れます。依存というか、アクセサリーのような恋人関係にすがるしかなかった心の貧弱さが、私の弱さだったのでしょうね。貧弱という文字には弱いという字が入ります。
ああ・・・自分の弱さの原因を追求していくと、次から次へと、思いがけない気づきが起こりますね。それは私自身をスケッチしていく作業と似ています。まだまだ続きます。
運動会が終わる頃に晴れ間が見え始めました(∋_∈)保育園最後の運動会、娘は大張り切り。来年は小学校のグランドで駆け回ってくれるのでしょう。親子でヒップホップを踊り、私も頑張りました(笑)実家の母が来てくれたので、運動会が終わった後、足を伸ばして多摩御陵へ。御陵とは大正、昭和天皇と皇后様のお墓ですが、その緑の多さと、雨上がりの木々が光に照らされてなんとも言えない美しさでした。田舎から出てきた母もそのスケールに圧倒…たった四人だけのお墓。でも考えてみたら、天皇はずっと神と考えられていたのだから、この御陵が作られ、大正天皇がこの地に葬られた時代、きっと当時は遠く離れた八王子に篭られた天皇陛下のお墓は日本人にとって、お墓だけど、お墓ではなく、畏れ多く、もっともっと悲しみの象徴であったのでしょう。私たちは観光気分で参拝ですが、そんな軽い気持ちで参拝できる場所でなかったということは この御陵の時間の流れが違いを教えてくれます。
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プロフィール
HN:
志我雨音(しがあまね)
性別:
女性
職業:
占い師・レイキヒーラー・主婦
趣味:
ゆっくりとひとりカフェ♪
自己紹介:
日記をただつれづれなるままに書くだけでなく、自分にも、皆さんにも何かを感じていただけるような文章を作り上げたいと思います。
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